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再び、狭い研究室の中を沈黙が満たしていく。わずかにその空気を揺らすのは僕と、彼女の呼吸音のみだ。近づいてくる駆け足なども聞こえず、この様子だと、さっきの救出劇を誰かに目撃されたりはしていないらしい。
「先生」
にしても、さっきのは危なかった。長い下積み生活を経てようやく得られた椅子を、たった4単位を学生に与える与えない程度で失うところだった。
「先生」
僕は意気地なしなところがあるから、目の前で誰かが死に直面していても、何もできやしないとずっと思っていた。だが実際は必死で彼女の身体を掴んで放さずにいられた。そういう意味では、僕にも誰かが人生を泳ぐための単位をくれたっていいんじゃないのか。学生の頃はろくに友達も作らずに勉強ばかりしていたし、まだこうして大学の構成員となっているのは、一生留年と言われてもおかしくない状態でもある。そんな中で人命を救わんと体を張ったのだから、最高評価の「秀」はカタいだろうという自己評価だ。そうでないと、今も興奮状態にある胸の鼓動を落ち着かせられない。取り戻せない時間にいくら想いを馳せても、どうにもならないのは分かっている。いまさら僕は、あんな――。
「もう飛び降りを試みたりとかしないんで、そろそろ放してくれていいですよ」
そこで我に返った。彼女の腰にまわしたままの腕を、ぱっと放す。さっきまでの思い詰めた様子など微塵も感じさせず、はぁー、と彼女は息を吐きながら立ち上がり、大きく伸びをひとつ。朝起きたばっかりみたいな振る舞いだ。
彼女は、今も床に座り込んだままの僕に向かって振り返る。傾き始めた陽の光が、彼女の金色の髪をきらきらと輝かせていた。
「先生、私に『あと一回』くれるって――」
「あー、もう、わかったわかった。きみには負けたよ」
彼女に出会ったのが、彼女が就職内定を得た四年生という今のタイミングで良かったと、心から思う。こんな肝が冷える思いをするのは一回こっきりでおしまいだということがわかるからだ。彼女の学年が上がるごとに同じことをやられては、たまったものじゃない。
尻を叩いて服の埃を払いながら、僕ははっきりと彼女に宣告した。
「だが、新川さん。きみに追々試をしてあげることは、一切の他言無用だ。そして追々々試はしないぞ。いいかい」
「わかってます。その時は大人しくファイナンス理論の試験受けて、できるだけ吹き飛ばされない答案を書きます」
「やけに素直になったけど、どうしたんだい」
「んー、まあ。なかなか稀有な機会に恵まれたから、なんか満足したっていうかですね。もちろんせっかく、あと一回チャンスをもらえたわけですし? 落とさないようにちゃんと勉強しますけど?」
そう言いながらどうして目が泳いでいるんだ、と問いかけようとしたとき。
「――でも、私はもう一回、聞いてみたいな」
天をふよふよ漂っていた視線が落ち、伏し目になった彼女へ、訊ねた。
「何をだ」
「先生の一人称が『僕』じゃなく『俺』になるところ」
だめだ、こりゃ。
僕だって人生に「不可」の烙印を押されたくはない。彼女にはさっさと、このキャンパスを後にしてもらわなければならない。
そうでないと、余計にこの胸の高鳴りは――。
ちょっときゅんとしました……とはにかみながら話す彼女に、試験結果はどうあれ、どうやって成績に下駄を履かせてやろうか考えている僕がいた。
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