苔丸

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 その沼に棲みついていた「それ」に名前を付けたのは、近くの村で暮らすひとり者の(じじい)だった。  たまたま見かけた「それ」を、生き物と見間違えたがゆえの名付けだった。「それ」は生物ではなく、けれど無生物でもない。沼の中、ぐるぐると淀み続けていたものが形を成している途中のものだった。  沼には他に生き物はなく、いても虫くらいのものだった。ある程度の大きさのものが蠢いたものだから、生き物に思えたのだろう。 「苔丸(こけまる)」――と、爺は呼んだ。  黒い岩のような形が丸い姿に見え、そこに纏わりつく淀みが濃い緑のような黒毛に見えたためであった。 「こっちゃ来い、苔丸。苔丸よぅ」  爺はひとり身になって長く、村で寂しい思いをしているようだった。名前をつけられた「苔丸」は、己を呼ぶその爺の人恋しい声で淡い自我を得た。  おそらくは、爺は苔丸を犬か何かだと思ったのだろう。いや、さすがにこんな暗い沼に犬がいるとは思うまい。大きな爬虫類や両生類の類と思ったのかもしれない。  爺にとってはどちらでも良いことだった。村人たちもめったに近寄ることもないこの人気(ひとけ)のない沼で、何か心を惹かれる生き物に出会った。それが哺乳類だろうと爬虫類だろうと何でも構わなかったのだ。  眠りから目覚めたばかりのものの意識が曖昧模糊としているように、苔丸の生じたばかりの意識もまた、曖昧で薄ぼんやりとしていた。ただ自分を呼ぶものがいるなというそのことだけを、何となく把握した。 「苔丸、今日も来たぞぉ」  はじめて名前を呼ばれてから何日経っているのか、苔丸にはまだよくわからない。今日も、ということは別の日にも来ていたということだ。おそらくは、これまでに何度も通っているのだろう。 「お前は大人しい奴だなぁ」  爺は凝り固まった表情筋を不器用そうに引き攣らせながら笑みのようなものを浮かべる。苔丸の警戒心を解いてやろうとしたのだろう。 「爺はここで飯食ってっからな。お前もこの握り飯食いたくなったら出てこいな」  沼のほとりの平たく大きな岩を定位置に、爺はそう言って昼飯の握り飯を欠けた歯で食っていく。苔丸はただ、その様子を見ていた。  握り飯は村人らが爺に差し入れてくれるものらしい。そのようにして老人を助ける仕組みはあったが、深く関わる者がいなければ爺の寂しさは癒えはしない。ましてや強がり、自ら他人を突っぱねているのだから、爺に積極的に関わろうとするものはいなかった。  人嫌いのそぶりを一度でも見せれば周囲も容易に近寄ろうとは思えないものだ。 「苔丸ぅ。飯、うまいぞ」  村人らが寄越した握り飯をありがたいと感じ、うまいと思う。その気持ちを爺はなぜかうまく外に出せない。村人たちはみな優しいが、それぞれに守るべき家族がいる。大切なものがいる。それを思うと、自分などに関わらせていてはならぬと感じてしまうのだ。  だからと言って一人で家にいても気詰まりで、それで村人も寄り付かぬような沼に通うようになった。  そこでたまたま見つけた「苔丸」相手なら、爺は素直に声をかけることができた。 「また明日も来るからな。苔丸、楽しみにしてろな」  苔丸を求めてここへ来るくせに、自分から近づいてこようとはしない。今日も一人勝手に話しかけ、握り飯を食っただけの爺だった。  苔丸は黒い靄のような塊に生やした幾本もの足で、かさかさと繁みから出て来た。沼に潜って隠れている時もある。そんな時はがっしりとしたヒレを生やしてざぶざぶと沼からあがる。苔丸の体の形は定まっていない。  苔丸は爺が岩に残していった握り飯の残りの匂いを嗅いでみる。食い物には匂いがあるのだということに、つい先日気づいたばかりだ。  