第四話 聖夜

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第四話 聖夜

 ベッドの端に腰掛けた一蹴は、私が泣きやむまで、ずっと同じ態勢のまま黙っていた。  今が何時かなんてもうわからなくなっていて、スタンドランプは壊れてしまったし、月もなく、窓から射し込む外灯のわずかな光のおかげで辛うじて物の形が見える夜の中では、時間の流れがまったくわからない。  やがて、上体をこちらに向ける気配がして、彼は静かに口を開く。  うつ伏せで枕に顔を埋める私の頭上から聞こえるのは、努めて感情を抑えたような声。そしてその言葉は、私にとっての最後通牒とも取れるようなものだった。 「俺たちは離れたほうがいい」 「……それ、別れるってこと……?」 「そうだな。今は」 「今は……」  小一時間ほど泣いて声も枯れてしまい、まともな返事ができず、くぐもった声で、一蹴の言葉を噛み締めるように繰り返す。  ここに戻るまでの私はこんなことが予想できていなかったから、受け止めるのにこれからたくさんの時間がいるだろうと、ぼんやりと感じた。  一蹴は、もっと怒るのだと思っていた。それなのに、私を傷つけないように気遣ってくれているのが、その話し方でわかりすぎるほどにわかる。  最後のときになって、そういう彼の優しさが余計に私を打ちのめす。  こちらを向いてくれと言われて、涙でぐちゃぐちゃになった顔を少し上げれば、彼は私の頬に手を伸ばしかけ、だけどその手を宙で止めた。  躊躇うようなその手が新たな涙を誘おうとするので、私は必死に唇を引き結ぶ。 「このままここにいていい。賃料は、音緒がきちんと収入を得られるまで俺が支払う」 「……私が、出る……」 「残るほうが辛いか」 「……うん」  私の言葉に、一蹴は一つ頷きを返す。 「わかった。正午がおまえの求めるものを持ってるなら、俺のことは気にするな。止めるつもりはない」 「……」 「それと、これだけは理解してほしい。俺は、音緒以外の女性に心が動いたことはない」  一蹴は少しだけ痛みを耐えるような表情を浮かべながら、小さく笑った。  きっと、それが彼の唯一の気持ちの吐露だ。だけど、もっと責められてもよかった。当たり前だ。私は一蹴に嘘をついたのだから。  ずっと見たかった笑顔を、最も悲しい形で見ることになったのは、私に与えられた一種の罰かもしれない。  彼の誠実さは誰よりも知っている。誤解をするなと言ったけれど、私の嫉妬は誤解をしたせいではなかった。それは、会社の女性に一蹴が奪われるという嫉妬とは少し違っていた。  あのとき、あの女性は一蹴と対等な立場で話をしていた。そのことが、私のコンプレックスを強く刺激したのだ。  卑屈な私なんかより、ああいう女性のほうが一蹴には相応しいのだろうと思った。それはもちろん、一蹴のせいでも、あの女性のせいでもなくて、すべては私自身の問題だったのだ。  見栄っ張りのくせに生き方を決められず、中途半端で自分の居場所を見つけられず、一蹴に甘え、正午くんに甘え、そうして、ただ拗ねていた。そんな自分に、いい加減に嫌気が差していた。  だから私は一度、ちゃんと一人にならなきゃいけない。それでも、この瞬間が悲しくて悲しくて、今になってどれだけ彼を好きだったのか痛いほどに気づいて、胸が潰れそうだった。 「困らせてばっかりで、ごめん」 「……いや。喧嘩もしたが、音緒といた間、やっぱり幸せだったと思ってる」  後戻りなんてできないのに、勘違いをしてしまいそうになる。もしも別れたくないと言ったら、一蹴はなんて答えるだろう。  一度こうと決めたら、彼は決して翻さない。  それをわかっていながら、夢みたいなことを一人で思って、また泣きたくなる。目を腫らしたまま、誤魔化すように微笑んだ私の顔は、とても間が抜けていたに違いない。  *** 「一蹴さ、恥ずかしいと思わない?」 「何がだ?」 「だって、イブに男二人で寂しく呑んでるなんて、恥かしくて耐えられない。もう帰っていい?」 「誰も見てないだろう」 「そういう問題じゃないの」 「帰るのはいいが、誘ったのは正午のほうだろう」 「合コンに行こうって言ったんだけどね、僕は」 「行きたいなら、おまえは行けばいい」 「……まあ、一蹴のその格好じゃ、ね」  言いながら、正午はスーツ姿の俺に視線を向けた。仕事上がりだから当然のことで、それに文句を言われる筋合いはない。  そこはクリスマスなどまったく関係のない佇まいのラーメン屋兼居酒屋で、狭い店内の高い位置に置かれた箱型のテレビが、夕方のニュースを流している。他に客はなく、俺たちは二卓のうちの一つに席を取っていた。  正午は羽織ったままのモッズコートの前を掻き合わせると、ガタッと音を立てて木の椅子を引いた。