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夏のパトロール
私の家は高等学校の旧校舎だ。授業開始のチャイムが鳴り私は大きな欠伸をしダンゴムシの様に丸まった背筋を伸ばした。
(それにしてもどうした事だ)
ここ数日、階段を降りたいつもの場所に食パンや牛乳が無い。それに教室の窓は閉め切られたままで授業に参加する事が出来ず全くもって退屈だ。
(どれどれ)
渡り廊下を通り過ぎ体育館を窺い見るとツンとした臭いが鼻につき、鼓膜を破りそうな衝撃音が床を叩いていた。丸い球には思わず飛びつきたくなるがここは我慢だ。あのような忙しない群れの中に飛び込めば一瞬で揉みくちゃにされ終いには体育館の外に放り出されるに違いなかった。
(ふぅ)
そしてアブラゼミの鳴き声は非常に暑苦しく辟易した。いつまでもこの場所にいても仕方がなく私は気分転換に朝の巡回に出掛ける事にした。電信柱の影を踏みながら陽炎が揺れるアスファルトの道を歩いていると情けない事に足裏が痛みをもって悲鳴を上げ始めた。このままでは火傷をしてしまう。そこで私は特別な場所へと一目散に向かった。潜り込んだ草むらでは身体にオオオナモミがあちらこちらに絡み付き違和感に苛まれた。先が尖った背丈ほどの雑草を掻き分ける時などは片目を瞑らなければならなかった。それでもその場所には行く価値があった。
(熱い、背中が焦げそうだ)
思い浮かべるのは川面を走る涼風。渇いた喉は川の水で潤し浅瀬の魚やカエルで腹を満たす事が出来た。それより何より車や人の往来が少ない静かな橋下は日が当たらずコンクリートはヒヤリと冷たく昼寝には最適だ。
(あれは)
ところが草むらの向こうには物凄いスピードで私を追い越す黒いタイヤがあった。
(自転車だ)
私は自転車が大嫌いだ。それは路地から突然飛び出し私の尻尾を掠めた。あの時は肝を冷やしたが自転車は謝罪の言葉も無く走り去ってしまった。その自転車が堤防の段差に立て掛けられ夏の日差しを弾き私の目を眩ませている。これは油断がならないと身構えた私は黄色い花が咲くカモガヤの茂みに身を潜めた。
そこへ堤防の階段を降りて来る人の気配があった。風上から私の苦手な柑橘系の香りが漂い私の白い髭は真昼の朝顔の様に萎んだ。
「こんにちは、井浦くん」
そこには私の家に毎朝食パンや牛乳を届けてくれる女子生徒の姿があった。面差しは違うが同じ制服を着ているので間違いはないだろう。ただその手に食パンの袋や牛乳の瓶を持っていない事に気付いた私は落胆した。
「田辺さん」
私の特別な場所を独り占めしていた男の名前は井浦くん、高等学校の女子生徒の名前は田辺さんと言った。田辺さんは井浦くんの隣に座ると文庫本の表紙を覗き込んだ。
「今日、部活動はお休みなの?」
「ああ、うん。今夜は天体観測に行くから昼間の部活はないんだ」
「天体観測ってあれ?望遠鏡とか担いで行っちゃう感じ?」
「うん」
「青春じゃん」
「そうかな」
「うん」
それから口をつぐんでしまった田辺さんは小石を拾うと川面に落としその音はせせらぎにゆっくりと消えた。井浦くんは文庫本に目を落としていたがその指先はページをめくる事は無かった。
(昼寝はしないのか)
耳周りに絡まったオオオナモミの実を後ろ足で掻いていると、まさに今カエルを仕留めようとする緊張感が走った。私は後ろ足を静かに草むらに下ろすと背中を縮こませた。田辺さんは川面を見つめたまま小さな声で問い掛けた。
「井浦くん」
「なに」
「あの子も行くの?」
一瞬の間。
「あの子って誰?」
「科学部の一年生の」
「一年生の誰?」
どうやら田辺さんが猫で井浦くんがカエルらしい。
「一年生の女の子、佐藤 瑠璃ちゃん」
「え、どういう事?」
「瑠璃ちゃんも天体観測に行くの?」
田辺さんは前のめりになって詰め寄った。
「佐藤さんも科学部だから行くよ?なんで?」
「なんでって」
その時、私の目の前をキリギリスが横切った。野生の本能は場の空気を読む事が出来ないらしく私は思わず茂みから飛び出していた。
「あっ!猫!」
微妙な時間を切り取る様に田辺さんが私を指さした。突然、指をさすなど失礼極まりない。
「え、どこ」
「あそこ!ほら黄色い花の中に茶色の猫!」
「茶色?」
「茶色の白いシマシマ!」
どうやら井浦くんは視力が弱いらしく私の姿を見つけ出す事が出来なかった。
「ほら!あそこにいるよ!」
「あれかな?」
「尻尾を振ってる!」
私の姿に興奮気味の田辺さんは井浦くんの肩を叩いて目を輝かせていた。
「え、猫も尻尾を振ったりするの?」
「振ってる!ブンブン振ってるよ!」
