【第一部】1.常備薬を忘れた夜

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 俺はモップの柄を固く握りしめると、不安でうつむきかけた頭を持ち上げ、一心不乱に掃除をしながら階段を下りていった。  ようやく十階を過ぎたころ、下方から響いてきた階段を上る足音と話し声に、集中力がふと途切れた。聞こえてくる会話から察するに、遅くまで残っていた社員のようだ。ここは外資系企業が入っているビルなので、おそらく時差がある国と深夜に会議をしていたのだろう。  一、二階分くらいの短い移動だと、エレベーターより階段を利用する社員も少なくなく、ごく稀に階段ですれ違うことがある。いつもなら端に寄って、通り過ぎる社員に向かって緊張気味に小さく会釈するのだが、この日はあまりにも体調が悪かったせいか、反応が遅れた上に会釈し損ねて、さらに体のバランスを崩してしまった。 「……危ない!」  鋭く飛んできた声にハッとしたときには、すでに体が斜めに傾いていた。次に物凄い音と同時に、全身を打ちつけられる衝撃に喘いだ。 「……っ……」  詰めていた息が上手く吐き出せないのは、誰かの両手でしっかりと頭を包みこまれていたせいだと気づく。そろそろと顔を上げると、思いがけず整った白い顔が間近にあって息を飲んだ。 (うわ、あのイケメンじゃん……)  この階段で何度か見かけた顔だと、痛みで生理的に浮かんだ涙の膜越しに、その人の顔を眺めていると、ワンテンポ遅れてバタバタと階段を降りてくる音がした。 「津和(つわ)、お前ケガは!?」 「……俺は受け身を取ったから、なんともないよ」  つわ、と呼ばれた男はそう返答するものの、色素の薄い前髪からのぞく形の良い眉をひそめ、動こうとはしない。俺はようやく我に返って「大丈夫ですか」とたずねると、彼は小さく口元を綻ばせた。 「そっちこそ、立てそう?」 「あ、はい……」  頭を抱えられたまま一緒に半身を起こすと、足首に鋭い痛みを覚えて息を飲む。だが次の瞬間、その痛みを遥かに凌駕する酷い頭痛に、思わず目の前のワイシャツの胸にすがりついてギュッと目を閉じた。 (やべえ、目が回る……)
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