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今日こそ
愁田が仕事を終え自宅のマンションに帰宅すると、まだ夜の九時前だった。
しかし、今日こそ決行すると決めた。
時間などどうでもいいことだ。
あれから一週間が過ぎた今でも心が変わることはなかった。
愁田はスマホをテーブルの上に置くとベランダに出た。
一歩前へ進む。
今度こそ、絶対に飛び降りるんだ。
決意したのにそれ以上前へ行くのを拒絶するかのように足が竦む。
愁田は深く長い息を吐き、心を落ち着かせる。
どうして、こんなことになったか考えてもみろ。
そう自分で自分に言い聞かせる。
ろくでもないことをしてきたからだ……。
愁田は思い返してみた。
大学生になって友人に誘われて、何気なく行ったギャンブルにはまってしまった。それも借金までするほどに。
雪だるま式に増えていく借金を返すために、母親に泣きついた。
しかしギャンブルをやめる事はできず、もう一度だけと言っては母親に借金を繰り返した。
やがてそのことを父親にも知られた。
呆れ果てた両親からとうとう縁を切られ、今に至るまで八年間絶縁状態が続いている。
結局大学を中退して、借金を返すために高賃金を謳う怪しげなネットの仕事を引き受けて以来、闇の仕事で生計を立ててきた。
愁田はどうしてもギャンブルをやめることはできなかった。どれだけの報酬を得てもあっという間に金を使い果たした。
愚かだと思っても蟻地獄にはまったかのようで抜けられない。
詐欺、恐喝、なんでもやった。そして殺人へと。
こんな仕事から足を洗いたいと思っても、殺し屋というものに、ひとたび足を踏み入れたら最後、抜けられないことを愁田は思い知った。
それは、生きている限り続けていかなければならないということだ。
そんな愁田でも、整った顔からときおり見せる翳の表情が女心を掴むらしい。
しかし、近寄ってきた女性も、愁田が夜中にこっそり出掛けたり、どんな仕事をしているか訊ねても決して言わないので、不信感を抱きやがて離れていった。
自分は失うものなどもう何もない。生きている限り罪を重ねるだけだ……。
愁田は最後の景色を目に焼きつけようとした。
なぜか今は灯りが恋しかった。
しかし、夜景が……この時間帯なら綺麗に見えるはずの夜景が……。
今夜はほとんど灯りがないじゃないか……。おまけにこの静けさはなんだ。
まだ良い子の眠る時間くらいだろう。大人の皆さんは起きてる筈だ。
それなのに、暗い……。まるで暗闇がどうぞと言わんばかりに、大きな口を開けて俺を呑み込むのを待っているかのようじゃないか。
下の方に引きずり込もうと手ぐすねを引いているようだ……。
愁田はまたしても逡巡する。
しかし、もう恐怖に怯えて死んでいく人の顔を見ることなど、自分のような肝っ玉の小さな人間には無理なのだ……。
終わりにするんだ。
愁田は空を仰いだ。
星々が煌めいている。
夜空が美しいじゃないか。俺の最後に相応しい日だ──。
愁田は満足した。
これで闇黒のような生活ともおさらばだ。
意を決し手すりを乗り越えようとした。その時、ピンポーンという音が響いてきた。
思わず、乗り出した身体を戻すと音をたどって振り返った。
ベランダの窓が開いていた……。
開け放った窓からベランダまでドアホンのチャイムが響いてきたのだ。
部屋に戻ると愁田はドアホンのモニター画面を見つめ応答した。配送業者だった。
そういえば……観たかった映画のDVDの宅配を、昨夜眠りに落ちる寸前の朦朧とした意識のなかで、つい、注文してしまった……。
それを観てからでもいい……か……。
愁田は張り詰めていた緊張が溶けて、少しホッとした気持ちで玄関へと行った。
リビングに戻ってソファーに座ろうとするとスマホが震えた。
愁田はしばらく震えるスマホを見つめていた。
しかし、電話に出ないでいたら、仕事に応じなかったら、殺し屋たちを束ねている闇の組織にすぐに自分は消されるだろう。残忍な制裁を受けてから……。
「はい」
深い沼に沈み込んでしまったときのような絶望した声で愁田は電話に出た。
あと一回で、今度こそ、この仕事を終わりにしよう……。
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