第二話 虚構

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第二話 虚構

 明け方に少し微睡んだだけで、決まった時刻に目が覚める。それは、社会人になってから身についた一種の習慣のようなものだ。  間もなく鳴るはずのアラームを止める。いつもなら俺が起き上がれば隣で身じろぎ、聞こえてくる眠たげな声が今朝はなかった。  そうだ、音緒はリビングで眠ったのだ。へそを曲げた俺のそばに来ることを憚ったのだろう。  まったく、どうかしていた。深夜近くのファミレスで、いくら正午がいたと言っても、彼女を置き去りにして帰るなんて。  言いたいこともあるにはあるが、それとこれとは話が別だ。昨夜に関しては、やはり俺が全面的に悪かったと思う。  ふと冷蔵庫の中身を思い浮かべ、出汁巻き玉子と、音緒の好物である大根と豆腐の味噌汁を朝食に作ろうと、脈絡のないことを考える。  音緒も料理ができないわけではないが、俺の作った味噌汁を彼女はとても好んでくれた。  *** 「音緒、昨夜は悪かった」  リビングへ続く扉を開けながら発した俺の声が、虚しく響いた。  そこにある二人がけのゆったりとしたソファは本皮張りで、共に暮らし始めた頃にはまだそれがなく、小さなテーブルの前に平べったい座布団を二つ並べていた。  就職をしてから最初の夏に二人で家具屋に行き、少し贅沢だろうかと思いながらも、貧相な部屋には不似合いのこれを買った。  あのときの音緒は遠慮がちに合革の物を指差したが、せっかくだから長く使えるものにしようと提案すれば、とてもはしゃぎ、俺は初めてのボーナスをこのために使った。  ここで一緒にコーヒーを飲んだ。借りてきた映画を観た。口喧嘩もした。戯れの過ぎた音緒に押し倒され、その気にさせられた俺が組み敷いたこともある。  使い込むことで増した革の風合いも、それ自体が二人で過ごしてきた軌跡のように見えた。他愛ない毎日を、それでも幸せだと思っていた。  ソファの片端に、きちんと畳まれたブランケットが置いてある。しかし、それを使ったはずの彼女がそこにいない。  見上げると、壁掛け時計は午前六時を示している。特別なことのない日常に、音緒が起き出す時刻ではなかった。  俺は半ば無意識に携帯電話を手に取ると、真っ先に音緒の番号をタップする。  呼び出し音が鳴り続け、やがて留守番電話の機械音に切り替わる。それを何度か繰り返してから、今度は別の番号をタップする。  駅への道を歩きながら、もう一度携帯電話を耳に当てた。こちらはすぐに繋がる。  しかし、気の急く俺に対して眠たげな声が、まるで他人事というように間延びしていて、俺を苛つかせた。 〈音緒ちゃん……? 何? 昨夜、帰らなかった?〉 「帰ってはきたが、朝にはいなくなってた。おまえのところへ行ってないか」 〈それは一蹴が口うるさいからでしょ。あの子も大人なんだし、いい加減に――〉 「いるかいないかを答えろ」 〈いないけど〉 「行き先に心当たりは」 〈ないよ。悪いけど、僕、まだ眠いんだ。じゃあね〉  正午は吐き捨てるように言って、通話を切った。俺は舌打ちしたいような気持ちで、勝手に沈黙したそれを胸ポケットに戻す。  学生時代から、正午は腐れ縁めいた俺たちの友人であり、三人の間柄は性別を超えた不思議な均衡を保ってきた。それは、俺と音緒が恋人という関係になっても変わらないままだった。  同級生ではあるが、音緒にとっては兄のような存在でもあり、すっかり正午のところにいるとばかり思い込んでいた俺は当てが外れた。しかし、それなら音緒はどこにいる?  部屋の様子が大きく変わっていたわけではなく、身の回りの品が持ち出された形跡もなかった。  けれど、彼女の姿だけがなかったのは十中八九、本人の意思によるものだろうと思う。こんなことは今までなかった。  もちろん、彼女には女友達もいる。正午に言われるまでもなく、子供でないことなどわかっている。  それなのに、こうして焦燥感に駆られるのは、この状況に陥った原因が自分にあると、俺自身が自覚しているからだろう。  いつもの時間。いつもの電車。  判で押したような朝の出勤風景。周りの顔触れもそう大差なく、混雑した車内に立つ位置さえ、ほぼ決まっている。  