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登山口の看板には山の命名理由と簡単な歴史が記述されていた。取り敢えずスマホを取り出して写真を撮っておく。相澤さんは黒い一眼レフカメラで、地面で蠢いていたアリの列を撮影していた。後ろを振り返ると赤い屋根の古びた民家と工事中の新居が並んでいた。快晴の空模様の中に電柱と電線が混じり込む。
「なんか緊張してませんか?」
「山は僕達を試すんだ。山岳部の部長としても、一人のクライマーとしても、油断は出来ない」
「この山、標高百九十メートルの低山ですよ? 登山道も整備されてますし、何なら私の祖父も毎日私服で登ってます」
相澤さんは冷静に山を分析しているが、僕はそれでも緊張を解く事が出来なかった。確かにこの山で事故が起きる可能性は限りなく低いかもしれない。しかし、山での事故はいつも油断から起こる物だ。滑落事故や雷が真横から落ちてくる事もある世界なのだ。低山だからといって警戒を怠る理由にはならない。
後は、単純に数年前から好きな女の子と二人で登山するという事実で心臓がバクバクしている事も緊張を解けない要因の一つだ。こっちの方が比率としては大きいのだが、それを相澤さんに伝える勇気は無い。
「あっ、あそこにダンゴムシがいますよ。それもオカダンゴムシのオスですね。すごく可愛いなあ」
「さすが昆虫部。種類と性別も分かるんだね」
「いえ、めちゃくちゃ適当な嘘です」
「ええ……? 何故そんな嘘を……?」
「すみません、ちょっとからかいたくなっちゃって。お詫びに面白い事教えてあげますね」
相澤さんはそう言うと近くに落ちていた石をダンゴムシの前に置いた。するとダンゴムシはその石を躱そうと右へ進路を変更した。その後にもう一度石を正面に置くと、今度は左に動いた。その次は右。その次は左。左右交互にダンゴムシは障害物を回避していく。
「ダンゴムシは右に曲がったら次は絶対に左に曲がるんです。これを交替性転向反応と言います」
「へえー。何か面白いね。確かに可愛いかも」
「ふふふ、実はこの知識をひけらかしたくて仕方無かったんです。私、ダンゴムシファンですから」
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