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「おまっ……!」
馬鹿にしてんのかと振りあげた腕は、あっけなく片手で制されてしまった。そのまま腕を取られて引き寄せられると、広い胸に倒れこむ。そして懐深く抱きしめられ、怒るに怒れなくなった。
「でも俺の仔猫は自立してるし、いつでもこのマンションをひとりで出ていけるから、つなぎとめておくのが大変だ」
思いがけず真面目な声のトーンにドキリとした。
「とりあえず清掃員のバイトは辞めて、夜はうちにいてよ。帰ってきたとき君の姿がないと寂しい」
そうは言われても、急にバイトを辞めるのは、まだ少し心もとない。
「まあ、そのうち」
「んー、手強いな。それじゃ質問を変えよう。なんの食べ物が好き?」
「なんだよ、いきなり」
「いいから。寿司が好きじゃないことは、わかったけどね」
やはり寿司が苦手だとバレてたようだ。だが好きな食べ物なんて急に思いつかない。
(あんまりこだわりもないからなぁ。面倒ならゼリー飲料でも気にならないし、焼肉とか嫌いじゃねーけど、いつでも食べたいってほどでもないし)
生の魚介類だって、昔あたったから気が進まないだけで、味自体苦手なわけじゃない。そのほかの食べ物だって、なんでもそこそこ食べられる。
「そうだな、津和さんが作ってくれたオムレツとかうまかったよ」
何か言わなくちゃと、無理やりそう答えたら、なぜかソファーに押し倒された。
「……それ、昔の彼女か誰かに言った台詞?」
「はあ? そんなんじゃねーよ」
「無自覚だとしたら、相当タチが悪いな」
はあ、と大きく肩で息を吐いた津和は、俺の肩に頭を押しつけた。
「じゃあ聞くけど、俺が毎朝君にオムレツ作ってあげたら、ずっとここにいてくれる?」
「え、毎朝って大変だろ」
すると津和は顔を上げて、再び大きなため息をつきながら失笑した。
「そういう意味じゃない。俺は君に、ずっと一緒にいてもらいたいって意味。ああ、なんでハッキリ言わないと伝わらないんだ……」
「わ、わりい……」
「本当にね」
すねたようにつぶやく津和がおかしくて、つい笑ってしまう。すると津和は『明日の朝、オムレツ作ってあげる』と、照れくさそうに耳元でささやいた。
(第一部・完)
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