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下男の言葉にぐうの音もでなかった。昨夕も与一は政子と夕餉を取ったが、とりたてて話などしなかった。それどころか最近の与一は政子に窘められないことをいいことに、文献を傍らに行儀悪く眺めながら箸を動かす始末だ。政子も政子で診療所のことには興味がないのか、与一に尋ねもしない。
万事がそのようだったから、二人の間ではここしばらく会話もなく、つまり与一は夕餉のときに政子がどんな様子であったかも、そもそも何を食べたのかでさえ定かではなかい。そのことに呆然とした。
最後に政子と話したのは一体いつ頃だろうかとわずかな記憶をまさぐり、漸く近所の金物屋の奥方と懇意にしていたことを思い出し、気づけばふらふらと往来を進んでいた。
「草刈……草刈金物」
いつも外出といえば往診先に向かうくらいで、行き先を探しながら歩くというのは随分久しぶりだ。漫ろな気に合わせるように足元が心もとない。道は普段より広く、呼び込みの音も大きく聞こえた。
「へい、らっしゃい」
呼び声盛んなその店は老舗といえるほど新しくはないがそれなりの問屋らしく、店の内側には何人かの客があり繁盛していた。
「私はこの通りで診療所をやっております柾と申しますが、奥方様はいらっしゃいますでしょうか」
「ああ! 診療所の先生でございますね。いつもうちのがお世話になっております。おい」
「うちの……?」
奥に呼びかける亭主に何のことかと思っていれば、出てきた女人に見覚えがあった。時折診療所に来院する女人だ。
「あら、先生。いつもお世話になっております。本日はいかがされました」
診療帳簿には草刈たえと名があるが、診療所で妻と話しているのを見たことはない。
「あの、先生?」
「あ、いえ。うちの政子と親しいと伺いまして」
「ええ。親しくさせて頂いております。先日も一緒にお茶を習いに参りました」
「政子はお茶を?」
そんなことも知らないのかと与一は愕然とし、今は政子の行動を調べるのが先だと思い返して声をひそめる。
「実は……今朝方政子が今朝倒れまして」
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