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サトセンは必死だ。私にはわかる。きっと自動車教習所で初めて教習車に乗る人はこんな感じになるのだろうな、と思えるほどにサトセンは必死だった。サトセンがやりやすいように、私のほうから手を差し伸べてあげても良かったけれど、サトセンの自尊心を傷つけるのだけは絶対に嫌だったから、私は目を閉じたきり何もしない。
夜明け――私は窓の外にひろがる空の静寂を見つめている。
日が昇りつつある薄い空に、月が白いひかりを放ちながら、まだ微かに残っている。
そうか、なるほど。これが有明の月か。
私はひとり納得。服を着るのも忘れて薄い月の姿を眺め、しっかりと網膜に焼き付けた。
部屋の中に視線を戻した。サトセンがサトセンらしくない緊張した顔で静かに眠っていた。
サトセンの脱いだ服のすぐ脇に、サトセン宅の玄関の鍵が見えた。
里村先輩、おはようございます。起こさずに帰ります。カレーライス美味しかったです。ありがとうございます。家の鍵は郵便箱の中に入れておきます。野中夏菜乃。
ノートの切れ端に書いた置き手紙をひとつ残して、私は早朝の静かな繁華街をすたすた歩きながら澄んだ空気を胸にいっぱい吸い込んだ。
サトセンは、私にとっては初めての相手じゃない。でもサトセンにとっての私は、きっとそうじゃないのだろう。それを思うと、少しだけ心が痛かった。
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