村の匂いと、爺の手の匂いがついていた。  苔丸は物を食って生きるものではないから、はじめのうちは爺が残していくそれが何なのかわからなくて放置していた。すると翌日、訪れた爺が「また食わんかったのぁ」と言うので爺のしていたように「食う」をしてみた。まずは「口」という部位を作るのに手間取ったものだが。 「食う」と人のことが少しだけ学べたような気がした。  食ったあとは体が少し、重くなった。 「苔丸、食ったか! 飯食ったのか! 腹いっぱいになったか? うまかったか?」  握り飯がはじめてなくなった時、爺はあの不器用な笑顔を苔丸がいると思しきほうへ向けて喜んだ。あの体が重くなる感覚が「うまい」なのかと、苔丸はまた学んでいく。  苔丸は爺が見ているのとはまるで別の場所にいて、無邪気に喜ぶそんな爺を眺めていた。 「苔丸」というのはどうやら自分をさすらしい――とある時苔丸はようやくはじめて気が付いた。  ここに来る度連呼されるその言葉の並びが、自分に向けられていると唐突に理解したのだ。  爺はいつも自分を探しているらしい。自分に話しかけているらしい。その時に口にする言葉の羅列の中には、「苔丸」という単語が多く出てくる。  ためらいがちにおそるおそる、手を伸ばそうとしてくることがある。「なあ」ともうぎこちなくはない笑顔で呼びかけてくることがある。 「苔丸」  呼ばれた。  苔丸は爺のほうを見る。 「いつまでも隠れとらんで、爺んとこに寄っちゃくれんか」  それはとても静かで暖かな声だった。 「お前がただの動物じゃないっちゅうことは何となくわかる。もしかしたら怖い姿をしてるのかもしれん。それでも構わんから、こっち来て顔見せてくれんか……?」  苔丸は何の反応もしなかった。ただ暗がりからじぃっと爺の顔を見る。  しばらく黙り込んだのち、爺は握り飯に手をつけないまま岩場に置いた。 「また明日なぁ」  あと一回、と苔丸は思っていた。  思考というにはまだ及ばないくらいの意識の揺らめきにしか過ぎなかったが、苔丸はたしかにもう一回名を呼ばれるのを待っていた。  あの皺だらけの顔の中にある口が動いて、「苔丸」という動きをして声を発したなら、苔丸は出ていくつもりでいた。  それが無かったので出なかった。  ――また明日。  苔丸は爺の言ったその言葉を反芻しながら、握り飯を全部食って「うまい」を感じていた。  だが翌日になっても爺は沼に来なかった。もとより時間感覚の薄い苔丸は、あまり気にせずそのままにした。  その次の日になっても爺は現れない。苔丸にとっては、時間とはぼんやりしていればいつの間にか過ぎているものだった。だがこの時はじめて、「おそい」という感覚を味わった。  数日を数えるということをはじめてした。そのあたりでしびれを切らし、苔丸は沼を這い出した。地面を進むのに良さそうな姿を取ってごそごそと薄暗い道を進んでいく。  しばらく行くと、よく見知った形のものがいた。それは地面に倒れていた。  爺が倒れているのだった。  苔丸は近づき、爺の匂いを嗅ぐ。これまでついぞ嗅いだことのないような臭気がつんと漂っていた。  爺は死んでいるのだと、苔丸は理解した。ここには命が入っていない。  大きい体を持つ生き物が死ぬと強烈な臭いを発するのだなと知った。爺は少し腐っているようだった。  苔丸はその場でしばしうごうごと形を変え、成形したかと思えばまた姿を変え、最終的に元の黒い靄に足を生やした形に己を定めた。  その体を爺の体の下に潜り込ませて、持ち上げる。脆くなった体の一片も落とさぬよう体を平べったくし、爺の死体をしっかりと背に乗せた。  村の匂いなら憶えていた。死ぬ前の爺の匂いも。  