ラスイチ

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ラスイチ

 なんで私がこんなところに来なくちゃならないの、と思いつつドアの前に立った。表札には安井カズコの名前がある。  30分ほど前、会社の同僚の宇和島ハルカから電話があった。すぐにカズコの家に行ってほしいと。理由を尋ねる私に、彼女はこう答えた。 「なんだか面倒なことになっちゃった」  面倒なことってなにと聞き返しても同じ答えしか返ってこない。とにかくカズコの家に行ってほしいの一点張りで、最後には一生のお願いだと頼み込まれたので仕方なく受け入れ、今私はここにいる。時間は夜の9時を回っていた。  安井カズコはこの春に入社してきた新人だ。かなり田舎の方の出身のようで、そのせいか結構のんびりした性格だった。彼女の指導担当に当たったのが宇和島ハルカだ。ハルカは逆に気が短いほうで、カズコと行動を共にするたびイラついた態度を見せていた。  そのハルカから、カズコの家に行ってほしいと頼まれた。つまり、二人の間に何かが起きたことは明白なのだが、それが何なのか。不安だ。  やっぱり来なきゃよかったと思うものの、ここまで来てしまったのだからと腹をくくり、インターフォンのボタンを押した。  応答がない。もう一度押しても同じことだった。ためしにドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。そっと開き、声をかける。 「安井さーん。いるの?」  消え入るような声で「はい~」と言う返事が聞こえた。なんだか様子がおかしい。真っ暗だったのでとりあえす手探りでスイッチを探して明かりをつけた。  ワンルームマンション。玄関から奥へと続く短い廊下の向こうに部屋がひとつ。廊下の右側にミニキッチン。左側に開きっぱなしの扉があった。おそらくユニットバスだろう。声はそちらから聞こえてきたようだ。 「安井さん、ちょっと上がらせてもらうわよ」  断ってから靴を脱いだ。数歩進んで扉の中を覗く。真っ先に目に飛び込んでいたのは真っ赤な液体で満たされた湯船だった。そこに片腕を突っ込んだ体勢で、ぐったりしている安井カズコがいた。  咄嗟に駆け寄りその顔を何度か叩いた。微かに開いた目が私を見る。 「あれぇ?芦原さんじゃないですか。どうしたんですかぁ?」 「宇和島ハルカに言われて来たのよ」 「ええ?じゃあ宇和島さん来ないんですか?残念ですぅ……」  目を閉じようとする彼女を揺さぶり、 「そんなことよりなに?あんたなにしたの。今すぐ救急車呼ぶから」  そう言ってから、いや先に出血を止めるべきだろうかと思い直し、洗面台にあったタオルを取って安井さんの腕を縛ろうとした。ところが、 「ああ、やめてください」 「何言ってるの。このままじゃ死んじゃうでしょ」 「大丈夫です。私、あと一回死ねますから」 「は?」  そんなくだらない冗談を言う場面か。かまわずに止血しようとする私の手を彼女は払い除けた。 「最近、簡単に人に対して死ねって言う人がいるじゃないですか?」  唐突な質問に「そうね」としか答えられない。 「私も言われたことがあるんですよね。そんなとき、実際に死んでやることにしているんです。言った人の目の前で」 「あんた、もしかして宇和島に死ねって言われたの?だからこんなことしたの?」 「はいー」 「バカじゃないの。ほんとに死ぬことないでしょ」 「だから私、あと一回死ねるんですってば。だから安心してください。今死んでも私、葬儀が終わった後に生き返りますから。でも、宇和島先輩にはそのことは内緒にしてくださいね。私は本当に死んだと思わせたいので」  そんなもの戯れ言だと切り捨てて彼女の命を救う行動に出るべきだと思う反面、死に直面しているにもかかわらず真剣に話す姿を見ているとその話が真実のようにも思えてくる。  私の迷いを感じ取ったのか、彼女は微笑みながら頷いて見せてから、 「こう見えて私、今まで六回死んでるんです。学校でいじめられていた時とか、バイト先でバカにされた時とか。死ねって言われたら本当に死んでやったんです。そうしたら、相手はすごいショックを受けちゃって。心を病む子もいましたよ。面白いですよね。死ねって言ったのは自分のくせに。ただ、その都度引っ越さなきゃならないのは面倒でしたけど」  微かに開いていた目がいつの間にか閉じていた。それでも彼女の口はゆっくりと動き続ける。 「青森の恐山の近く……小さな村の……七つの玉……ナタマムラ……ほとんど誰も知らない……その村……七つの命……持っ……生まれ……」  動かなくなった。そっと首筋に指を当てる。彼女はすでに事切れていた。  最後の言葉は途切れ途切れだったけど、言わんとしていることは理解できた。  七つの玉と書いて七玉村。彼女はそこの出身で、その村人は七つの命を持って生まれてくる。そう言いたいのだ。  その話が本当だとしても、彼女は勘違いをしている。  命が七つあったからといって七回生き返れるわけじゃない。六回死んだ時点で命はあとひとつ。それで死んだらもう終わりなのだ。 「やっぱりバカだよ、安井さん」  哀れむ思いで私は彼女の頭を撫でた。
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