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わたしの落とした視線に、由紀子さんは彼の態度を予想したのだろう。ふうっと深いため息の音が、軽々とテーブルを越えた。
「人の誠意を雑に扱う人は、必ずどこかで手のひらを返すわよ。あ、そろそろ講義の時間だから」
由紀子さんは左手首にまいた華奢な時計に目をやった。バッグから、革の小ぶりな小銭入れを取り出す。
「あの、相談にのってもらったから、ここはわたしが」
「私のアドバイスは、コーヒー代で済むほど安かったかしら」
冗談なのだろうか。口のはしを機械のようにあげた由紀子さんの笑みの意味が読み取れない。
わたしはどうにも言いようがなくて、感謝の気持ちをぎこちないお辞儀に換えるしかなかった。
「麻美さんも、なにかしてもらいっぱなしじゃ気が済まないでしょうから、私にひとつ教えて。あなた、私とチェス盤をはさんでいるとき、なにを考えているの?」
「そりゃあ、チェスのことよ。どうやったら、由紀子さんの攻撃をしのげるか。なんとか自分が有利にならないか。頭から煙が出そうなほど、必死で考えているわ」
「そう。必死だって聞いて安心した。だってあなた、どんなにピンチになっても涼しい顔なんだもの。私が優勢なはずなのに、どこかでミスをしているのかも、私の気づいていない切り札をかくし持っているのかもって不安だったわ。それが迷いになって、まんまと逆転を許してしまった。本当に怖い対戦相手よ。じゃあ」
大企業のオーナーの孫は、テーブルの隅に四百五十円をきれいに積み上げて出ていった。
「じゃあ」
立ち上がった勇人が、アパートの鍵を放り投げた。わたしの肩に当たった金属片は、ちゃぶ台の角ではねて床に落ちる。よかった、お鍋に入らなくて。
「こんなとこ、もう二度とこねえから。おまえもオレに連絡すんなよ」
目がくらむような私立医学部の学費を、勇人の親がどう工面するのかは知らない。彼も、わたしと同じく奨学金に頼るのかもね。
学費のほかにも、教材の購入費、医学生としてすごす六年間の生活費、若手医師の苦しい時期を、わたしが宝くじのお金で支えようと思っていたのに。
こうもわかりやすく手のひらを返すとは。本当に由紀子さんの言うとおりだ。
ああー、わたしに男を見る目がなかったってことかあ。バッカヤロー。
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