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7.ただでは結婚させてもらえません
「おめでとう」
局長室の扉を開くと、開口一番、満面の笑顔で上司は言った。
茶褐色の髪に同じ色の瞳をした彼は、三十代半ばというには少し老けて見える。通信省のエリート職員らしい。確か男爵家の当主だと聞いたことがある。現在、王都電話局の局長だ。
「結婚しても仕事を続けてくれるんだってね。いや、助かるよ。君のような優秀な職員は、なかなか補充がきかないからね」
「局長、どこでその話を?」
思わず問い返した。
アンバーが求婚を受けたのは、数日前の事だ。それをなぜ上司が知っている。
「君の任地について、マクレーン辺境伯領に動かすようにと上からお達しが来てね。理由を聞いたら、君が結婚するからだというじゃないか。驚いたよ。けれど良かった。理解のあるご夫君で、我々も助かったよ」
ユーインが動いたのだ。なんと素早い。
(え? ということは転勤先って、マクレーン辺境伯領?)
二、三年先ではなく、すぐに結婚しなくちゃならなくなった。
ああ、そう言えばユーインは「結婚指輪もすぐに必要になる」と言っていたような。
「式は来月だってね。私もぜひ出席させてもらうからね」
上司、今「来月」と言った?
いつのまにそんな話になった?
アンバーはまったく聞いていない。
もう用事は済んだと、上司は右手をあげた。
退出のお辞儀をして局長室を出る。
(これはすぐに確認しなくちゃ)
急ぎ足で職場に戻りかけた途中、また驚かされる。
「アンバー、すぐに戻ってきなさい」
耳の奥に、父の声が響いた。
就職して二年以上、父がアンバーに念話を送ってきたことなど一度もない。
「マクレーン辺境伯のことだ。それでわかるな?」
ああ、もう!
ユーインの根回しは、あっちにもこっちにもだ。知らないうちに話を進めている。
直属の上司に早退届を出した後、すぐさま職場を飛び出す。黒塗りの鉄門前に、鷹の羽の紋章が入った馬車が停められていた。
「ハロウズ伯爵令嬢でいらっしゃいますか? わたくし、マクレーン辺境伯家のレイノーと申します。主人よりハロウズ伯爵邸までお送りするように、申しつかっております。どうぞお乗りください」
赤茶の髪をした二十歳ほどの青年だった。黒の簡素な騎士服を着ている。
とにかく急いで帰りたいばかりのアンバーは、お礼もそこそこにエスコートも待たず馬車に乗り込んだ。
「出してください」
それだけ言うのがやっとだった。
「お嬢様、お急ぎください。旦那様方がお待ちでおいでです」
二年半ぶりくらいの実家、その玄関前に馬車が着いた途端、執事のゲイルがアンバーに駆け寄って来た。
代々ハロウズ伯爵家に仕えてくれる一族の青年で、確かアンバーが学院を卒業する前の年に、彼の父から執事の座を譲られたと記憶している。先代の執事である父から厳しく仕込まれているゲイルだ。茶の髪に同じ色の瞳をした彼が、主人の前で血相を変えるなど、普段ならけしてありえない。
(中では相当ひどいことになっているのね)
そのひどいことの中身は、かなり高確率で母が作り出しているに違いない。理性より感情で動く人だ。いきなり起こった縁談、それが魔力なしのマクレーン辺境伯からのものなら、何を口にしているか想像がつく。
急ぎ足で応接間の前に着くと、予想どおり母の声がした。
「あなた、はっきりお断りくださいませ。とんでもないことですわ」
それほど大きくはないけど、キレッキレのヒステリックな声だ。アンバーはこの声がとても苦手だった。心臓がきゅうっと縮む感じがする。
「母上、お言葉が過ぎます。辺境伯閣下、母の無礼をお許しください」
ああ、兄の声だ。少しだけほっとする。兄がいるなら、母の暴走もいくらかはマシになる。けれどいつまでも当事者のアンバーが、ここで怯んでいるわけにはいかない。
大きく深呼吸をして、扉をノックした。
「アンバーでございます。遅くなりました」
修羅場というのは、こんな場面をいうのだろうか。
扉の向こうにあったのは、殺伐とか殺気に満ちたとか、とにかく針山のようなとげとげしい空気だった。
一応下座にこそ着いているけど、母の表情にはあからさまな蔑みと怒りがある。
「アンバーあなた、この魔力なしの求婚を受けたりしていないわね? いくらあなたが不器量でも、そこまで自分を安売りしたりはしていないわね?」
くるりと振り返った母は、かなり興奮しているらしい。顔はうっすら赤らんで、淡い緑の瞳には涙が浮かんでいる。
「お母さまはこんな男に嫁がせるため、あなたを育てたのではありませんよ。いくら器量の悪い娘でも、もう少しマシな相手がいますからね」
まだひどい言葉を続けようとする母の言葉を、アンバーはぶった切ることにした。さすがにこれ以上は、聞いていられない。これが血のつながった母だと思うと、心底恥ずかしい。
