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今日こそ確実に決行する
愁田は依頼人の事情は訊かない。事情など訊いたら神経の細い臆病な自分はやっていけない。
感情をなくすことだ。
しかし、どんなにそう自分に言い聞かせても、殺し屋という仕事に慣れることはない。それはまるで真綿で自分の首を絞めているかのようにジワリジワリと心を侵食して脅かしている。
仕事を終えて自宅までの帰り道に雨に打たれた愁田は、そのびしょ濡れの身体のままテーブルの上にスマホを置くと、ベランダに出て、窓を閉めた。
今日こそ確実に決行する。
さっきまでの強い風雨は収まっていた。
しかし、台風は逸れてはいない。今夜はこれからもっと大荒れの天気になるだろう。
この天気も自分の最後に相応しいか……。
愁田はふっ、と自分を嘲笑った。
ふと、子どものころからのことが、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
思えば思春期のころから両親に迷惑をかけて生きてきた。
中学生になると勉強はそこそこにゲームセンターに入り浸り、親の金をくすめとって毎日のように遊び呆けた。他校の生徒と乱闘騒ぎを起こし、母親が学校から呼び出されたのは一度や二度ではなかった。
高校生になっても同じようなものである。
高身長で引き締まった体躯の愁田が、その端正な顔でギロリと睨むと凄みがあるらしく相手は怯んだ。
だが、実のところ乱闘なんて怖くて内心震えていた。ただ虚勢を張って勢いをつけてなんとかその場をしのいできた。
そんな愁田でも、なんとか、入れる大学に滑り込むことができた。今度こそまともに生きていこうと思った。
しかし、ギャンブルにはまってしまった。
要するに意思が弱いのだ。俺はクズのような人間だ……。
よしっ。今度こそ。
愁田は呟き、手すりに両手をつこうとした、その時、
「あのぅ……」という声が聞こえた。
愁田はびっくりして声のした方角を見た。
声は隣のベランダからだった。
ベランダの隣との隔て板の外側から若い女性が顔を覗かせている。
怯えたような声で、
「すみません。いきなり声をかけてしまって……これから、すごい嵐になりそうですね。ベランダに出て外の様子を見てたんですが、微かに声が聴こえたので声をかけてしまいました。あの……一人でいるのが怖くって……もし、よかったら、ですが、うちでコーヒーでも……」
悪くない……と、愁田は思った。
この間、出かけるときに部屋から出て来たこの隣の女性と、玄関前で初めて顔を合わせた。笑顔で挨拶をする感じのいい女性だった。
愁田は弾む声を抑えて、
「いいですね。着替えたら伺わせていただきます」 と、迷うことなく渋い声を響かせた。
すっかり気が削がれてしまったな……。
愁田はホッとした気持ちで部屋に戻った。
その時、テーブルの上のスマホが震えた。
「はい」
愁田はこのスマホを水没させてしまいたい衝動を抑えて電話に出た。
この仕事もあと一回、この仕事を終えたら今度こそ、今度こそ、終わりにしよう。
その時こそ、この世とは……。
しかし今夜はお隣の女性と束の間の恋をして──。
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