第二章 8.この人、誰ですか?

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第二章 8.この人、誰ですか?

 王都にあるマクレーン辺境伯邸にアンバーが入ったのは、結婚式を終えた後だった。  王宮からすぐ傍という立地で、高位貴族の中でも王族に限りなく近い、厳選された名門家の屋敷が並ぶエリアだ。ちなみにアンバーの実家ハロウズ伯爵家は、このエリアの外れにある。  武門で名を知られた名門家らしい、どこか硬質ないかつい感じの印象の造りで、たとえば屋敷をぐるりと囲む塀は見てくれこそ美しい白い石を積み重ねたものだけど、要塞の壁に使われているものと同じ石材だ。よく注意して見ると、塀の上部内側には小さな足場がところどころに隠されている。実際に使うか使わないかは置いとくとして、こういう仕掛けがあちこちにあることで、ふらちな輩を威嚇しているらしい。  それでもぱっと見には、よく手入れされた庭と館と規律正しい使用人たちを持つ、立派な貴族のお屋敷だ。 「ようこそ我が家へ。心から歓迎してよ」  車寄せのある大きな玄関ポーチには、結婚式会場から先に戻った前辺境伯夫人エイブリル・マクレーン様が満面の笑顔でアンバーを出迎えてくれていた。  綺麗に結い上げられた髪は金色で、鈴をはったような目の色は濃い青。なるほどヴァスキア様の叔母にあたられる方、よく似ておいでだ。  貴族の婚礼としてはありえないほど短い婚約期間だった。実家に頼らずひとりで準備作業をしていたアンバーに、助けの手を差し伸べてくださったのもこの方だ。  普通なら嫁ぐ側が用意する花嫁衣裳や装身具の類も、王都一のドレスメーカーや宝飾店に特急扱いでオーダーしてくださった。おかげで今日の式では、招待客が思わずため息をつくような白い花嫁衣裳を身にまとうことができたのだ。  星の光を編み上げたような限りなく繊細で美しい5メートルの長いトレーンとヴェール、それに西のヴェリエル国から取り寄せた最高級のレースをふんだんにあしらった細身のドレス、同じ素材で作った靴と肘上までの手袋も。  すべてエイブリル様が、手配なさったものだ。 「今日からあなたはわたくしの娘よ。とても嬉しいわ」  片足を引いて腰を落としたアンバーを立たせながら、エイブリル様は優しく微笑んでくださった。 「あなたさえ良ければ、わたくしのことはお義母様と。あなたのことはアンバーと呼ばせてもらえるかしら?」 「はい、お義母様。よろしくお導きください」  ユーインの言ったとおり、エイブリル様、いやお義母様は、とても素敵な方だ。美しく、とてもお優しそうだ。 「家の者を紹介しよう。アンバーこちらへおいで」  ユーインがアンバーの腰を引く。  玄関前に整列した二十人ほどの使用人たちの前に、二人で立った。 「マクレーン辺境伯夫人のアンバーだ。今日から七日ほどここで暮らす。よろしく頼む」  ユーインは盛装の肩にアンバーを抱き寄せたままだ。珍しくもない政略結婚なのに、いかにも大切にしていますの態度に見える。 (私が侮られないようにしてくれてるのかしら?)  それならと、アンバーもその芝居にのることにした。ユーインの腕に手をかけて、使用人に微笑んで見せた。 「アンバーです」  王都屋敷の執事が進み出て挨拶を引き取ろうとした瞬間。  少し暗い赤色の髪をした女の人がぐいと前に進み出た。 「おかえりなさい、ユーイン様」  高く澄んだ小鳥のような声だ。かなり小柄でほっそりしている。年のころは、アンバーと変わらないくらいに見えた。  黒目がちの大きな瞳が、丸くて愛らしい。 (誰?)  執事より先に主人に声をかけてくる。しかも当主の名前を呼んで。 (使用人じゃなくて、家族? でもお義母様以外にご家族がいるなんて、聞いてない) 「エイミー、控えなさい」  お義母様が冷たい声で、赤毛の女の人がこちらへ近づくのを制止した。  びくりと身体を震わせて、エイミーと呼ばれた彼女はその場でユーインを見上げている。 