「お母さま。わたくしがマクレーン辺境伯閣下にお願いしましたの。どうぞ結婚してくださいと。だから閣下をお責めになるのは筋違いというものです。お責めになるのなら、わたくしになさって」
「な……っ! ああ、情けない。それほど嫁き遅れるのが怖かったの? なりふり構わず誇りを捨てて。みっともない。我が家の迷惑を少しも考えなかったのね!」
キンキンと響く高い声に、アンバーの心拍数が上がる。きゅっと縮んだ心臓が、さらにもっと縮んで痛んだ。冷たい汗で濡れる掌を、きゅっと握りしめて目を閉じた。
(耐えなきゃ。言いたいだけ言わないと、この人は収まらないんだから)
じっと我慢して、嵐が通り過ぎるのを待つ。心を殺して、耳から入る言葉は意味をなさないただの音にして。幼い頃から慣れっこなのだと、アンバーは自分に言い聞かせる。
「ハロウズ伯爵夫人、私の婚約者を侮辱しないでいただこう」
低く冷たいテノールの声が、まだ言い募ろうとする母の言葉を封じた。薄い青の瞳にゆらゆら揺れる怒気の炎を乗せて、ユーインがまっすぐに母を見据えている。
「家同士の交際を、ぜひにと請うているわけではない。どうしても夫人が認めないとおっしゃるなら、残念だがご令嬢を除籍していただいても結構。アンバー嬢であれば、我が家の縁者に養女の口はいくらでもある。ああ、侯爵令嬢として嫁いでいただくのも悪くないな」
マクレーン辺境伯家は代々武門で名をはせた家柄だ。王家とも血縁関係にあって、財力格式ともに、実質上侯爵家よりも上と言われている。侯爵令嬢にとユーインが口にしたのは、侯爵家でさえマクレーン辺境伯家をないがしろにできないと言い切ったものだ。
「父上、母上は部屋へお戻りいただきましょう。これ以上は我が家の恥かと」
ずっと黙ったままの父ハロウズ伯爵に、さすがに勘弁できなかったらしい兄が強い口調で進言する。
「下がっていなさい」
母に弱い父も、さすがにそう命じざるをえなかったようだ。ぼそりと母に告げると、すぐに兄が母を抱きかかえるようにして、応接間から連れ出す。そして外に控えるメイドに引き継いだ。
アンバーは扉の内側に立ったまま、その様子を虚しい思いで眺めている。そのすぐ側に戻ってきた兄が、その場でぴしりと言い放った。
「父上、どうか謝罪を」
促された父が立ち上がり、深々と栗色の頭を下げる。
「妻が大変失礼なことを。申し訳ございません」
「私からも母の無礼をお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした」
兄が頭を下げたので、アンバーも一緒に頭を下げる。
本当にこの兄には、感謝してもしきれない。放っておいたら、母の暴走はどこまで続いたやらわからない。そして父、母に何も言えないのは知っていたけど、我が家より格上の貴族の、しかも当主相手に無礼三昧させているとは。当主としての器量を疑う。
「父はここ最近、体調を崩しております。思考も鈍りがちで、閣下にはお見苦しいところを。こちらについてもお詫びを申し上げます」
兄、ああそうまとめますか。
父は病で愚鈍になっているのだから、許してねという感じだ。さらりとこういうことを口にできる兄は、とても貴族らしいと感心する。
「ああ、気にしていない。ハロウズ卿、丁寧な謝罪をいたみいる」
ユーインも微笑んで鷹揚に受けてくれた。
「持参金不要とのお心遣い、ありがたくは存じますが、次期当主として我が家の家格相当のものを持たせてやりたいと思います。アンバーは、たったひとりの大切な妹ですから」
恭しい口調だったけど、兄の薄い緑の瞳は口調ほどに慎ましくはない。ユーインの薄い青の瞳をまっすぐに見つめて、逸らさない。
「粗末にしたら許さない」オーラが、バッシバシに出ていて怖い。
アンバーにとっては嬉しいことだけど、ユーインは辺境伯家の当主だ。いまだハロウズ伯爵家の家督を継がない兄の態度としては、かなり不敬だと思う。
ちらりとユーインの表情を伺う。
「ではこのまま婚姻の手続きを進めて、かまわないんだな?」
ユーインは薄い微笑を浮かべていた。どうやら不敬を咎めるつもりはないらしい。
「忙しくなりそうです」
ユーインとほぼ同じ表情の兄が応えて、どうやらアンバーの結婚は話がまとまった。
それからひと月後、王都で結婚式を挙げることになる。
あまりにも短い準備期間に、「間に合わない」とか「我が家を軽んじている」とかいろいろ、母はぐずぐず文句を言う。面倒くさいので、アンバーは官舎にこもって準備を進めることにした。
準備期間が短いのなら短いなりのことしかできない。そう割り切っていた。でもその割り切りを母に理解させるのは無理だとも知っていたので、あえて母に頼らず自分で準備を進めたのだ。
そうして当日を迎える。
夏の、きれいに晴れた休日のことだった。
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