追々試験

4/6
前へ
/6ページ
次へ
「そりゃ、まずいね。せっかく就活終わって金髪にしたのに、内定が取り消されたらまた黒に染め直さないといけないよね」 「でしょでしょ。だからあと一回」 「だから、やんないって。他の科目で頑張りなさいよ。僕の授業は必修科目じゃないんだし」 「むーりーでーすーよーお。あと単位満たすためには後期に『ファイナンス理論』の単位取るしかないんですもん」 「取ればいいじゃん、そっちで」 「先生だって、あの教授の話聞いたことくらいあるでしょう? 扇風機で答案全部ぶっ飛ばして、近くに落ちたものから成績つけてるって噂あるくらいなんですよ。たくさん書いてれば重くて遠くまで飛ばないはずだ……みたいな。ぜーったい通らないじゃん、そんな授業の単位」  ああ、まあ、あの人ならやりかねない。僕が助教時代にさんざっぱら嫌味を言ってきた「ファイナンス理論」を担当する老教授の顔が浮かんできて、かぶりを振った。そしてきっと、あの人は今の僕みたいに、一時間以上も学生の懇願に耳を傾けたりなどしないだろう。試験結果はドベだが単位はよこせ、という願いならば尚更だ。  うーん、そう考えたら確かに、可哀想になってきたけれど。  いやいや、だからってこんな簡単に(ほだ)されちゃダメだ。僕が毅然としなければ、他の教員にも迷惑をかける結果になりかねない。融通の効かぬ堅物と、(そし)らば謗れ。きみのような学生だって既に理解していると思うけど、大学教授なんて変なやつばかりなんだよ。僕も含めて。  椅子の背もたれから身体を離し、僕は机に腕を置き、組んだ手のうえに顎をのせる。咳払いをした。ここからはモードが違うぞ、という区切りの意味も込めて。 「――あのねえ、新川さん。気持ちはわかるけど、僕は学生の中であなただけを特別扱いするわけにはいかないんだよ。僕は学則にのっとって追試験を実施し、その結果として、授業に対するあなたの理解度が十分ではないと判定した。だから僕は授業の担当教員として、あなたには『不可』という成績をつけざるを得ないわけ」  さっきまで産まれたばかりの雛鳥みたいに開き続けていた、彼女の唇の動きが止まっている。ずっと気さくな感じで話しすぎたから、少しくらいは真面目に言って聞かせる必要があると思ったわけだが、功を奏しているようだ。彼女にとっては逆かもしれないが。  よろしい、この調子で続けるか。 「救済措置は執らない、ってシラバスにも書いてあったでしょう。あれは脅し文句じゃなく、本当にそうするつもりで書いたことだよ。実際、本試験で受けていた四年生も何人か成績が足りなくて単位を落としているし、もしもここであなたを救済したらその人達にとって不公平な――」  ことになっちゃうよね……と並べるつもりだった、続きの言葉が宙に浮く。  まさにいま、彼女は声を殺して、さめざめと泣き始めたからだ。先程までの気安さと軽さはどこへやら、その少し後には目の前で生家を戦火に焼かれた幼子のように泣きじゃくっているだなんて、彼女自身も想像していただろうか。  それにしても、困ったよ。学生の泣き落としに遭った先輩教員たちの話は聞いたことがあったけれど、まさか僕までそんな目に遭うとは思わなかった。でも言えば言うほど、ここで彼女に救いの手を差し伸べるのはアンフェアとしか思えなくなったんだよなあ。まあ僕が彼女だったら「うるせえな、ぐちゃぐちゃ綺麗事言ってねえで救えよ」って思っていたんだろうが。  しかしながら、僕はこういうシチュエーションに慣れていない。文献を捲り、新たな気づきや知識に触れることは得意でも、光に透かした人の心に指先ひとつ触れることすらできやしない。僕自身が学生だった頃から、ずっとそうだ。実際、今でも心の片隅では(試験で結果を出せなかったきみが悪くない?)って思っているところがある。  問題はその思いが徐々にその領域を縮小させ、今は(可哀想だなあ。まあこれだけお灸を据えてやれば次はちゃんと点が獲れるかもな)と思っている部分が、急速に僕の胸中で増殖しているという点である。毅然とした態度を示そうと決めたくせに、ここぞという時に非情になりきれない自分へ苛立ちさえ感じてきた。  すると。 「わかりました。……もう、不可でいいです」  涙色に濡れる彼女の声が、狭い研究室の空気を揺らした。  お、案外素直になったな。これでやっと解放される。赤と白で縒られた緊張と疲労の糸が今まさに、金ピカの大げさなハサミでプツンと切断され――  そうになった瞬間。 「私の人生は、先生の手によって、たった今『不可』になりました」
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加