第一話 盲目

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第一話 盲目

 右側が寒いと感じるようになったのは、いつからだろう。  俺の手はいつも冷えていたが、彼女はよく手を繋ぎたがった。彼女にそれを言えば、「この冷たさが好きなの」と微笑んだ。  他人と手を繋ぐ習慣などなかった俺は面映ゆく思いながら、それでも気づけば、いつも彼女の手を握って歩いた。  そうして、俺は知った。その他愛ない行為が、これほど心を温めるのだと。  だというのに。  彼女の手にしばらく触れていないと気づいたのは、いつからだっただろうか。  ***  いつもの年よりも訪れの遅い冬を最初に感じた日だった。  腕時計を覗く俺こと雨宮(あまみや)一蹴(いっしゅう)にちらりと視線を寄越した三枝(さえぐさ)音緒(ねお)は、グラスをテーブルに置くと、やや乱暴な仕草で隣に腰掛ける。  対面の火塚(ひづか)正午(しょうご)は楽しげに笑っていた。 「この寒いのに、またアイスコーヒー?」 「まだ飲む気か。腹を壊すぞ。おまえは昔から――」 「もう! お腹なんて壊さないよ。子供じゃあるまいし」  正午の台詞に俺が言葉を足せば、氷をたっぷり入れた新たなグラスの中身をストローでつつきながら、彼女はこちらを見もせずに眉を寄せる。 「音緒ちゃんは昔からそれ、好きだよね。真冬でも飲んでる」 「うん、大好き」  遅れて合流した俺のカップのホットコーヒーは、とっくに空になっていた。  先客である二人の食事もとっくに済み、皿はすでに下げられ、卓上には空のグラスがいくつか載っている。  テーブルの下で足を組んで、ぶらぶらと動かした足先のローファーを履き直した正午がドリンクバーへ向かうために席を立つところを、音緒がにこにこと見上げる。  大学時代を共に過ごした俺たちは、いつも入り浸っていたファミレスで久しぶりに顔を合わせていた。  一般企業に勤務する俺と、いくつかのアルバイトを掛け持ちするフリーターの正午。そして、やはりアルバイトをしながら就活をしている音緒。  社会人になってからはこういう店を使うことがめっきり減った俺ではあるが、この三人で会うときは、暗黙の了解のように、当時通ったこの場所になる。  仕事上がりに呼び出しを受け、俺がここにやってきたのは三〇分ほど前だ。こちらに戻ってくる正午を見ずに、俺は隣の音緒の腕を引いた。 「明日もあることだし、そろそろ帰るぞ」 「えー、もう?」 「もう? じゃない。二十三時になる」 「来たばかりじゃない」 「おまえを迎えに来ただけだ」  諭すように言えば、音緒は相変わらずグラスの中の氷をストローで掻き回しながら、不満げに唇を尖らせる。 「まだ帰りたくないなぁ」 「音緒ちゃんは明日、フリーだよね? 僕もなんだ」 「俺は仕事だ」 「なら、一蹴は一人で帰ったら?」  ドリンクバーから戻ってきた正午が向かいの席に座りながら言い、音緒もうんうんと頷いた。その瞬間、心のどこかに燻っていた何かが爆ぜた気がした。 「……そうか。なら、そうさせてもらう」 「え、一蹴? 冗談でしょ?」 「おまえのことは正午が送ってくれるだろう」 「僕は構わないけど」  俺には持ち帰った仕事もある。  スーツの胸ポケットに手を入れて、財布から取り出した音緒の食事代を無造作にテーブルに置き、ビジネスバッグを取り上げた。  そのまま一人で席を立てば、音緒は少し驚いたような顔をして見上げてきたが、小さく息をついた俺は、彼女からゆっくりと視線を外した。  正直に言えば、そのときは、彼女が追いかけてくるのではないかと思わなくもなかった。店の外に出て、歩き出す前に一度だけ振り返る。  しかし、誰一人として出てくる者はいなかった。  片手に提げた鞄は重く、吹きつける風は殊更に冷たく、それは体だけでなく心も強張らせていくようだった。  ――深夜。玄関扉が控えめに解錠される音を聞き、ずっと開けていた瞼を閉じる。  息をひそめ、気配を窺うように、音緒が寝室の扉を細く開けた。  隣室の明かりはついておらず、暗闇の中、微かにアルコールの匂いがした。刹那、吐息のような声がかけられる。 「一蹴、寝てるの……?」 「……」  こんな時間まで何をしていた。ずっと正午と一緒にいたのか? 就活中の身で、そんなふうに遊んでいる場合なのか?  言いたいことは山ほどあった。しかし、それを口にするには俺は疲れすぎていた。  ごそごそとクローゼットを開ける音がしたかと思うと、隣室との境の扉はすぐに閉じられた。  一向に睡魔はやって来ない。疲れていたのは、体ではなく心のほうだったのかもしれない。  程なくして、隣の部屋から聞こえていた控えめな衣擦れの音が止まり、室内は再び静寂に包まれる。音緒はソファで夜を明かすつもりらしい。  起きていって、ひとこと言うべきだったのだ。寝室で眠れ、と。そんな場所では風邪を引くかもしれないし、疲れが取れないだろう。本当は、そう言ってやりたかった。  それでも何も言えないまま、俺は身を固くして黙っていた。  *** 「追いかけなくていいの?」  正午くんはそう言った。私は追いかけたいと思った。