1.瀕死の政子

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1.瀕死の政子

 隣で寝ていた妻が虫の息だった。それが与一の目覚めだった。  慌てて喉元に手を当てれば、僅かな拍動が見られた。記憶を喚起しても昨夜まではなんの異常もなかった。寧ろ調子が悪いのは与一自身だった。胃の腑が重く、政子に医者の不養生だと呟いたほどだ。  与一は奇妙なことに気がついた。自身が寝る前と、頭と足が逆になっていた。けれどもそんなことは些細なことだ。与一は熱やらなにやらを調べたが、政子の全身はくにゃくにゃと弛緩し、熱はなく、呼吸は極めて浅い。死んでるように生きている。先日書物で見聞きした仮死状態なるものかと呆然とした。放置できる状況ではないと判断し、下男に表の診療所に休診の札をかけさせ、往診先には向かえぬ旨を告げて回るよう薬を持たせた。与一の診療所は蘭方医をまね、危急の患者については入院の制度を取っているが、今は急を要する患者もいなかった。  与一は医者だ。政子の症状は予断を許さぬが、安定しているといえばしている。治療に専念すればなんとかなるかもしれない。そう思った。  肺や胃腸の病のようにだんだんと悪化する様子もなく突然に倒れる病というものは、往々にして中毒や伝染病など何かの原因があることが多い。食べ物は同じものを食べたはずだから、関係ないだろう。そうすると普段の政子の行動によるもの、例えば行き先で何か特殊な病気や中毒となったのかなどと思い、与一ははたと動きを止めた。  普段、与一は朝に政子のつくった弁当を持って診療所に出かけ、一日の診療が終わって帰宅する。その間の日中の政子の行動について、全く思い当たらなかった。そこにちょうど、下男が帰ってくる。 「おい、昨日政子は何をしてた?」 「昨日、でございましょうか。昨日はいつもどおりお昼前にお出かけになられまして夕方前にお戻りになり、お食事の差配をされておりました」 「ええい。その昼にどこに行っていたのか」 「それは……申し訳ありませんが、存じません。私どもは掃除など仕事がございますので……。旦那様のほうがご存知じゃなございませんか?」
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