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「あっ、そっか」
キツネが口元に手を当てる。
おいおい、食材以外に手を触れるなよ、亮介は顔をしかめる。でも「いや、大丈夫ですよ」彼は笑いながら胸の前で手を振った。
「俺が甲斐性なしだっただけの事ですから」
甲斐性なし……。これは本当だ。
亮介は亜由美からピーラーの使い方を教わると、せっせとジャガイモの皮むきに励む。途中、みりん、酒、醤油、砂糖と調味料を入れた時、亮介は忘れぬようにとメモを取った。「肉じゃがとは、実に奥深い料理だ」と彼が言うと、亜由美とキツネは声をあげて笑う。
楽しい時間は緩やかに過ぎてゆく。やがて三人で力を合わせた肉じゃがが完成した。皆で出来上がった料理を食べる時間、亮介はホクホクの肉じゃがを頬張り感動の雄叫びをあげる。
「うぉーっ、上手い!!」
キツネがたしなめた。
「ちょっと、声大きすぎ!恥ずかしいじゃないの!」
「すっ、すいません」
しゅんと下を向く亮介。
そんな亮介を見て亜由美が微笑した。
「でも、こんなに感動して貰えて嬉しいわ。料理って食べてくれる人がいるとやりがいがあるものよ」
キツネが言う。
「あら、亜由美さんだって旦那さんが食べてくれてるでしょ?」
「あっ……」
亜由美が左耳に髪をかけて俯いた。
「そうね」
凄く寂しそうな一瞬の表情を亮介は見逃さない。
彼は「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「えっ?」
顔を上げる亜由美。
亮介は、胸を拳で叩く。
「ここです。ここ」
キツネは訳が分からないといった顔をしている。亜由美は亮介の問いに小さな声で答えた。
「大丈夫……だから」
もしかしたら、亜由美は旦那の浮気を知っているのではないか?探りを入れる為、亮介は帰り際の亜由美をカフェに誘う。最初は戸惑いの表情を見せた亜由美だったが「はい」と浅く頷いた。
男女ということで、変な噂はたてられたくないと、亜由美が提案したのはドリームキッチンや自宅から遠く離れたカフェだった。
ログハウス風のこじんまりしたカフェ。客は二組だけ。亮介はブラックコーヒー、亜由美は紅茶を頼んだ。
早速、先程の亜由美の表情について口を開く涼介。
「誤解だったら申し訳ありません。佐倉さん、ご主人と上手くいってないんじゃないですか?」
「…………」
亜由美は沈黙で目を泳がせる。
「やはり失礼な質問でしたね。忘れて下さい!」
付け足しで「すみま……」まで言った時、「最初は気のせいだと思ってました」と彼女の弱々しい声が聞こえた。
亜由美は左耳に髪をかける。
「主人が私に冷たくなったんです。冷たいと言うより興味がない感じで……」
「そうですか……」
「そのうち帰りが遅くなって、今は二十四時を回らないと帰ってきません」
そりゃそうだろう。女といるのだから。亮介は心で吐き捨てる。
(旦那はもう、アンタに一ミリの興味もないんだよ)だが、次の言葉でピクリと睫毛が動いた。
「女でもいるのかなぁ」
これは気付かせてはならない。その前に亜由美を落とさなければ!
「女は極端な考えだなぁ」
亮介は笑った。
「ただの倦怠期かも知れませんよ。結婚して何年ですか?」
「五年です」
五年……ウチと一緒か。まあ、自分も妻に対して何の興味もないが。でも、ここは
「五年っていえば倦怠期ですよ。個人への愛が形を変えて家族愛になる頃ですよ」
「家族愛?」
「そうです。家族って空気でしょ?でも絶対にそこにいる。いわば旦那さんは亜由美さんに安心しているんですよ」
「なる程、何となく分かります」
亜由美が両手で白いカップを包む。左手の細く長い薬指に光るのは、シルバーの結婚指輪。
「後、一つ気になる事があるんですが」
なんだろ?亮介はゴクンと唾を飲む。
「何ですか?」
「東さん、さっきからコーヒーを一口も飲んでません。実はお嫌いとか?」
「あっ……」
亮介は、カップの中にある黒い液体をマジマジと眺めた。
「じっ、実は佐倉さんの前でカッコつけたくて、飲めないブラックコーヒーを頼んでしまったんです。参ったなぁ」
後頭部を撫でる亮介。そんな彼を見て亜由美が「ふふっ」と笑った。
「じゃあ、本当に好きなものを注文して下さい」
「では、お言葉に甘えて」
亮介はスタッフに声をかける。そしてコッソリと、チョコパフェを注文した。
これは演技でも何でもない。本当の事だった。
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