4.だから実家を出たんです(1)

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4.だから実家を出たんです(1)

 アンバーにとって想定外のことばかりで、まともにいろいろ考えられる状況ではなかった。  玄関でマクレーン辺境伯をお見送りして、一言二言、なにか言葉を交わしたようだけど憶えていない。  とにかく落ち着こう。  応接間から手つかずのままのコーヒーをさげて、カップを食器洗浄機に入れた。    アンバーの今の住まいは、通信省の職員用にあてられたこの官舎だ。ひとりで暮らしている。  本当は食事のついた寮に入ることを希望したのだが、よほどそこは快適なのか、ここ数年空きがでないのだそうだ。そのかわりにあてがわれたのが、王宮近くにある一戸建てのこの官舎だった。こじんまりとしたリビングダイニング、寝室と書斎に応接間、それに客間がひとつとメイド用の部屋がひとつあって、ひとりで暮らすには十分すぎる広さがあった。据えつけの家具があるので、アンバーが持ち込んだものといえば最低限の食器や調理器具、それにわずかの服飾品くらい。伯爵家の令嬢の住まいとしては、間違いなく粗末だ。けれど貴族学院を卒業して二年、自分の力だけで得たアンバーの城だ。どこよりも居心地が良かった。    あらためてコーヒーを淹れ直すことにした。なじみのカフェで分けてもらった豆はオリジナルのブレンドで、華やかな香りと少しの酸味がアンバーのお気に入りだ。  一応伯爵家の令嬢だから、普通ならコーヒーを自分で淹れるようなことはしない。側仕えのメイドの仕事だ。けれどここ、官舎ではひとり暮らしだからなんでも自分でする。  官舎住まいの同僚たちは、ほぼもれなく実家からメイドを連れてきていたが、アンバーは実家にどんな形であれ頼るつもりはなかった。もしメイドを置くとなれば、給金は自分で支払わなければならない。そんな贅沢なことができる身分ではない。いや、身分でいえば一応伯爵家の令嬢なのでできるのだろうけど、経済事情が許さないのだ。それでも実家にいたころの息苦しさを思えば、百万倍は幸せだと思っている。    アンバーには前世の記憶がある。  日本の小さな田舎町で、両親と兄と暮らしていた。両親は旧い考えの人たちで、なにかといえば「女に学は要らない」とか「女は慎ましく質素であれ」とかを娘に求めた。その一方兄には甘い。家の中の優先順位はなんでも兄が一番で、「男の子なんだから大学は出ておかないと」とか「外見でお友達にバカにされてはいけない」とか惜しまず金を使った。中学に上がった娘の制服は、近所の誰かのお古ですませたというのにだ。  県下一の進学校に娘が合格した時も、両親は喜ばなかった。兄の高校より上だからだ。「不器量な娘が勉強だけできても仕方ない」と、母はため息をついた。「もっと家のことを手伝うとか、女らしいことに精をだしなさい」と嫌味までつけて。だから当然のように、大学への進学は許してくれなかった。 奨学金をもらって学費は自分でなんとかすると言ってもだ。  「うちはとても苦しいのよ。女の子でしょう? お母さんの気持ち、あんたならわかるよね?」  家計が苦しいのなら、どうして東京の大学へ兄をやったのか。地元の大学にも、兄は合格していたのに。地元の私立の大学より、東京のそこそこ名の通った大学の方が兄の将来のためだからと、両親が東京行きを認めたのだ。二浪もしてやっと通ったその大学はスポーツで有名な大学だったけど、運動部でもなんでもない兄が行ったとして、両親が言うほどの価値があるのか。娘の進学を止めるほどの価値が。同じ親から生まれた兄妹なのに、妹の自分には進学の機会さえくれないのかと泣きたくなった。 「浪人はしないから。きっと合格するから。だからもし受かったら行かせてよ。お金で迷惑はかけないから」  それでも母は首を横に振った。   「お兄ちゃんが大学へ行ってるのよ。うちにはお金がないの。あんたが働いてうちを助けてくれないと」  その時に、自分の人生はこんなものだと半ばあきらめた。女に生まれた。その時点で自分の人生、負けは確定なのだと。そして就職した。給料のほぼすべてを家に入れるようになって、そのまま年をとって……。  最後の記憶は長患いの末に亡くなった父を看取った、その夜だ。くらりと意識が遠くなり倒れた。 「あんたがいないとお母さん困るのよ!」  母の泣き叫ぶ声が煩い。   (ああ、これでこの声を聞かなくて済む)  楽になれるとほっとした。  今生のアンバーが、この情けない前世を思い出したのは十五歳の時だった。  貴族学院高等科への進学を希望したところ、母に嫌な顔をされた夕食の席でのこと。 「中等科を出たらもう十分でしょう? だいたい女の子が高等科に進んでどうなるというの。あなたは器量も良くないし、若いうちにお相手を探さないと。まったく誰に似たのかしらね。その器量では上位貴族へ嫁ぐのは無理だけど、子爵男爵なら迎えてくれるかもしれないわ。あなたもその方が気が張らなくていいのではなくて?」  既視感があった。同じようなことを、前にも言われたような。