いくつか所持しているビジネススーツの一着を身につけ、ネクタイを締め、昨日と同じ鞄を持ち、同じ靴を履き、勤務先という、いつもと同じ場所へ向かう。これは、変えることのできない俺の義務だ。  ふと、どこからか流れてくる物悲しい旋律を耳が微かに拾った。  それは何年か前のクリスマスイブの夜、通りがかりの街の教会で耳にしたことのある曲で、俺が唯一知っている聖歌だ。音緒と二人、まだ共に大学生だった頃のことである。  キリスト教の信者でもないのに、御使いうたいてというその歌を聴き、俺は痛く心を動かされた。  イングランドの哀愁漂う民謡を書き換えたもので、その原曲が昔から好きなのだと音緒が言った。人を狂おしく慕うといった内容だった。  今年もまたこの季節が来たのか。  懐かしいその曲につい足を止めかけたが、気づけばその音は、まるで空耳だったかのようにやんでいた。  頭を占めるのは音緒のことばかりである。今は他のことが考えられない。  しかし、どれだけ気にかかっても、足は決まった道を辿り、勤務先へと向かう。サイクルを崩すことが俺には許されない。それが俺の社会人としての責務であり、ルールだからだ。  だが、もしもこれが正午だったら。  正午が俺の立場に立ったとしたならば、彼はどうしただろうか。  *** 「これでいいの?」 「……うん」 「とりあえず、コーヒーでも飲む?」 「……うん、ありがとう」 「氷は自分で入れてよね」  最低だ。最低のことをしている。  寝起きの正午くんは特に何も聞かず、早朝に訪れた私を部屋に入れてくれた。  やや潔癖症の一蹴と違って、正午くんの部屋は本やCD、服なんかが適度に場所を取っていて、どこか落ち着く。  テーブルの上に置かれた彼の携帯電話が、まるで計ったように鳴り出して、そこに一蹴の名前を見た彼はこちらに視線を寄越した。  何も言わない私に一つ頷くと、やれやれといった笑顔を見せてから、通話ボタンをタップした。  一蹴と暮らす部屋のソファの上で、一睡もできずに朝を迎えた。隣室の扉は、朝まで一度も開かなかった。  謝るべきだったと思っている。一蹴の言葉を蔑ろにしたこと。彼の恋人としての私の行動は、普通に考えて非常識なことだと理解していた。怒られて当たり前だ。それなのに、私は謝れなかった。  一蹴の顔を見ることが怖くて、昨夜の私はどうしてももう一度開けることができないあの扉を、ただじっと見つめていた。  朝を待って、衝動的にここへ逃げてきて、おまけに正午くんに嘘の片棒まで担がせている。  本当に、最低だとわかっている。だけど――。  付き合い始めたばかりの頃、一蹴は不器用な口調で愛を告げてくれた。切れ長の目元を少し染めて、照れたような、低く掠れたその声がとても好きだった。いつも冷たい彼の手が熱を持つときは、とても幸せだった。  私を限りなく幸せにしたあの表情も、声も、仕草も、いつからかすごく遠いところに行ってしまった気がしていた。もうずっと長い間、彼に触れていなかった。  正午くんが、私の目の前に氷の入ったコーヒーを置く。そろりと見上げれば、彼自身はダイニングに立っていって、マグカップに口をつけた。 「音緒ちゃんはさ、女の子の友達もいるのに、どうしてここへ来たの?」 「……ごめん」 「悪いとは言ってないよ。僕は構わない」  正午くんの言葉に何を言うこともできず、思わず黙り込んでしまう。そんな私に、正午くんは軽く肩を竦めた。 「少し出かけるけど、自由にしてていいから。あ、掃除だけしといてくれると助かるな」 「わかった。迷惑をかけてごめんね」 「だから、そんなことは言ってないってば。なんなら、ずっといてもいいよ。掃除係として」  のんびりとした口調で、そして、いつもより少しだけ優しい顔をする正午くん。彼にとってもこんなこと、本当は迷惑に決まっているのだ。  だけど正午くんは、「喧嘩をしたの?」とか「一蹴が心配してたよ」なんて、ひとことも言わない。  彼の携帯電話から微かに聞こえてきた声には、普段は冷静な一蹴の、苛つきとも焦燥とも取れる響きが宿っていたけれど、それでも何も聞かなかった。  女友達のところに行かなかったのは、私が見栄っぱりのせいだ。彼女たちは、きっと根掘り葉掘り追求するに違いないから。  自分でも整理のつかないこの感情を、どう言葉にしていいのかわからない。  正午くんは、いつも私が話さないことを聞き出そうとはしない。