このままでは、取り返しのつかないことになりそうな気がして。  それなのに、正午くんは言葉とは裏腹に、立ち上がりかけた私の腕を掴んだ。さっきまでと打って変わった真面目な表情で、いつになく静かな口調だったので、私は思わず動きを止める。 「でも、それをしたら一蹴の思う壺だよね」 「え?」 「窮屈なんでしょ? あれだけ過干渉な男と一緒に暮らしてたら、誰でもそうなるよ」 「……一蹴は心配してくれてるだけだと思う」 「それはわかってる。でも、過ぎたるは及ばざるが如しって言うでしょ。一蹴も少しは気づくといいんだ。君が大切なら、君の気持ちにね」 「……」 「明日は休みだよね。呑みに行かない?」  本当に、このまま呑みに行ってしまっていいの? それも、正午くんと二人きりでなんて。  いいわけがない。一蹴は納得して先に帰ったわけじゃない。だけどそのときの私は、正午くんの言葉の一つ一つを、そうかもしれないと思ってしまった。  一蹴は大学時代に出会った頃からずっと真面目で、主張はいつも間違っていなくて、そして本人も、自身の言葉以上に在ろうと努力を惜しまない人だった。  お互いに好きになって、自然と一緒に暮らすようになった日々の中、もちろん、私だって彼の正しさを充分に理解していた。  成績優秀、品行方正な彼の辞書には、就職浪人なんて言葉は載っていなかったに違いない。難なく有名企業に入社した彼に、私の立場や気持ちはわからない。  だからと言って、一蹴は驕ったり見下したりなんてことを私にしたわけじゃない。いつだって、心から気遣ってくれているのはよくわかっている。  だけど、そうなんだ。  いつからなのかな。私は正午くんの言う通りに感じるようになっていた。  今日だけのことじゃない。私の行動に苦言を呈すとき、彼は私の言い分をあまり聞かない。就職に関してもそうだ。  だけど、どうしたって彼の言うことはやはり正しいのだ。そして、私はいつの間にか正論に縛られていると感じるようになっていった。  以前はそうじゃなかったのに。たくさんの時間を一緒に過ごし、話をして、お互いを理解して、そして抱き合って。私たちは、同じ時間を生きていると思っていた。  元々、表情の豊かな人ではなかったけれど、私の前では時々彼はその頬を緩めた。大好きと言えば、不器用な笑顔を見せてくれた。  彼がそういう顔をしなくなったのは、いつからだったのだろう。  それははっきりと思い当たる。一蹴が就職をしてからだ。あれ以来、すべてが変わったような気がしていた。  私に比べて、彼にとっての自由な時間は驚くほど減った。大学生の頃に好んで着ていたラフなシャツやジーンズが、ビジネススーツに変わった。襟足より少しだけ長かった髪が、短くなった。  そして、彼はいつの間にか自分の――というより、それよりももっと大きな社会のスケールというようなものでだけ、物事を測るようになった。  切れ長の瞳が細められ、形のいい唇の端がわずかに上がる、大好きだった一蹴のその微笑を、もうどのくらい見ていないだろう。  小さな諍いのたび、彼は忍耐強く私を諭した。でも、その挙句に意地になって、反抗的な態度を取ったり、睨みつけたりすれば、やがて彼は貝のように黙り込む。  一度だけ、一蹴が私を冷たく見下ろしたことがある。あのときの声の響きを、今でもよく覚えている。彼は、私にこう言ったのだ。 『羨ましい奴だな、おまえは』  あのとき、私の中の何かが凍りついた気がした。  いや、一度じゃない。二度目だ。さっきの一蹴の目も、あのときと同じだった。 「ねえ、どうするのさ。やめとく?」 「……呑みに、行く」  正午くんは私の答えを聞いて、満足そうに笑った。  だけど、口にしたカクテルに私は酔えなかった。正確に言えば、酔ってはいたと思う。  そこは正午くんの行きつけのショットバーで、本来なら呑めばふわふわと気持ちよく、楽しくなるはずなのに、グラスに口をつければつけるほど、心が重くなっていく。  いつの間にか、バーテンダーの背後の棚に置かれた時計の針は、午前一時を過ぎていた。不意に、一蹴のことを思う。彼はきっと、まだ眠っていない。  時計を見つめ、俄かに落ち着きを失くす私を、正午くんが覗き込んでくる。 「何? もう帰りたい?」 「……うん、ごめん」 「じゃあ、送ろうか」 「ううん、いい」 「電車、もうないけど?」 「わかってる。ごめんね」  アルバイトで稼いだ、なけなしのお小遣いだ。だけど、タクシーを使ってでも一人で帰らなきゃいけないと思った。  そうして帰宅した部屋は、玄関に小さい明かりが一つ灯っているだけで、しんと静まり返っていた。  リビングから寝室へ続く扉をそっと開けると、一蹴の体の形に盛り上がったベッドがあり、しかしそれは微動だにしない。  一蹴は、きっと眠ってなんかいない。けれど、その静寂は、彼がどれほど怒っているのかを鮮明に伝えてくるようだった。  だけど、そのときの私はどうしたらいいのかわからなくなっていたのだ。そこにあったはずの何もかもが、見えなくなっていた。
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