苔丸は爺が毎日歩いていた場所を辿り、村から漂ってくる匂いを辿りして、爺の粗末な家の前まで死体を運んだ。  爺の家の前には、村人が何人か集まって話し込んでいた。  いなくなっちまった、とか探しに、とか、もう何日経った、とかいう話し声が聞こえてくる。  爺はここだぞ、と言うようにして、苔丸は爺の死体をどさりと地面に落とした。その音に、爺の家の前にいた者たちがはっと苔丸のほうを見た。 「爺さ……っ」 「うそ、死んでる」  そういうざわめきの合間から、「ねぇ、あれ」と震える声がした。苔丸を指さしている。  化け物だ、と苔丸は呼ばれた。呼ばれてそれで、違う、自分は苔丸だ、とも思ったし、そうか自分は化け物というのか、と頷くような気持ちもあった。  苔丸は人に見られるのが嫌だったので、その場で姿を崩して地面に溶けた。「ひぃっ」という叫び声がした。  苔丸は地面に溶けたまま、爺と爺を取り囲む人間たちの周囲を付いていった。ひとまずは、と爺は家の中に運ばれた。苔丸は地面から柱に染み込み、天井に移動する。  苔丸の見下ろす中、爺は燃やされることが決まった。人間は死ぬとそうするものらしい。爺の形が無くなるというのには、奇妙な心地を覚えた。 「別にそれほど仲が良かったわけじゃあないが」  ある者が口にした言葉が、苔丸の意識を強く引いた。 「生まれ変わって、次の人生じゃ楽しく生きてくれることを願おうや」  嫌味のない、清々しい言葉だった。  生まれ変わる――。  苔丸は村人たちの会話をしばらく聞いて、その意味することを知った。  爺は次は何になるだろう。  苔丸はもうじゅうぶん、とその場を離れて外に出た。そういえばどうやら爺には名前があったらしい。――爺にも、名前があったらしい。 「うまい」のために作ってあった口の奥に、音を発する器官を作ってみた。それを使って、爺の名前を呼んでみる。かすかすとした音が出た。まだ発声がうまくいかない。  すると視界の端に、何かがきらりと光って苔丸を呼んだ。苔丸の思い込みに過ぎないだろうが、苔丸は「それ」に呼び寄せられた。苔丸はにゅうっと手を伸ばしてそれをつまみ上げる。  苔丸の手に拾われたのは、白い筋模様の入った、小さな石だった。  苔丸は爺の名前を呼んだ。先ほどよりは、ましに呼べただろうか。  苔丸は爺が自分の名前を何度読んだのか数えようとしたが、まるで覚えていないことに気づいてやめた。  苔丸は爺をどうしたかったのか、自分でも理解していない。もしあと一回、苔丸の望む通りに名を呼ばれていたなら、苔丸はきっと爺の前に姿を現していただろう。  それからどうするつもりだったのか。  爺にそばにいてほしいと言われてそばにいるつもりだったのか、爺の体を喰らって「うまい」を感じるつもりだったのか、そういう先のことを考えていなかった。  考える、というところまでまだ育ってもいなかった。  だから、あと百年ほどか。  名前をつけられて苔丸が自我を得たのなら、この小石も爺の名で百年毎日呼び続ければ爺の生まれ変わりの魂が宿るかもしれない。  その間に、己の自我も更に育つだろう。思考も意識も次第に成長するだろう。  そして小石に爺の魂が宿る日がくれば、きっと爺は「苔丸」と呼んでくれる。すぐそばにいる自分を見つけて、名前を呼んでくれるはずだ。  苔丸の求めていた最後の一度の呼びかけを聞いてどうするかは、その時の百年後の自分が決めること。  今はまだ、知らないまま。  それまではただこの小石を爺と思い、離さずそばに居続けよう。  苔丸は村を離れ、もとの沼へと帰っていく。  そして長い体となってとぐろを巻くと、その中心にだいじにだいじに小石を抱えて、沼のほとりで眠りについた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加