第三話 崩壊

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第三話 崩壊

 あと二週間余りで今年が終わる。どこの企業も多忙だろうが、俺の職場もその例に漏れない。  そんな中、いつもより早く退社したのは偶々仕事が早く片づいたためであり、決して意図したものではなかった。  本来なら、年末に向けてさらにずれ込んでいく業務に当たらなければならないと考えるところだが、今日に限っては、この機会をありがたく受け入れた。  電車の窓から見える街は、乾いたような冬の色をしていた。こんなふうに街を眺めるのは、いつ以来だろうか。今、この街のどこに音緒はいるのだろう。  携帯電話に期待した着信は未だなく、呼び出した番号は繋がらず、朝からもう何度目かわからないメールを送信する。  通勤時間帯と違って混雑のない車内は、気が逸る俺をよそに、どこかのんびりとした空気を漂わせていた。  視界の端で、大学生らしい男女が頬を寄せ合うように何事かを語り合いながら、時々見つめ合い、小さな笑い声を上げる。  ふと、“クリスマス”という単語が聞こえた。今の彼らには、彼ら二人の小さな世界がすべてで、それはきっと、この上なく幸せな場所なのだろう。  仕事に追われる俺は音緒と向き合う時間を忘れ、話を聞くどころか、彼女自身をろくに見ていなかったように思う。  自分の落ち度に気づき始めていた。俺なりに音緒を大切に思い、気にかけてはきた。  しかし、それが柔軟性のない考え方の押しつけとなり、知らない間に彼女を追い詰めていたのかもしれない。独り善がりばかりで、心を推し量るということがまるでできていなかった。  昨夜、ファミレスで俺を見上げた音緒の瞳を思い出す。  もうずいぶんと長い間、音緒の笑顔を見ていなかった。かつての彼女は、手を繋ぐだけであれほど幸せそうに笑ったのに。  正午にできて俺にできないこととは、恐らく、これに類したことなのだろう。  ***  日が高いうちに帰宅するなど、何ヶ月もなかったことだ。  部屋に戻り、コートや上着を脱ぐことも忘れ、音緒の番号を呼び出す。しかし、コール音が虚しく響くだけで、やはり声は聞けない。  向かい合って話がしたい。刻一刻と時間だけが流れ、時間を追うごとに焦燥は募り、宛てがなくても捜しに出ようとしたとき、沈黙していた手の中の携帯電話がメール受信を知らせた。 『ごめんなさい。一蹴に謝りたい。今から家に帰ります』  それは、待ち侘びていた音緒からの返信だった。  そのメールに心からの安堵を感じたためか、肩に入った力が抜け、思わずソファに沈み込む。  程なくして、インターフォンが鳴った。どんな顔で迎え入れるべきか迷いながらも、ソファから立ち上がり、玄関扉を開く。しかし、そこにいたのは音緒ではなかった。 「ああ、雨宮くん。いてくれてよかった」  勤務先の先輩に当たる女性社員が満面の笑みを浮かべ、わずかに肩を落とした俺にはまったく気づかない様子でそう言った。  面食らう俺の手を取り、バッグから取り出した角封筒を載せる。 「せっかく早く上がれたのに、ごめんなさい。やっぱり、今日のうちに、と思って。お昼、ありがとう」 「どうして、この住所を?」 「年賀状を貰ったでしょう。手帳に控えてあったの」 「金は返さなくとも構わないと言いましたが」 「うん。雨宮くんの優しさは嬉しかったんだけど、やっぱり」  それは、同行して得意先に年末の挨拶に回っていたときに、会社に財布を忘れたと言う彼女の昼食代を立て替えた分だ。大した金額ではないので、返すには及ばないと伝えてあった。  帰社したあとは、そのまま顔を合わせることなく帰宅した俺だが、それでは悪いと、こうして家まで届けに来たのだと彼女は語る。  足を運ばせた以上、無下にもできないと思うが、正直に言えば、今はそれどころではないという気持ちのほうが強かった。  俺の肩越しにさり気なく中を覗き込む彼女を部屋に上げ、茶の一杯でも振る舞うのが大人の礼儀というものかもしれない。しかし、俺はそうしなかった。  わざわざ訪ねてくれたことには申し訳ないと感じ、丁寧に謝意を表したが、今は取り込み中であることを手短に告げれば、彼女は少しだけ顔を曇らせた。 「雨宮くんに時間があったら、お礼に食事でも、と思ったんだけど」 「すみませんが、今日は……」 「それなら、別の日はどう? あ、イブの日なんかは予定が入ってる?」 「いや、俺は――」  言いかけたとき、アパートの公共廊下を歩いてくる音緒の姿が視界に飛び込む。彼女は驚いたように目を見開き、三メートルほど先で、ぴたりと立ち止まった。 「音緒」 「……」  俺の呼び声など耳に届いていない様子で、音緒は先輩女性と俺を見比べている。先輩女性は俺の視線の先に目をやると、こてんと首を傾げた。 「あら、雨宮くんと先約の方かしら?」 「彼女は……」 「ごめんなさいね。それじゃあ、また明日ね。