それはそうだ。昼寝は出来ない腹も満たせない、怒り心頭に発した私は威嚇の姿勢で睨みをきかせた。
「かーわいいー!」
「本当だ猫だ、でもなんだか怒っているみたいだよ」
「そうかなぁ、触りたいなぁ」
可愛いなどといっときの情など要らぬ、食パンの袋や牛乳の瓶を持たない者に頭を撫でさせる義理はない。
「可愛いなぁ、撫でたいなぁ」
「引っ掻かれちゃうよ」
「猫、飼いたいなぁ」
「猫好きなんだ」
そんなに見るな。田辺さんは笑顔で井浦くんは興味津々の面差しで私を見ていた。
「そういえばさっきの話の続き」
「・・・・・・」
井浦くんが田辺さんにゆっくりと向き直ったその時、瞬きをする間もなく猫はカエルを捕まえた。
「えっ、なに!」
「なにって、なに」
井浦くんは信じられないと言った表情で自分の頬を撫でた。
「井浦くん、私も天体観測に連れて行って欲しいな」
そうなのだ。田辺さんは井浦くんの頬に鼻ツンツン、いわゆる口付けをしたのだ。突然の出来事に慌てたその手は文庫本を河川敷に落とし、その音に驚いた私はもう一度カモガヤの茂みに飛び込んだ。
「こっ、今夜、部活のみんなと一緒に行く?」
「そんな意味じゃなくて」
田辺さんは澄ました顔で微笑んでいたが動揺した井浦くんの手は忙しなくペットボトルを探していた。ようやくそれを手にしてキャップを回した瞬間、熱で膨張した炭酸水が飛び散った。
「そ、そんな意味じゃなくて?」
「流れ星が見たいなって思ったんだ」
「流れ星」
「うん、まだ一度も見た事がないんだ」
井浦くんはぬるま湯の炭酸水を飲み干した。
「流れ星、流星群だね」
「流星群って言うんだ」
「今年の夏はペルセウス流星群が見られるよ」
「ペルセウス流星群かぁ、流れ星、たくさん見える?」
「雲がなければ一時間に十個」
「すごい!見たい見たい!」
二人が星のない青空を見上げたので私もつられてカモガヤの茂みから宙を仰ぎ見た。その時、水鳥が飛び立ち尻がウズウズしたが今度は場の空気を読みじっと堪えた。
「綺麗なんだろうなぁ」
「綺麗だよ、僕も初めて見た時は感動したよ」
田辺さんはゆっくりと髪を掻き上げながら息を大きく吸って深く吐いた。
「その流れ星、井浦くんと一緒に見たいな」
「・・・・・・」
「駄目かな?」
井浦くんは俯き加減で唾をゴクリと飲み込んだ。
「僕も、田辺さんと一緒に見たい、です」
「え、聞こえなかった」
「・・・・・」
川のせせらぎが悪戯をして井浦くんの声をかき消してしまった。
「・・・・・」
「なに?」
「あの」
「うん」
「たっ田辺さん!僕と流れ星を見に行きませんか!?」
田辺さんは校庭に咲くマリーゴールドの笑顔で右手を高々と挙げた。
「行きます!」
その姿に安堵した井浦くんは照れながら足元に小石を四つ並べた。
「・・・・なにしてるの?」
「これは秋の四角形」
「確かに、四角形だね」
田辺さんはその一つ一つを指さした。
「ペルセウス座は秋の星座なんだ」
「秋」
「秋はペルセウス座の他にペガスス座とかアンドロメダ座があって明るい星が四つ並ぶんだ」
「物知りだね」
「科学部だからね」
「だね」
井浦くんは少し張り切って喋りすぎたと気不味い顔をした。
「その星が四角形なの?」
「明るい星を繋ぐと秋の四角形になるんだ」
「見たら分かる?」
「分かるよ」
「それは秋になったら見られるの?」
「うん、秋の少し寒い頃かな」
「寒い頃かぁ」
「秋の四角形も一緒に見る?」
突然の提案に田辺さんは上擦った声で「うん」と答えた。
橋下の日陰は眩しくなり盛夏の風が熱さを運んで来た。井浦くんは白いトートバッグに気の抜けた炭酸水と砂利にまみれた文庫本を入れ肩に担いだ。
「図書館行かない?」
「真面目か!」
「星座の図鑑を見ようよ」
「あ、星ね」
「うん」
井浦くんは堤防に座っている田辺さんに手を差し出した。
「はい、掴まって」
「ありがと」
「お、も」
一瞬、重いと言われた田辺さんは「ひどい!」と顔を真っ赤にして怒っていた。
「ごめんね」
「・・・・」
「本当にごめんね」
「いいよ、今回だけ許してあげる」
二人は手を繋いで階段を登って行った。自転車のチェーンが回り白いバスケットシューズの後に焦茶のローファーの足音が続いた。笑い声が遠ざかりようやく私は茂みから這い出す事が出来た。
(やれやれ)
橋下のコンクリートはすっかり熱を帯びていた。明日、また井浦くんと田辺さんがここに座っていたら無粋かもしれないが仲間に入れて貰おう。もしかしたら私とも鼻ツンツンしてくれるかもしれない。夏のパトロールに一つ楽しみが増えた。
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