そして、厨房に向かって振り返り、空の銚子を差し出しながら新しい酒を注文する。 「帰るんじゃないのか?」 「あと一本だけ付き合う」 「変な奴だな」  俺の言葉に、正午はテレビを見上げながら、ふんと鼻を鳴らした。その姿を横目に、俺は猪口に残っている酒を飲み干す。この店は、俺たちが大学生だった頃から変わらない。  そのとき、銚子を運んできた奥さんがそれを正午に手渡しながら、彼の視線を追うようにテレビを見上げ、驚いたように目を瞬かせる。 「あれ、初雪?」  その声に厨房からぬっと顔だけ出し、妻に倣ってテレビを見上げる無口なこの店の店主も、やはり何も変わらず、あの頃のままだ。 「道理で寒いわけだ」  そう言って、奥さんは擦り硝子の戸口に一度だけ目をやると、こちらに灯油のストーブを向けた。 「ホワイトクリスマスってやつ?」 「そうらしいな」 「あーあ、こんな日に彼女もいないなんて」 「おまえにはいくらでもいるだろう」 「だって、本命がいないんだよ」  正午は今しがた受け取った銚子の酒を、つまらなさそうに猪口に注ぎ足す。  テレビの音声はクリスマスを特集した番組に切り替わり、不意に流れてきたのはあの曲だった。  それはイングランド民謡と同曲のクリスマスキャロルだ。この店の様子はその曲と不似合いで、それでも、懐かしいその旋律が俺の心を刹那、一年前に飛ばした。 「あれから一年が経つね」 「……ああ」 「じゃあ、僕はそろそろ行こうかな」  正午の言葉はどの場面のいつからのことを指しているのか定かではないが、まるで心を読んだような台詞に、一種の感慨を持って俺は頷く。  彼は再びコートの前を合わせると、厨房にひと声かけ、そのまま店をあとにした。  ***  夕方の雪は少しちらついただけで、もうやんでいた。でも、それをきっかけに気温が下がったようだ。  通勤用のスーツはスカートで、厚手のタイツにウールのコートを着ているものの、机の引き出しに入れた手袋を忘れてきたことを、私は心底悔やんだ。会社を出しな、少し慌ててしまったのだ。  周囲からはイブデートかと冷やかされて、別にそんな約束はなかったのだが、私にとって、これは確かにデートみたいなものだから、少し気恥ずかしかった。  十八時半からのクリスマスミサは一般に開放されていて、クリスチャンでなくても礼拝堂に入れる。だけど、入室は時間厳守なのだ。  去年と違い、引っ越して距離が遠くなったこの教会まで、会社から優に一時間はかかった。  閉じられた教会の扉の前で、間に合わなかったかとため息をつく。  でも、あともう少し待てば、厳かなパイプオルガンに乗せて流れてくるあの歌を聴けるから、それまで。  教会の前の細い道を曲がった例の小さな公園まで、私はゆっくりと足を進めた。  凍てついたアスファルトも、家々の形も、何もかもがあのときと同じ。  いつかのイブに、この上ない幸せを感じながら、一蹴と手を繋いでこの道を歩いた。そして、一番悲しかったあの日も、やっぱり私はこの道を歩いていたのだ。  幸せも悲しみも、涙が枯れ果てるほど苦しい気持ちでさえ、全部、ずっと忘れたくないと思った。一蹴と過ごした、たくさんの日々を。 「音緒」  懐かしさのあまり、空耳が聞こえてくる。  あの声が、とても好きだったな。彼はいつも落ち着いた静かな低い声で、私の名前を呼んでくれた。寒さで強張る頬が少しだけ緩む。  近くにいすぎたせいで、いつの間にか忘れていた。あの頃の私にとって、彼はかけがえのない大切な人だったのに。そして、今も。 「音緒」  二度目のそれは少し大きい声だったので、我に返って、はっと振り向く。そして、私はすぐには信じられない姿を見た。  クリスマスが奇跡を呼ぶというのは、本当なのかな。  ビジネススーツに黒いステンカラーコートを羽織り、白いマフラーを巻いたその人は、あのときと同じ切れ長の瞳を見開きながら、こちらをじっと見つめていた。  ――冬枯れの公園で、ベンチに座ったら余計に体が冷えてしまいそうだったので、一蹴と私は小さな柵に背を預け、一年と少しぶりに言葉を交わした。  今日、ここで会えるなんて思っていなかったから、懐かしさと少しの気まずさ、そして、やっぱり嬉しさを感じて、私は妙にはしゃいだ声を出した。  彼のほうも最初こそ居心地が悪そうにしていたけれど、やがて眩しげな眼差しで私を見たり、宙を見たりと、徐々に緊張が解けてきた様子だった。 「就職をしたのか?」 「うん。中途採用で、小さな会社だけど」 「そうか。正午といるとばかり思っていた。あのあと、しばらくの間」 「ううん。迷惑ばっかりかけたから電話で話はしたけど、あれ以来、会ってないよ」  互いの近況報告をしているうちに、話題は自然と一年前のことへと移っていく。  