目の前にいる母ではない、別の誰かに……。  その瞬間、前世の記憶が洪水のようにアンバーの頭になだれ込んできた。  ああ、そっくりだと思う。男尊女卑の考え方も、アンバーの器量を貶めるところも、人生の選択肢を狭めてくるところも。 (今度は言いなりにはならないわ!)  俯いて、考えをめぐらした。なんとしてでも高等科へ進まなくては、母の都合のいいようにどこかへ嫁がされてしまう。高位貴族へ嫁ぐのが無理だと言うのは、きっと持参金がもったいないからだ。子爵男爵であれば、うまくいけば払わずに済むと思っている。魔力の強さで有名な名門ハロウズ伯爵家から嫁いでやったと、恩に着せるつもりなのだ。裕福な子爵家男爵家なら、アンバーを嫁がせた後も援助してもらえるかもしれないとも。  名門アンバー伯爵家は、家格こそ高いけれど懐具合はかなり寒い。領地はあるにはある。王都に隣接した、かなり恵まれた土地だ。けれどいかんせん、狭くて小さい。だから入ってくるモノもそれなりしかないわけで。   「アンバーはお父さまに似たのね、かわいそうに。そんなに器量が悪くては、高望みはできないのよ。身の丈を心得なさいね。贅沢を言える立場ではないのよ」  幼い頃から言い聞かされてきたことだ。前世を思い出した今ならわかる。これは洗脳だ。母に自覚はないかもしれない。悪意もないかもしれない。けれどやってることは、洗脳以外のなにものでもない。母の思いどおりに動くように、アンバーが自分の価値を低く思い込むように。  吐き気がした。  実の親だからといって、何をしても許されるわけじゃない。 (でもなんと言って認めさせようかしら)  思いあぐねていると、それまで黙っていた兄が口を開いた。 「いいのではないですか、進学させても」  兄ルーティスは、母によく似た亜麻色の髪に薄い緑の瞳をしている。アンバーに向かってぱちんと片目を閉じて、「まかせておおき」と唇の動きだけで伝えてきた。 「高等科に進めば、適当な令息とごく自然に出会えますよ。家格が高いか裕福か、どちらかでなければ通えないところですからね。集団のお見合いだとお思いになっては?」  この兄だけが、今生の当たりだ。前世の兄はアンバーから搾取するだけで、妹の苦境にほぼ無関心であったというのに。  母の思惑を読んだ上で、これなら認めるだろうという言葉をかけている。それも極上の微笑をつけて。 「そうかもしれないわね」  ほらやっぱり。お気に入りの兄の言葉に、母は頷いた。 「ついでに学生寮に入れてはいかがですか? アンバーは人見知りですからね。共同生活を何年か経験させるのも、悪くはありませんよ。このままでは結婚してから困るでしょう?」 「そうねえ……。あなた、どうお思いになる?」  黙ってカトラリーを動かしていた父に、母はようやく話を振った。  今生の父は、栗色の髪に灰色の瞳のとても無口な人だ。良いことも悪いことも、この人からなにか言葉をかけられた記憶はない。もっともそれはアンバーだけに限ったことじゃない。アンバーの知る限り、兄にも同じ態度だったと思う。そこが母とは違う。 「好きにすれば良い」  いつもどおりだ。無表情のまま、父は短く答える。けどこの時ほど、無口な父の短い言葉が嬉しかったことはない。   「ありがとうございます。お父さま」  声が上ずった。これで高等科へ進める。  さらに学生寮!   (この家から出られる)  不器量だとか気が利かないとか可愛げがないとか陰気だとか、貶す言葉なしで話すことのない母から逃げられる。それだけでも気分が軽くなった。 「よかったね」  食堂から出てすぐ、兄がにこりと微笑んでくれた。白い肌に整った作りの顔、我が兄ながら美青年だと見惚れてしまう。「ありがとう」と返したアンバーに、兄は少しまじめな顔をして続けた。 「黙ってお嫁にいくつもりならなにも言わない。でもそうじゃないなら、よく考えるんだよ。高等科へ進んだ後どうするか。永遠に逃げ続けるわけにはいかないんだからね」  逃げ続ける。誰からと、兄ははっきり言わなかったけどわかる。  そのとおりだと、アンバーは頷いた。  高等科の在学期間は三年だ。何もしなければ、両親、事実上は母の言うままに、用意された誰かと結婚しなければならなくなる。 「ああいう方だ。これからもきっと変わらない」  苦い笑みを唇の端にためた兄に、アンバーの胸は熱くなる。アンバーのことを思ってくれる心が、嬉しかった。 「わかってるわ、お兄さま。ありがとう」  前世のようにあきらめたりはしない。あきらめて流されて、最後にみじめな終わりを迎えるような、あんな人生はまっぴらだ。  この家に戻らず言いなりの結婚を拒むには、自立する必要がある。けれど女が外で働くことの珍しいプレイリー王国で、それがどんなに難しいことかくらい、アンバーも知っている。まず就ける職がほとんどない。 (それでもなんとかするわ。しないとダメ)  その春、真新しいだけマシの質素なドレスを数着持って、アンバーは高等学院の学生寮へ入った。
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