ライバル

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 頭の中から勇人の影が消えて、由紀子さんだけに集中しているからなのか。今のこの状況は、チェスで勝負をしているときの感覚にとてもよく似ている。  由紀子さんの考えを読んで、自分の駒を動かす。由紀子さんもわたしの考えをさぐり、駒に指先をかける。8×8の市松模様の盤上で、白と黒にわかれて張り詰めた気持ちを交わす。  二人のあいだに言葉はない。  だけど、決着がついたときには、心の奥の奥までをさらして語り合った気分になったものだ。  由紀子さんは今、小さなテーブルの向こうで、申し訳なさそうに肩を落としている。わたしは「気にしないで」の思いを込めて、すぐに同意を示した。 「あやまることなんてないよ。たしかにそうだもん。わたし、引っ込み思案で言いたいことが言えなくて、いつも内にこもるの」  やっぱり、と息だけで由紀子さんはつぶやいて、目を伏せた。  テーブルに置いた彼女の指が、ゆっくりとにぎり込まれるのを、視界のはしにとらえた。ためらいを飲み下したのか、白いのどがこくんと動く。 「私はね、うまく笑えないの。立場を利用されることが腹立たしくて、人とのあいだに壁を作っていたら、表情まで壁みたいに動かなくなってしまって」  由紀子さんの目じりが、不規則にしわを刻もうとする。頬が、口のはしを持ち上げようと懸命なのが見て取れた。 「たった二回話しただけで、こんなに重い話をされても困るよね」  由紀子さんが、またあやまりそうな気配を立てたので、わたしは急いで思ったことを声にした。  ふだんのわたしなら、胸の底に沈めたままの言葉。せり上がってきたとしても、奥歯でかみつぶす言葉。 「たった二回じゃないよ。わたしたちには、無言で触れあう時間があったよ」  ろくに口をきいたこともないのに、先に重い話を持ち掛けたのはわたしだ。  だのに由紀子さんは、それを正面から受け止めるだけでなく、適切なアドバイスまでくれた。そんな親切な人に、あやまらせちゃいけない。  二人が戦った時間は、自分で思っている以上に強いつながりを生んでいた。  それは由紀子さんも同様で、わたしを「見方によってはもっともよく知っている人」とまで言ってくれた。  気がつけば、わたしは由紀子さんの手の甲を、両手でにぎっていた。なめらかで、あたたかな皮膚が心地いい。
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