2.政子の行方

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 その頃、政子はある老人と知り合った。  その老人は長崎の出島の商家で働いており、ある日、オランダ語に翻訳された『子どもと家庭のメルヒェン集』という本を手に入れたらしい。そこには様々な不思議な話が語られ、その中に『死神の名付け親』という話があった。  死にかけたものの足元には死神が立ち、いよいよ死ぬというときには枕元にたつ。そして枕元にいるときに布団をひっくり返せば、つまり足元に死神がいる状態に戻せば、病人は回復するという。  政子には小さい頃から死神というものが見えたらしい。だからそれを実践したそうだ。  与一は急に顔を青くする。この記述では肝心なことが足りないのだ。  政子がいうには死神は何人かいるらしく、多くの死神は布団をひっくり返しても頓着せずに朝になれば消えるが、ある死神だけはひっくり返すとすたすたと枕元まで歩いて座り直し、患者は結局死ぬらしい。  政子はある日、その死神が往来を歩いているのを見て驚いた。それをつけてその死神が端喰開花と名乗って俳句を吟じているのを知った。そして時折、たえなどの友人には詩を習ってるなどと言って、様子を伺っていたらしい。  与一はようやく事の次第を理解した。けれども容易に信じることはできなかった。当然だ。死神など、医者の与一には信じられなかったのだ。けれども何度読み返しても、布団をひっくり返したと書かれた日と予想外の回復をした日の日時と名前が一致したのだ。そうすると、与一は確かめざるを得なかった。  夜半、与一は静かに政子の布団のへりに座る。  ほうほうというフクロウの声も漸く止み、音をたてるのはりりりという虫の声ばかりだ。そうして、与一はようやく、何者かの気配を感じた。  与一はこの家を出ることはほとんどない。だから、会ったとしたら、ここでしか考えられなかった。それに政子は中彦に命じるだけで、実際に布団をひっくり返しはしない。 「端喰先生、いらっしゃいますね」  ざわりと闇が揺れる音がして、しばらく後、部屋の端に立てかけていた蝋燭の炎がふわりとゆれた。 「今、政子の頭にいらっしゃいますか、それとも足元にいらっしゃいますか」  緊張とともに与一の手のひらに汗が流れる。更にしばらくの後、枕のがわの闇がじわりと滲み、人の姿をもって現れた。 「……まいったな」 「端喰先生、いや、死神様。お聞きしたいことがございます。政子の様子はこれまで見たどの患者とも異なります。寿命であれば致し方がありません。私も医者です。布団をひっくり返すようなことは致しません。けど、これは政子のした事と関係あるのでしょうか」  与一の声は鬼気迫るものがあった。与一には政子がちょうど、生と死の中間にあるように思われていた。 「どうか、何故政子がこんな奇妙な状態なのか、教えて頂けないでしょうか」
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