「驚かせたな、アンバー。彼女はエイミーだ。君に助けてもらった例の電話の、あの時にさらわれた者があると言っただろう? 彼女の事だ」  謎解きをしてくれるつもりなのか、ユーインは薄い青の瞳でアンバーを見下ろして、少し困ったように苦笑していた。 「エイミー、アンバーはマクレーン辺境伯夫人だ。いつまでもそんな風では、妻に嫌われるぞ?」  笑みを消した硬い表情で、大きな瞳にうるるんと涙を浮かべたエイミーに言い聞かせるようにゆっくりと言う。 「ユーイン様、わたしはただおかえりなさいと言いたくて……。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです」  ああ、とうとう涙がはらはらとこぼれだした。   (なんだろう。この気持ちの悪い感じは)  アンバーの背にぞわっと寒気が走る。  交換手の職場には女性が多い。だからいろいろと女性のいやらしい嫉妬とか意地悪とかありそうだと、外の人たちからはよくひやかされる。けど実際はそうでもない。  女性が外で働くことが珍しいこの国で、しかもかなり優秀でなければ務まらない職場にいる女性たちだ。みな誇り高く、職場の仲間同士の付き合いは、案外さらりとしている。むしろたまに出る社交界のお付き合いの方が、面倒だった。どの年代の女性であっても、嫉妬とか意地悪とか、そういう負の感情を根っこにもって、笑顔で近づいて来るんだから、かなり気疲れする。   (そんなつもりじゃなかった……って、時々耳にするセリフだわ)  あきらかに無礼な態度をとっておきながら、それを窘められた時にべそべそと泣き出して見せる。小柄でほっそりとしていて、可憐な感じのする女性が泣き出せば、責めている方が虐めているように見える。責めているのではなく、道理を諭しているだけでもだ。社交界で時々見かける、姑息で面倒な手口のひとつ。 (ああ、ここにもいるのね)  内心でため息をつきながら、そういうことなら関わらないのが一番だとアンバーは思った。ここで彼女に何か声をかけるのは、あまりいいことじゃない。マクレーン邸へ来たばかりのアンバーには、エイミーの立場がまったくわからない。情報なしに、なにか始めるのはよろしくない。 「マルグリット、エイミーを下がらせてちょうだい」  お義母様が、側に控えていた侍女に言いつける。「承知いたしました」とマルグリットは、ユーインの前に立つアンバーを引きずるようにして屋敷内に連れ去った。 「アンバー、あらためて屋敷の者を紹介するわね。領地の屋敷とここと、時々入れ替えたりするのだけれど、執事と家政婦長は固定にしているの。なにか困ったことがあったら、この二人に言ってごらんなさい。すぐに解決してくれるわ」  お義母様の仕切りで、次々と使用人たちがアンバーの前に進み出る。アンバーは一言ずつ彼らに「よろしく」と声をかけていった。  お義母様がちらりとユーインを見る。  冷え冷えと冷気がただよう視線で、怖いなんてものじゃない。   (これってもしかしたら、愛人ってこと?)  ユーインは魔力を持った子供を作るために、アンバーと結婚した。一種の契約結婚だ。  愛する人は別にいても、不思議じゃない。 (ああ、そういうことか)  出会ってすぐに求婚してきたユーインの、甘い優しい態度に少しばかり油断し過ぎていた。  あれはすべて、妻になるアンバーに対する礼儀だったんだろう。誰とも交際したことのないアンバーは、それをうっかり好意だと勘違いしてしまった。   (まあそうよね。一目惚れされるほどの容姿じゃないし、可愛げだってないんだし……)  早めに気づけてよかったと思いながら、どこかでがっかりしていた。  今夜迎えるはずの初夜が、急に色あせる。 (いっそ熱でも出ればいいのに)  重いため息をついた。
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