一章 1

1/1
前へ
/44ページ
次へ

一章 1

 東京、新宿駅前の交差点が青になると、一斉に人の固まりが動き出す。  駅周辺の暗く湿っぽい路地裏。飲み屋がつらなる一角の雑居ビル二階に、その探偵事務所はあった。  整髪料でキチン整えられた黒の短髪に紺色のオーダースーツ姿の男は、いささか緊張した面持ちでこう言った。 「妻と浮気して下さい」 「ほう……」 探偵は吸い込んでいたタバコの煙を吐く。 「一つ聞いても良いですか?」 「はい」 「ここは探偵事務所として表向きは通っています。別れさせ屋は裏稼業だ。誰からここを聞きました?」 「それは……」 男は一瞬、間を置いてから答える。 「妻以外の女です」 「ははっ、回りくどい言い方ですね」 探偵は、銀色の灰皿に山と積まれた吸い殻で火を揉み消した。 「つまり、愛人って事ですか?」  男は四角折の青いハンカチを取り出し、額の汗を拭うと「はあ〜」と息を吐いた。「そうです。わたしは妻に彼女の事を悟られないうちに離婚したい」 「協議離婚をしたいと?」 「そうです。慰謝料など払いたくはないし、出来れば彼女からわたしに離婚を迫るように仕向けたいのです」 「で、晴れて愛人と結婚したいと?」 「そういう事です」 「なる程」 A 4サイズの白い紙をテーブルに滑らせる探偵。 「これは契約書です。記入願います」 「分かりました。その前にお聞きしたいのですが、費用はいくらかかりますか?」 「そうですね。対象者を落とせるまでどの位かかるか分からないので何とも言えませんが、はじめに着手金として八十万頂きます。別途、費用がかかる場合は、こちらから連絡します。後は見事に離婚成立された場合は、成功報酬として百万頂きます」 男はずり落ちてきた眼鏡を中指で上げる。 「結構、高いですね」 「ですね、やめますか?」 「いえ、慰謝料と財産分与に比べたら安いもんです。依頼します」 男は契約書に視線を落とした。 「住所と名前を書く欄がある。これはしょうがないとしても携帯ナンバーはマズい。次に会う日取りは今、決めたいです」 「つまり口約束ってことですか?」 「はい」  探偵は二本目のタバコに火を灯す。 「良いでしょう。ですが、ご安心下さい。こちらもプロです。個人情報は絶対に守ります。奥様のお名前、年齢、趣味や行きそうな場所も記入して下さい。なるべく詳細にお願いします。後、奥様の写真はお持ちですか?」 「はい。そう言われると思い用意して来ました」 男はひと通り記入を終えると、内ポケットから写真を取り出しテーブルに置いた。 「これが妻です」  探偵は写真を手に取りマジマジと眺める。そして男に視点を変えると、こう言った。 「佐倉忠彦(さくらただひこ)さん、貴方はずいぶんと女性の趣味が宜しいようで」  佐倉忠彦(さくらただひこ)年齢三十二歳。妻、佐倉亜由美(さくらあゆみ)年齢三十歳。子無し、専業主婦、趣味は料理。渋谷の料理教室ドリームキッチンに火曜と金曜は通っている。 「性格は温和で優しい……か」 探偵、東亮介(あずまりょうすけ)(三十一歳)は、対象者の写真をテーブルに投げた。 (こんな完璧な女を妻にしておきながら、佐倉忠彦は別れたいと言う。愛人はよほど良い女だろうな)と思う。 「さてと、仕事は明日からだし」  札の入った封筒をジャケットの内側に入れる。ソファーから立ち上がった時、奥の部屋の扉が開いた。 「あら、いたの?珍しい」  相変わらずキツネに厚化粧を施したような顔の妻、芽衣子が姿を見せた。一か月前、家賃滞納でアパートを退去させられてから、事務所横の八畳スペースがプライベートルームになっている。  今は二十時少し前、妻は探偵業や別れさせ屋を手伝うこともあるが、歌舞伎町のキャバクラでホステスもしている。これから出勤か、派手な身なりをしていた。 「声が薄っすらと聞こえたけどお客さん?」  コツコツと響くヒール音。芽衣子はキッチンに移動、冷蔵庫の扉を開きペットボトルのミネラルウォーターを喉に流し込む。 「いや、誰も来ていない」 亮介は内ポケットに手を忍ばせ背中を向ける。 「そうよね。滅多に客なんかこないもんね」 唇横のホクロが動いた。芽衣子は真紅の唇でクスリと笑う。 「あたしにばかり頼ってないで、アナタもそろそろ仕事したら?」  お互い二十六歳で結婚してから五年、この女は、いつもそうだ。常に嫌味を言わないと気がすまない性格らしい。キツネの面は性格が悪すぎる。こんな女だから、久々の収入を隠してギャンブルに使いたくなるんだよ。  亮介は妻にバレぬよう唾を吐き捨てる。現在、情けないことに、この妻の稼ぎに頼らなければ生活していけないのが実情。ゆえ逆らうことは皆無なのだ。 「行ってらっしゃい」 亮介は慣れた笑顔を貼り付け、出勤する芽衣子に手を振った。  その夜、彼はパチンコで八万負けることになる。 金も女にもツキのない人生。ホトホト嫌になる。  翌日「さてと、まずは対象者の家を見学に行こう」 亮介は薄手のジャンバーを羽織ると、行動を開始した。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加