雨宮くん」  俺の言葉を遮る形で先輩女性はふわりと微笑み、音緒をじっと見つめてから、その脇を通り過ぎた。  音緒は小さく会釈をしてから振り返り、彼女の姿が見えなくなるまで、そちらを見ていた。やがて、ゆっくりとこちらに向き直る。 「……ただいま」 「……おかえり」  玄関先で、俺たちはぎこちなく挨拶を交わす。音緒はどこか気まずそうな表情で俺を見つめていたが、不意に静かに目を伏せた。 「昨日は勝手なことをして、ごめんなさい」 「いや、俺も大人気なかった」 「帰り、早かったんだね」 「仕事が早く終わったんだ。……その、さっきのは会社の先輩だ」 「そう、綺麗な人だね。帰しちゃってよかったの?」 「用は済んだ」  部屋に入ってからの音緒は、まるで自分のほうこそが訪問者とでも言うように、ソファに腰を下ろすこともせず、立ち尽くしたままだった。  彼女とこれまでのことやこれからのことを話し合いたいと考えていたが、その場に異様な空気が流れる。  一度黙れば、それに続く言葉の端緒を見つけられず、互いに沈黙する。これでは、いつもの諍いと変わらない。 「……あの人と出かけるところだったんじゃない? わざわざ早く帰ってきて」 「違う。あれは――」 「ううん、それはいいの。一蹴の自由だし。それより、私、少し眠くて……」  事の経緯を説明するが、音緒はそれには答えずに目を逸らし、早々に会話を切り上げようとした。ソファの上では、よく眠れなかったのだろう。音緒の声は疲れていて、そして冷めていた。 「誤解をされるのは困る」 「別に、そんなことは言ってない」 「俺は、音緒に顔向けできないようなことはしない」 「……ごめん、寝てもいいかな」  音緒はどこか傷ついたような眼差しで俺を一瞥した。  こんなやり取りのために早く帰宅したわけではない。今話さなければならないことが他にある。  しかし、眠りたいというのを引き留めることはできず、寝室へ続く扉のノブにかけた小さな手を黙って見つめる。  音緒はさっきの件を誤解していると感じる。間が悪いと言えばそれまでだが、何も疚しいところがない俺には、今しがた説明した以上に弁明のしようがない。  実際、なぜこうして拗れてしまうのかがわからない。互いの心が、まるで見えていない。理解したいと思い、だからこそ、今日は彼女と向き合おうと考えた。  けれど、それすら許されず、言葉をかければ、却って彼女を傷つけてしまうのならば――。  あれほど近くに感じていたはずの音緒が、とても遠く見えた。  音緒が寝室に籠ってしばらくしてから、俺は意を決して扉を開けた。明日からはずっと仕事の多忙が見込まれ、こうして時間を取ることが難しくなる。 「音緒」  カーテンも引かないまま、外灯が射し込むだけの薄暗いベッドの上で、壁のほうを向きながら横たわる音緒は反応をしない。  その心許ない小さな背中を毎晩見ていた。抱き合うよりも、俺たちはいつの間にか、背中ばかりを合わせていた。  ほんの少し手を伸ばせば触れられるところに、いつも彼女はいたのに。失うことを考えることもなく、その存在を当たり前だと思い、いつしか慈しむ気持ちを忘れていた。  だから、やり直したい。  音緒の思いを切実に知りたい。俺に足りなかったもの。そして、彼女が俺に何を望んだのかを。 「音緒」  呼吸を止めたかのように動かない音緒の肩に手を触れる。細い肩は、俺の冷えた手に体温を伝える。  この温かさが、本当はずっとそばにあったのだ。愛しいという気持ちが胸に迫り、その肩を引き寄せようとすれば、音緒が身を強張らせた。 「音緒、少しでいい。話を――」 「ごめん。今は、ちょっと……」 「話をしないと、いつまでもこのままだろう? 俺はもっと理解したい。音緒のことを」 「一蹴は、私なんかより、もっと他に……」 「他? さっきのことなら誤解だと言った。今、考えるべきなのは俺たちのことで、他人なんて――」 「そうじゃなくて、私は……」  俺の手を逃れようとして身を捩り、こちらを振り返った瞳は涙で濡れていた。  悲しみを湛えた眼差しは俺を拒んでいるようにしか見えず、その頑なな様子に、伝え合えないもどかしさを感じる。 「……ごめん」  刹那、音緒は再び目を逸らしながら謝った。  なぜ、彼女が謝るのだろう。俺は上辺の言葉ではなく、音緒が心から思うことを聞きたいというのに。  この感覚は思慕か情動か、それとももっと別の何かによるものなのかはわからないが、焦りを覚える。体の奥から制御ができない感情が湧き起こってくる。  衝動に突き動かされた俺は彼女の上に覆い被さり、驚いたように俺の胸を押し返す手首を取って、その身をベッドの上に押さえつけた。弾みでベッドヘッドの照明スタンドが床に落ち、派手な音を立てる。 「やっ……」 「音緒、俺は……」 「やだ、一蹴……!」  見開かれた瞳は涙を流し、唇は拒絶の言葉だけを零す。その唇を塞ごうとすれば、彼女は激しく抗って顔を背けた。  