佐野部長代理と部員の久木田さん

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 後頭部と両脇に冷たいものが触れ、閉じていた目を開ける。 「飲めるか?」  至近距離にあった佐野さんの顔が離れて、蓋を開けたペットボトルを渡してくれる。両手に持って一口含むと、あっという間に口中に染みわたる。全身の全細胞の欲求に応じて身を起こし、一気に半分飲み干した。美味しい。 「まさに、命の水ですね。生き返りました。意識がこう、ふわっと抜けて、どこかに行ってしまいそうだったんですけど」 「熱中症になりかけてるだろそれ。飲め。冷やせ」 「何かの、儀式ですか」  後頭部と両脇によく冷えたペットボトルを当ててくれていたのだが。のみならず、横になっていた私の体の輪郭を取り囲む形で水とスポーツドリンクのボトルが並んでいる。佐野さんがわしゃわしゃタオルで顔と首を拭いている手を止めた。 「意識戻らなかったらぶっかけようと思って。一瞬マジパニクったから、体冷やすったってオレが脱がして許されるもんか、口移しで飲ますのはアリなのかどうか」 「そんなの悩む前に。救急車呼んでください」 「大人しく待ってらんない」  ふてくされたようにかぶせられて申し訳なくなった。うっかり意識が遠のきかけたことで随分心配をかけたようだ。さっき間近で見た佐野さんは汗だくだった。暑い中、よほど急いで、重いものを抱えて。ずらりと並んだ飲み物の列を見回して改めて感心する。 「これ全部、買ってきてくれたんですね」 「ダメ男もな、弱った後輩ほったらかすほどダメじゃないんだって」 「ついに、ダメ男、認めた・・・」 「そこか。感慨深くコメントするとこそこなのか」 「つい。すみません、ありがとうございます」 「オレのおかげで大分回復したようだな」  私が大丈夫とわかって、佐野さんの笑みもいつもの不敵さを取り戻したようだ。 「涙流して讃えてくれていいんだぞ? オレのおかげだもんな。二度とオレに頭上がんないよな。お礼に何でもしてくれるんだよな」 「抱いた感謝のすべてを台無しにする、ダメっぷりですね」 「役になりきってるとむしろ褒めてくれていい。もうちょい休んで、帰れそうなら帰るか」 「はい」  二本目のスポーツドリンクに手を伸ばす。汗が出るので、カバンからタオルも取り出した。佐野さんは、少し離れて床に胡坐をかいていた。膝の上でシナリオの束をパラパラめくって読み返している。こうして、こうきて、一人で呟きながら、しばらく首を傾げる。 「なあ久木田」  視線を向けられ、そのまま間が空いたのでなんとなく身構えた。 「はい」 「聞くけどさ、あと一回」  なんですか、催促しようとしたけれど、潤したはずの喉にひっかかって声にならなかった。 「ラスト。あと一回ひっくり返すっていうか、なんかもう一ひねり、サプライズほしくない?」 「そちらについては、持ち帰ってじっくり検討します」 「ん」  佐野さんは空想の世界に戻っていく。好きだけあって少しは真面目に遊んでいるらしい。  私の家は遠いので、着いたら報告の連絡を約束して一人で帰ると言い張った。 「またな」  両腕いっぱいに残りのペットボトル飲料を持たせてくれた。というか明らかに佐野さんが荷物になるのを嫌がって、お前のためのものだと押し付けられた。自転車を漕ぐ後ろ姿が見えなくなってから息をつく。  まだ、意識がおぼつかなかったのか。 〝聞くけどさ、あと一回〟  あのあと、付き合う? 聞かれたら。私、うっかり、肯いてたんじゃなかろうか。  果てしなくダメよりで特別イケメンてことはないけど。 〝飲めるか?〟  真剣なときはカッコいいんだな。ないけど、めったにそんなの。ほとんど。ていうか全然知らなくて初めて見たけど。  深呼吸を繰り返す。とにかく、危ういところだった。 〝またな〟  ぽっと顔が火照る。ただでさえ暑いのに、慌てて頭を振ってめんどくさいダメ男を追い出した。 終
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