だけど、問われるがまま正午くんとのことを説明した私に対して、一蹴は再び気まずそうな素振りを見せた。 「……それは、俺に気を遣ってか?」 「え?」 「好きだったんだろう、正午を」 「……え?」 「違うのか?」  私たちのすれ違いは、本当にとんでもないところから始まっていたんだと気づいて、今になって複雑な気分になる。でも、それも無理のないことかもしれない。  思い返せば、あの頃の私はとてもいい加減で、節度もなくて、そんな誤解を受けていたなんて、今さらながら後ろめたい。  一蹴に頼るばかりで、そのくせに与えられたものには不満を言う、たちの悪い駄々っ子そのものだったのだから。  寄りかかったり、頼ったりするだけでなく、自らも与えられる人間になりたい。支えてくれる人がいるなら、私も同じだけの支えになりたい。一蹴と別れてから一年をかけて、やっとそう思えるようになった。  自分に正直になって、精一杯に生きて、依存ではなく、それぞれの生を重ねあっていけたなら、きっとあんな齟齬も喧嘩も必要がなくなる。私が人にあげられるものなんて、大したものじゃないと思うけど。  そんな私の台詞に一蹴は小さく微笑んで、教会のほうを一度だけ見やった。その目が再び私に戻ってきて、じっと見つめる。 「音緒はあの頃、たくさんのものを俺にくれていた。あの教会の牧師がいいことを言ってたな」 「なんて?」 「人は罪を犯すものであり、人は赦すものだ。そして人は無償の愛にのみ安寧を見出す、とか」 「いつ礼拝に出たの?」 「……昨年の、イブの夜に」  一蹴がここに来ていたなんて。  驚くと共に、じわじわと胸が熱くなる。それにミサに参加してみるなんて、本当に真面目な一蹴らしい。変わらない彼にとても嬉しくなって、なんだか涙が出そうになる。 「……あのね、正午くんは友達だよ。恋をしたのは一蹴だけ。あのときも、この一年の間も。離れてみて、よくわかったの」 「……」 「信じてない?」 「……いや」  さっきまで真摯な眼差しで私を見ていた一蹴が、急にそっぽを向く。一年前より少し伸びた髪が耳にかかっていて、隙間から見える耳朶が真っ赤に染まっていた。  寒いから赤くなってるのかなと思って手を伸ばせば、すごく驚いた表情でまたこちらを向き、私の指先を強く掴む。それは、少し冷えた彼の懐かしい手。 「私も来てたの。去年の今」  一蹴が、さっきよりももっと大きく目を見開いた。  お互いにお互いのことを、ずっと想い合っていたのかもしれない。  それでも昨年、ここで会えなかったのは、早すぎる、まだその時期じゃないと、そういう天の配剤みたいなものだったのかもしれない。 「どうして……」 「一蹴のほうこそ、どうして?」 「俺は……特に、理由はない」 「なら、私も特に」 「……そうか」 「でも、忘れたくなかったからかな。一蹴のことを」  今度は一蹴の目元がうっすらと朱に染まる。こんなに照れたような表情をする一蹴を見るのもとても久しぶりで、それはきっと、何年も前の出会った頃以来だと思う。  その顔をもっと見たくて、もう一方の手を、彼の反対側の耳朶に伸ばした。  きっと、私たちは同じだった。思い出のこの場所に来て、人を強く愛する想いをそのまま歌にした、あのグリーンスリーブスのメロディを聴きたいと思ったのだ。 「一蹴の手は冷えてるのに、耳は熱いんだ」 「馬鹿にしてるのか」 「まさか!」  掴まれた両手が強い力で引かれる。  腕の中に閉じ込められ、その胸に強く押しつけられた私の頬に、彼の鼓動が伝わってくる。  鼓動は速いリズムを刻んでいた。さっき触れた一蹴の耳朶と同じくらいに頬が熱くなった私は、彼のコートの背中に腕を回す。 「……本当に、俺でいいのか?」 「うん、一蹴がいい」 「おまえを守れるように努力はするが、所詮、俺は俺でしかない。この先も、正午みたいに気の利いた男にはなれないと思う」 「他の誰でもなくて、私は一蹴だから好きなんだよ」  気持ちをはっきりと口にすれば、一蹴はぴたりと黙り込んだ。予想外の反応に、私は内心で首を傾げる。 「一蹴?」 「……今、こっちを見るな」  少し身じろいで見上げれば、彼は大げさに顔を逸らした。  罪も間違いも人は繰り返す。だけど、私が私を見失わずにいれば、きっとこの大切な人と――大好きな一蹴と、ずっと一緒に生きていけるはずだ。  あれから一年の時を経たイブの夜。クリスマスキャロルが厳かに聴こえる中、一蹴の腕に包まれながら、私は心の底からそう思った。  回した手に力を込めれば、彼は私の首元に顔を埋めて、そっと呟く。 「俺にも、音緒だけだ」  あの日と同じ粉のような雪が、また静かに降り出していた。 【完】
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