見下ろす音緒の横顔は、俺と視線を合わせることさえ避けている。彼女への想いが行き場を失くし、虚しさとやり切れなさに苛まれる。 「……そんなに、俺が嫌か」 「ちが……、そうじゃ……」 「俺に触れられるのが、そんなに苦痛か」 「違う、の……」 「なら、なんだ。おまえは一体――」 「お願いだから、責めないで。正午くんはそんな言い方、しなかった……」 「正午? どうして、そこで正午の話になる?」  音緒の口から突然出てきた名前に眉をひそめると、音緒ははっとした様子で目を見開き、言葉を詰まらせた。その瞬間、俺の中で一つの仮説が浮かび上がる。 「音緒」 「……」 「おまえは今日、……どこにいた?」  綻びは目に見えないほど小さなもので、しかし、ボタンのかけ違いのように確かに違和感があるものだ。  最初は小さかったそれは、いつの間にかどんどん大きくなっていき、気づいたときには最早誤魔化しが利かず、どう修復していいのかもわからないほど、大きな溝となって目の前に横たわる。  思いやれば、それが傷となる。どこにもやり場のない感情は、渦を巻いて己を内側から壊していくようだ。  薄闇の中で、悲しいほどにはっきりと思い知らされる。もう、このままではいられないのだと。  俺はゆっくりと身を起こす。視線を落とせば、安物のスタンドが無残にも床でひしゃげていた。  そして、毎年のこの時期なら、そのスタンドと並べてあるはずの、音緒がいつかどこかの雑貨屋で買ってきた小さなクリスマスツリーが今年はなかったことに、今さらになって気づく。  大学時代から数えれば、どれほどの月日を共に過ごしてきただろう。音緒と、そして正午と。  周囲からは、俺と正午は正反対の人間だとよく言われたが、もちろん、当人同士も長くそう思ってきた。嗜好も、考え方も、生き方も、俺たちにはおよそ共通点などどこにもなかった。  こうして交流が続いてきたのは、よくある腐れ縁というものなのかもしれないが、俺は自分とは何もかもが違う人格である正午を、それでもずっと信頼していたからだと思っている。  就職が決まったとき、「一蹴らしいね」と、ほんのわずかに皮肉を交えながらも、素直に祝ってくれた。  ネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲った俺と、丈の短いカーゴパンツから日焼けした足を伸ばしていた正午。夏のように気温の高い春の終わり。安い居酒屋で一緒に酒を呑んだ。  それぞれが違っても、それは当たり前のことだ。なぜなら、人は誰もが他人に成り代わりようがなく、だから人というものは自分自身を生きていくしかないからだ。  そんなわかるようなわからないような話をした俺に、あのときの正午は、「だから、僕にとって一蹴は面白い」と笑った。  ***  俺には頻繁に時計を見る習慣があるが、このときに限っては時間を把握していなかった。腕時計を外していたのだ。  いつもならば非常識と考える深夜帯の電話であるが、躊躇うことなく呼び出せば、それは思いのほか、すぐに繋がった。 「聞きたいことがある」 〈何かな? もう寝てたんだけど〉 「すぐに終わる」 〈そう。何?〉 「おまえは、音緒が好きなのか」  正午が小さく息をついたのが、電波越しに聞こえた。たった今まで、ひどく面倒くさそうだった声の調子が俄かに変わる。 〈ずいぶんと単刀直入じゃない。それ、答えなきゃいけない?〉 「いや、いい。なら、質問を変える。俺が電話をしたとき、音緒はどこにいた」 〈うーん、もう隠しても無駄ってことかな〉 「嘘をついたのか」 〈それは仕方ないでしょ。僕なら、音緒ちゃんにあんな顔をさせないのに〉  悪びれた様子もなく、正午が告げる。そのどこか挑発的な物言いに、俺は苛立ちを覚えた。 「どうして。おまえは一体、どういうつもりで……」 〈一蹴は肝心なところでいつも抜けてる。まだわからない?〉 「どういう意味だ」 〈僕が好きでもない子の茶番に付き合ってあげるほど、心が広いとでも思うのかな〉  正午は、電話口の向こうでくすりと笑った。その笑い声が、俺の中の何かを震わせる。怒りとも悲しみともつかない感情が込み上げてきて、俺は唇を噛んだ。 「……音緒も、おまえのことを」 〈さあね。そんなこと、僕は知らない〉 「……そうか」  誰もが等しく望みを遂げることは不可能に違いない。だが、己の心に忠実になることなら誰でもできるはずだ。それが、自分自身を生きていくということなのだと思う。  今の俺は、どうしたいのか、何を求めているのかを見失いそうになっている。  ただ、一つだけはっきりとわかるのは、音緒を俺から自由にしてやらなくてはならないということだ。そして、俺自身も音緒と出会う前に戻って、己を見つめ直したい。  今の俺にできるのは、もうそれだけだ。
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