虹の精の通り道

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虹の精の通り道

 虹の精のイリスは、嵐の街を通り過ぎるときに病をわずらった。  羽の生えたサンダルで思うように空を走れず、姉たちから離れて洞穴でうずくまった。 「お姉様たち。後から追いかけるから、先に行って。私は大丈夫」  心配そうにのぞきこむ姉たちに、イリスは柔く笑った。  姉たちをどうにか空へ送ると、イリスは洞穴の壁に背を預けて浅い息を繰り返した。  雨の中を走るのは、体力の劣るイリスには向かない。雷鳴に当たるかもしれないと恐れながら雲の中をくぐりぬけるのは、繊細なイリスにはひどい負担がかかる。  イリスは高くなってきた熱を持て余しながら、自嘲気味につぶやく。 「少し眠ったら、また走るから……」  もしかしたらイリスは、空を駆け続けること自体に疲れていたのかもしれない。  イリスは体を丸めて、ひとときの眠りについた。  ふいに洞穴の中にひそんでいた闇はとろりとうごめき、イリスを包んだ。そのまま、奥へ奥へと引き連れていく。  イリスは夢の中で、自分の体の隅々まで撫でていく闇の手を感じていた。首筋から背中まで伸ばし、足の指をほぐし、体内さえ温かい流れで満たしてくれた。  それは今は亡き母の胎内で羊水に包まれていた頃に似ていた。記憶として覚えているわけではないが、体が知っている一番の安息の時だった。  誰かがイリスに問いかける。 「もう走るのをやめたいか?」  その問いに、イリスは今まで何度か応えてきた。  もう一回、次は青い灯台の見えるところまで。もう一回、海の果てに赤い陽を臨むまで。  そのたびに見た光景が、イリスの存在意義になった。  イリスは夢の中で、その誰かに応える。 「……いつか、あと一回と私が言ったら」  イリスは闇の手と自らの手を重ねて、願いを口にする。 「その最期の目的地で、あなたと結ばれたい」  イリスが笑うと、闇も笑う気配がした。  彼はイリスの手と手を重ねると、一瞬で辺りから消え去った。  イリスは瞳を開いて伸びをする。熱は下がり、足の疲れも消えていた。  洞穴の外も嵐が去ったようで、白い朝の光が差し込んでいた。  イリスは足を伸ばして、羽の生えたサンダルをよく足に結わえ付ける。 「さて、今度はどこまで行けるかわからないけれど」  イリスは顔を上げて、透き通った青い空を見上げた。 「走ってみよう。もう一回、誰かが虹を待っているところまで」  そう言って、イリスは地面を蹴って空に跳んだ。  淡い淡い、光そのものの白を描きながら、イリスは今日も空を往く。
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