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言いさま、すっと立ち上がった彼女は机をまわりこみ、僕の後ろ側にある研究室の窓に駆け寄った。無言でサムターンを回して鍵を開けると、勢いよくサッシを開け放つ。
そして、あろうことか、腰あたりの高さにある窓枠へ両手をついて、大きく身を乗り出したのだ。
「ちょっとちょっとちょっと、何してんの。新川さん」
思わず僕は、そのまま窓の外にフライアウェイしそうになった彼女の腰を後ろから抱きとめる。殺人者と罵られるくらいならまだアカハラ呼ばわりされたほうがマシだ。彼女はふわりとしたシルエットのワンピースを着ていたが、どうやらそれに包まれた身体はもっと細身だったようで、どれだけ腕を引き寄せても身体を捕らえられず、一瞬で恐ろしく肝が冷えた。なにせ、ここは研究棟の七階なのだ。落ちたらひとたまりもない。
放せ死なせろ、とか絶叫するんじゃないのかと思っていた彼女の反応は、予想外に冷淡だった。
「だって先生、もう私にチャンスくれないって言ったじゃないですか。だから、もういいやって」
鈴の音が鳴るような声色で「あと一回」を懇願していた彼女はいま、強引に書かされた作文を無感情で朗読しているような声を紡いでいた。
「もういいんです。試験も不合格だし私の人生も不合格。きっと内定先でも不合格ですよ。私なんてもう人間失格落第絶望なんです。せっかく先生は試験を受けるチャンスをくれたのに不合格です。玉川上水は近くにないし、単位と一緒に私もここから落ちます」
「信用取引で大損した人みたいなこと言うんじゃない。ほら、とにかく戻りなさいって」
研究を言い訳にして続けていた不摂生が祟ったのか、僕はなかなか彼女を完全に窓から引き剥がせない。さすがに学生の姿は少なくなっても、同じように研究室にこもる他の教員もいるのだ。他人にこんなところを見られたら、たまったものではなかった。というかやっぱりこの子は文学部落ちか、あるいはただの本好きだ。
「いいんです。それを逃せばもう二度とないからこそ『あと一回』って言うんですから。私はずっと気づかないふりをしていたけど、先生のおかげで、そんなの努力できない馬鹿がやることだって目が覚めました。私の人生に『あと一回』はあり得ないですけど、最期に教えてくださって、ありがとうございました」
もう一度、彼女は窓の外に向かって、ぐいと力を作用させようとする。
ああ、まったく。
「わかった、わかったから。きみの人生にもまだ『あと一回』があるから」
「無いですよ、そんなの。たった今、先生がその手で奪ったんじゃないですか」
うるさいな。
「だから、あるって。無いってんなら、俺がくれてやる。奪われたって言うんならそっくりそのままお返ししてやる。だからいい加減に降り――」
彼女の朗読みたいな声と対照的に、僕の声はあと一歩で「悲鳴」にカテゴライズされかけていた。ふっと彼女の身体から、外側に引っ張られる力が消える。僕は彼女の腰に腕を回したまま、部屋の中のほうへ、まるで見えざる手で引き込まれるように倒れ込んだ。
尻から着地し、そのまま床に倒れ込むかと思いきや、ちょうど椅子が支えになって、完全に横倒しになることだけは免れた。もっとも座面にしこたま頭を打ち付け、脳裏に火花が散ったけれど。
痛い。
昨晩、頭に突っ込んだばっかりの知識が口から出てきそうな心地がした。
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