結局、そんな彼に私は甘えている。私はずるい。こんな自分が嫌で仕方がないのに。  その後、正午くんから渡された鍵をポストに入れて、ため息をついた。  部屋の片づけをして、軽く掃除機をかけ、お礼に夕食でも作っておこうかと思ったけれど、それは出過ぎたことだと考え直して、やめにした。  いてもいいよと言われても、正午くんの好意にこれ以上甘えるのは、さすがに筋違いだ。そして、私は一蹴に謝らなければいけない。こんなふうに騙したことを。  外気は冷たいけれど、今日はよく晴れていて、私の心に蟠る思いなんてお構いなしに空は明るく、それがなんとも言えない寂しさを連れて来る。  十五時を少し過ぎた頃。まだ一蹴は家に戻っていない時間だ。帰宅は早くても二十時を過ぎる彼のことだ。なのに、家へ戻ろうとすれば、自然と足が重くなった。  駅までの道のりをぶらぶらと歩きながら、けれど無駄遣いなんてできない私は、結局時間をろくに潰せないまま、電車に乗り、最寄り駅に下り立った。  改札を出て、つい自宅とは反対の方向へ足が向いたのは、まだ躊躇う気持ちが残っていたからだ。  冬の日は早くも傾き始め、寒さが身に染みてくる。のんびりとした住宅街の一角で、見覚えのある風景と出会った。そこには、忘れ去られたような小さな公園があった。  不意に思い出す。あれは何年前になるだろう。一蹴と手を繋いで、この道を歩いた。彼の就職が決まった冬だった。  あれはその年、初めての雪が降った日で、今日よりもずっとずっと寒い日で、細かい雪に、街が、家々が、粉砂糖をかけたみたいに白く染まっていく様子を、二人で歩きながら眺めた。  繋いだ手に力を込めれば、彼は握り返して、「音緒の手は温かいな」と言った。たったそれだけのことが、ひどく嬉しかった。  よく晴れた今日の風景はあのときと全然違うのに、覚えている。だって、あれは二人で迎えた初めてのクリスマスイブの夜だったから。  公園のベンチに座って、あの日と色の違う家々を眺めていると、心に甦ってくる音楽がある。体はどんどん冷えてくるのに、私は動かなかった。  あのとき、私の大好きなグリーンスリーブスの旋律が、角を曲がったところにある小さな教会から流れてきた。  それは女の人の綺麗な声が、救い主の誕生を祝って歌い上げるクリスマスキャロルだ。  シャンパンもご馳走もないのに、粉雪の中で彼と手を繋いでいるだけで幸せで、時々顔を見合わせては二人して聴き惚れた。  くしゃみをした私に眉をひそめ、自分の首から外したマフラーを巻いてくれた一蹴の心配そうな顔も思い出せる。  目を閉じていると、今も微かに聴こえてくる気がした。あの物悲しくも美しいメロディが。原曲の歌詞は空で言えるほどだ。  クリスマスが近いから、ミサのために練習をしているのかもしれない。音に合わせて、口の中だけで歌ってみる。  心からあなたを愛し  そばにいるだけで幸せだった  あなたは私の魂そのもの  あなた以外の誰がいるというのか  あのときと、私の心は変わったんだろうか。寂しさが、彼への好きの気持ちを歪ませていただけなんじゃないだろうか。  辺りはもう暗くなり始めていた。  ふと、一蹴に連絡を入れなきゃと、焦りにも似た気持ちが湧き上がる。  バッグに入れっ放しで、朝から見ていなかった携帯電話を取り出せば、暗い画面の左上に、緑色が点滅していた。  それはすべて一蹴からの着信を告げるランプだった。メールもいくつも届いている。恐る恐る開けば、そのどれもが、「どこにいる?」「無事か?」「連絡をくれ」と告げていた。  一蹴は仕事中に個人的なメールや電話をするような人じゃなかった。それなのに、どれほど心配してくれていたのか。素っ気ない文字の数々が、泣きたいほど私の胸を締めつけた。  家で彼を待とう。帰ってきたら、彼に謝ろう。そして、話をしよう。彼の話も聞いて、そして、私の話も聞いてと言おう。  喧嘩になると、お互いに意地になって縺れてしまうものだ。私の悪いところを素直に謝って、冷静に落ち着いて話し合えば、まだ分かり合えるのかもしれない。少し、お互いを見失いかけていただけだと思いたい。  掌の携帯電話に視線を落としたまま、私は踵を返した。
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