これが最後の……

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「頼む! もう一回俺にチャンスをくれ!」  ああまただ、私はそう嘆息しつつ、カウンターの内側で、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かし始めた。男の言葉から想像するに、男が付き合っていた女に復縁を持ちかける場面か。個人経営の喫茶店においては、これが日常茶飯事なのか。 「もうあなたとは無理なの! あなただってあの女と一緒になった方が幸せなんでしょ。あと謝るときにそんな服着てこないでよ!」 「違う、違うんだ。あれは一時の気の迷いなんだよ、やっぱりカナコの方が好きなんだ。好きだからこうして初デートの時に買ったワン君のTシャツを着てきたんだ! 覚えてるだろ、動物園に行ったときにカナコが買ってくれた奴だよ!」  男側の言い分を聞いた途端、頭を抱えたくなった。何が『カナコの方が好き』だ。誰かを好きになるのに比較対象は不要のはずだ。それに彼女との思い出の品を『奴』呼ばわりとは。完全に我を忘れている、みっともない。 「そうやって知らない誰かと比べられても、ちっとも嬉しくないわ! もうあなたの顔なんて見たくもないの。あなたとの思い出だってもうどうでもいいわ!」  剣幕こそ女の方が凄いが、男の方ほど理性を失ってはいないように思える。当然か、男は誠心誠意謝ることしか出来ないが、女の方は男側の言い分に、あれこれ理屈を付けて突っぱねることが出来るのだから。これが屁理屈になると彼女の分も悪くなるのだが、今のところそんなヘマは犯していないようだ。この勝負、どうやら男の方に勝ち目は無いらしい。  ふと、ヤカンから甲高い音が鳴り出した。どうやらお湯が沸いたみたいだ。ヤカンからドリップポットにお湯を移し、フィルターの掛かったドリッパー内のコーヒー粉にまずは一周、お湯を注ぎ、じっくり蒸らす。たちまち、甘い香りが鼻腔をくすぐり、思わず顔がほころんでしまう。もちろんその間も痴話喧嘩は止まらない。  コーヒーのハンドドリップは私にとって真剣勝負の一種なのかもしれない。お湯の温度、最初に注ぐお湯の量、粉の蒸らし時間、そもそも水を選ぶところから(水道水? 論外だ)。一度のミスが一杯のコーヒーの出来を大きく左右する。一瞬一瞬その全てが最高のコーヒーにつながる。やり直しは許されない、まさしく真剣勝負。  それに比べてこの男は。もう一回、あと一回と駄々をこね続けてここまで来てしまったのだろう。そんな言い分、まともな社会では通用しない。恋愛なら尚更だ。Tシャツに描かれたライオンを見習えとぼやきたくなるが、ライオンの狩りの成功率を思い出し、その言葉を呑み込んだ。確か三割に届けば上出来だったはずだ。そもそも狩りをするのは主にメスのほうでもあった。二重に相応しくない。  蒸らしを終え、膨らんだコーヒー粉に再びお湯を注ぐ。ほぼ同時にカナコの声が聞こえてきた。 「今まで貸してたお金も返さなくていいわ。それが手切れ金ってことで」 「待ってくれよ、そのお金だって今日用意してきたんだ。ほら百万だよ、もう無心なんてしない。今度こそ俺、心入れ替えて頑張るから」  この男、浮気癖の上に交際相手に金の無心までしていたのか。つくづく救いようのない人間だ。  その百万にしても本当に男が身銭を切って用意したモノなのか、疑うべきではないか。ギャンブル中毒男の経済力の無さを考慮すると、カナコとの仲を取り繕うために誰かに立て替えてもらったと考えるのが無難だ。その立て替えた相手が浮気相手というのはさすがに穿ち過ぎか。おまけに彼女からは「百万じゃないわ、百五十万よ。借用書だってあるのよ」と言われる始末だ。救いようがない。 「そもそも手切れ金なんて言うなら、なんで今日あってくれたんだよ。顔も見たくないんだろ?」  逆ギレとは情けないと思ったものの、男の言い分は一理ある。顔も見たくない男の誘いに乗った理由が分からない。それに対するカナコの答えは明らかに、憐れみに満ちていた。 「今までの彼氏だって、謝るときは今のあなたみたいに必死になるくせに、別れるときは何も言わずにいなくなるの。今回こそは、真正面から別れを告げたかったの」  ……なんだ、そんなことか。カナコの気持ちは分かった。ならば、私も期待に応えねば。  決心した私はイヤホンを外し、カウンターを離れ、リビングのソファに座った。そしてコーヒーとカナコの位置情報、つまり今いる喫茶店の位置を画面上に映したノートパソコンを、目の前のテーブルに置いた。    カナコを見守り続けて早数年、気づいたのは彼女のどうしようもないほどの『ダメ男引き寄せ体質』だった。彼女に体質改善を求めるくらいなら、そのダメ男とやらを”駆除”した方がずっと有意義だ。そう考えた私はカナコにまとわりつくダメ男を”駆除”していった。これもカナコのため、そう考えると罪悪感など、微塵も湧いてこない。といってもまだ二人だけ人、そして今の男で三人目。   男、牧野厚治の素性はもう調べがついている。そして彼女のスマホにインストールした盗聴アプリも大いに役立った。おかげで彼が今、近くの動物園のマスコットキャラであるライオンの男の子、いわば王(ワン)君のシャツを着ていることが分かった。このTシャツは私にとっても思い出の品だった。動物園デートをするカナコを見守りに行ったときの「百獣の王の王を中国語読みさせてワン君なんだあ、面白いねえ」と言った彼女の屈託の無い笑顔は一生忘れられないだろう。何が面白いのかまではさっぱり分からないままだが。  手間を考えると溜め息が出そうになるが、私は使命を果たせばならない。幸い我が家から喫茶店は徒歩圏内、反対に男の家と喫茶店は二駅ほども離れている。今動いてもまだ行きずりの犯行に見せかけられるはずだ。  カナコの喜ぶ顔を想像しながら、私は犯行の準備を始めた。  宮内加奈子は夜道を歩き続けていた。計画通りに行けば、交際相手だった男、牧野厚治はストーカーに殺された。起きた現実と身震いするが、仕方ない。これまでの中で最も粘着質だった牧野と別れるには、ストーカーの行き過ぎた保護欲を利用するしかないのだ。これでクズ男とも、見知らぬストーカー、否、殺人鬼ともおさらばだ。そう思うと清々する。  さて、警察署が見えてきた。加奈子は証拠品であるスマホを握りしめながら、歩を進めた。  
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