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『あと一回』
あと一回、それだけで十分なんだ。それだけで、救われる。
誰にだってある。ただの一度の経験だけで人生が大きく充実する、ステップアップのための一段目と成り代わる可能性を秘めている。
例えば、バスケットボーラーがコートに一試合出るだけで、一つの体験として脳髄に焼き付いて離れないし、次の試合で成功をおさめる切っ掛けとなり得る。
ミュージシャンがステージへ一度立ってみれば、会場の熱狂やプレッシャーに慣れたことで、次はよりよいステージを踏めるかもかもしれない。
一つの体験は、次の体験を呼び寄せて相乗効果で人生を豊かな物へと代えるのだ。
ここで得たエネルギーを使って、俺は駆けだすんだ。夢に向かって。
一食のご馳走で満腹になった作家が、傑作を書き上げるように。一杯のコーヒーで精神を起こした画家が、名画を描きぬくように。一本の煙草で 音楽家が旋律を生み出すように。
たった一度で、十分なんだ。それだけで、浮世の地獄へ立ち向かう勇気をくれる。
中学時代に父親が同級生との“パパ活”で職を失った記憶への怒りも。
高校時代の同級生が風俗で働いている姉とまぐわったセックスを自慢された記憶の屈辱も。
精神疾患の母親が殺人事件を起こして、被害者家族が抗議の演説を行い、支援団体に自宅前でシュプレヒコールされた記憶の悲しみも。
頼った職場の同僚と上司から新興宗教へ誘われ、執拗な勧誘で縁を切った記憶の寂寥も。
すべてを断ち切ることが出来る――
彼に残っているのは、数少ない幼馴染である親友から勧められた趣味だ。
彼は、自分の窮状へ親身になってくれる唯一の存在だった。やっぱり、持つべき物は友達だ。小学校の頃から縁がある、友達の意見を大切にして正解だった。
そして嗜む、至福の一服。
あぁ、やっぱり最高だ。 体が芯から この快感は ご馳走でも 風呂でも 布団でも味わえなかった――
つくづくヘロインに勝る幸福はないと、『たった一度』だけ『最後と決めた』ヘロインを堪能していた。
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