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9.妹……ですか
初めての夕食は、しっかり煮込まれたトマトシチューとライ麦のパン、それにワインとチーズが少し。
辺境伯家は実利を重んじるのだと、お義母様はおっしゃった。
「結婚式で疲れているはずよ。そんな日にあれこれ出されても困るでしょう?」
実のところそのとおりで、アンバーはかなりヘトヘトだった。
出勤する朝より早く起きて、風呂だセットだ着付けだと周りの言うがままに四時間以上だ。すぐ側には母が付き添って、あれこれ文句を言い続けていたものだ。その内容について覚えていないのは不幸中の幸い。他人の手で念入りに磨き上げられることに不慣れなアンバーは、その状況を受け容れるだけで精一杯。とても母の文句にまで注意を向ける余裕がなかったからだ。
四時間の苦行の後、礼装用の馬車で式場に向かった。式場は王都一の聖堂だ。たくさんの人に囲まれ、祝われて、そこで二時間。招待客のお見送りに一時間。終わった頃には、魂が抜けたようになっていた。
そして現在、こうしてマクレーン家で初めての夕食のテーブルについている。
とても食べられそうにはない。できれば一刻も早く、ベッドにもぐりこんで眠ってしまいたいのが本音だ。
「正式の晩餐は、少し落ち着いてからの方がいいでしょう? 今日から三日は、どなたもお招きしていないわ。安心してゆっくり休みなさい」
微笑んだ表情は、やはりヴァスキア様によく似ておいでだ。アンバーの心に、じんわりと優しさが染みこんでゆく。
「ありがとうございます、お義母様」
今日初めて、アンバーは心から笑えた。
お義母様はアンバーに優しく微笑み返した後、まったく違う厳しい視線をユーインにお向けになる。
「ユーイン、大事なことですよ。あなたから説明しておきなさい。こういうことは初めが肝心よ」
「はい、母上。俺もそのつもりでした」
真摯な様子で頷いたユーインが、薄い青の瞳をまっすぐにアンバーに向けた。
「玄関でのことだ。君が初めてこの屋敷に入る大切な瞬間に、いやな思いをさせただろう? すまなかった」
エイミーという女の人のことだ。
確かに気にならないと言えば嘘だし、あれでどっと疲れが出たのも本当のことだ。
マクレーン辺境伯を名前で呼べる女性だ。ただの使用人でないことはわかる。そして以前アンバーが受け付けた電話の一件、彼女があの誘拐事件の被害者だとしたら、ユーインは平民だと言っていたはずだ。使用人ではなく、平民だから家族でもない。けれど大事な身内。
使用人の筆頭である執事を押しのけて前に出てきた馴れ馴れしさだけを見ても、彼女が特別な存在なのだと初対面のアンバーでも気づく。
「どのお家にもそれぞれ事情がありますから……」
アンバーは曖昧に受け流そうとする。
なんでもはっきり白黒つければいいわけじゃない。魔力のある子どもを産むことを条件に、その他のことならなんでも自由にして良い。仕事を続けることもそれで家政を担当しないことも、すべて自由にして良いと言われてアンバーは結婚した。マクレーン辺境伯ユーインの望むのは子供であって、アンバーの愛情ではない。だからその反対も同じなのだ。
わかっていたはずだ。
だけど現実に、アンバーは子供を産むだけの妻で愛する女は別にいると突きつけられるのは気分が沈む。まして同じ屋敷にその女がいるとなれば、妻妾同居というやつだ。
前世風に言えば大奥みたい。正室と側室が一緒に暮らして互いに嫉妬もなく、仲良くやってゆけるはずもない。
だからここは曖昧に、はっきりさせないのがアンバーへの思いやりなのだけど……。
「君は既にマクレーン辺境伯夫人だ。家の事情、いや俺の事情を知っておいてもらいたい」
ユーインは曖昧を許してくれそうもない。アンバーは覚悟を決めて、こくんと息を飲んだ。
「彼女、エイミーは、俺を産んでくれた人が引き取って育てていた子だ。俺は七歳の時にこの家に引き取られた。それまでエイミーとは同じ家で暮らしていたんだ。彼女と俺の関係は、そうだな。妹……というのが一番近いか。父が亡くなった後、母上が俺を産んでくれた人を領地へ引き取ってくださった。その時、エイミーも一緒に来たんだ。産んでくれた人は五年ほど前に亡くなっているが、エイミーはそのまま我が家に残っている。彼女を頼むと、母上も俺も言い遺されたからな」
淡々と続けるユーインの言葉に嘘は感じられなかった。交換手として聴覚から得る情報を選別するカンのようなもの、それにはいささか自信がある。
嘘ではないんだろう。けれどひっかかるものもあって。
「そう……ですか」
問い詰めるつもりは、アンバーにはない。妹だと言うのなら、そういうことにしておいた方がいい。
少なくともエイミーの方は、兄とは思っていないように見えた。アンバーがマクレーン邸に入る初日に、わざわざユーインに甘えた風を見せたのは、あきらかに牽制だったと思う。
それでもユーインがあくまでも妹に過ぎないというのなら、それはそれでいい。契約上の妻とはいえ、アンバーへの最低限の礼儀は心得ていてくれるようだから。
「わかりました」
贈り物攻めを受けていた頃の浮き立つ気分は、もうとうに萎んでいる。
もうさっさと契約を果たして、とっとと離婚したいものだ。
プレイリー王国では、未婚の女子は家に所属する。アンバーは経済的に独立していたうえに王太子妃ヴァスキア様の友人でもあったから、実家の言いなりにならないで済んだ。けれどほとんどの女子は、家の意思に反する結婚はできないのが現実だ。
けれど一度嫁いで後継者となる男子をあげたら、話は別だ。たとえ離婚しても、一生困らないだけのものを婚家からもたされる。我が子が当主になれば、その生母として尊重される。つまり実家に戻らず、独立して社交界でも生きてゆける立場を保証されるのだ。
アンバーの場合、契約である子供を産めば後は真の自由が保障されるというところ。
実家から干渉を受けず暮らすため、受けた契約結婚だ。
妻妾同居なんて、永遠に耐えるつもりはない。たとえ契約上の関係だとしても、一人の男の身体を誰かと分かち合う。その相手の女と一緒に暮らすなんて、気持ちが悪いなんてものじゃない。
(心を分かち合わないで済むのが、せめてもよね)
心は望まない。だからアンバーも自分の心は渡さない。
初夜を前に、覚悟が決まる。
前世の高校時代、保健の授業で習ったこと、排卵日はどうやって計算するんだったか。
真剣に思い出さないと。
前世にもう少し真面目に聞いておくのだった。
今更ながらアンバーは後悔していた。
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