懐かない息子と来ない妻

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懐かない息子と来ない妻

 ひっかき傷が無数に出来た右手を撫でながら、どかっと安っぽいプラスチック製の椅子に座る。  目の前には息子が「辛うじて」座っている。泣きはらした顔をしているが、泣きたいのはこっちだ。何度も何度も爪を手に立てられ、ひっかかれたのだ。  歯で俺の手に噛みつこうとしたのが見えた時、流石に我慢の限界が来て、頭に拳骨を入れたが、警察に通報されていないか不安になる。  体罰をしてくる大人が子供の時は疎ましかったが、いざ大人になってみると分かる。言葉の通じない子供への対応をするとき、暴力という選択肢を外すことは非常に難しい。  ガチャガチャを回したい、回したい、と何度も何度も喚き、こちらが折れて、3回ほど回させてあげても、これじゃ足りない、と喚き散らす息子に何度仏心を発揮したことか。 「あと一回、あと一回」  そうせっついてくる息子をガチャガチャのコーナーから引きはがし、このフードコードに連れてくるまでで、俺は満身創痍だった。  手をもう一度見る。いくつかの傷に血が滲んでいた。俺はそれを息子の方に見せてやる。これぐらいの教育は必要だ。 「見ろ、血だ。お前がやったんだ」  息子は拗ねた目で、俺を恨みがましく見てくる。相手は子供なのに、そんなことに対して無性にイライラしてしまう。  今も退屈なのか、椅子から降りようとしている。こら、と言うと渋々座り直したが、機嫌はさらに悪くなったように見えた。  思いやりを発揮しそうにもないし、罪悪感を覚えている風でもない。何をしても自分は許されると思っている。  あまり好きな言葉ではないが、子ガチャという言葉が頭に浮かんできた。 「勝さん」  後ろから義母が俺を呼ぶ声がした。 「ああ、お義母さん。すみません。こんなところで」  茶色に染めた髪と色付きの眼鏡、やや青みがかった羽織り物という出で立ちの彼女は、俺の手の傷をすぐに見つけた。 「いいのよ。ところで、どうしたの、その傷は?」 「優にやられましてね。ガチャガチャから離すのにえらい苦労しました」 「まあ、それは…。優ちゃん、お父さんにそんなことするなんてダメでしょ!」  優は祖母にも怒られて、流石に居心地が悪そうにモジモジと体を動かし始める。 「悪いことしたら何て言うの!? いつも教えてるよね!?」 「…ごめんなさい」  唇を尖らせながらも、俺が叱っている時には絶対に言わなかった謝罪の言葉を口に出す。 「優ちゃんのためにケーキ買ってたけど、もうあげない! 今日は反省しなさい!」  祖母はそれだけ言うと、機嫌悪そうに隣の椅子に座る。優は今になって大変なことをしてしまったと思っているのか、顔を青くして、体を震わせている。  大丈夫だ、優。多分明日、新しいケーキを買ってくれる。  孫に甘い義母の行動を予測し、そう心の中で呼びかけてやるも、当然通じるわけもない。  この2年ほどで急に髪が白くなった義父もやってきて、4人で昼食を食べる。アイスが食べたい、とねだる優に義父はほだされそうになっていたが、 「あなた」  という義母の冷えきった呼びかけに固まってしまう。優のご機嫌はさらに悪くなった。 「じいじと手、つなぐの」  フードコートを出る時にそう言い放った後は、優は俺の方を見ようともしなくなった。義父は満面の笑顔で孫の申し出を受けて、手を握っている。 「ごめんなさいね」  前を歩く優と義父の後ろを、俺と一緒についていっている義母が話しかけてくる。  ただ、何で謝られたのかさっぱり分からず、何と返せばいいのかが分からなかった。俺が困っているのを表情から読み取ったのだろう、義母が説明を継ぎ足してくれる。 「優ちゃんのことよ。あの子がもっときつく教育しないから…」 「ああ、そういうことですか。大丈夫です。優は昔から、俺には懐きませんので」  おかげで満足に10分間抱っこできたためしがない。俺が抱っこしてたらこの世の終わりのように泣きわめくのだ。  義母は俺の返答に、首を横に振る。 「あの子は、勝さんを軽んじています。3か月も優ちゃんを勝さんから引き離すなんて。その状態だったら懐かないのは当然です」 「…楓、最近は調子どうですか?」 「表面上は落ち着いています」 「家に帰れそうですか?」 「それは分かりません」  つまり帰れそうじゃないってことだ。  3か月前、しばらく実家に帰るから、とだけメッセージを寄越し、息子を連れて帰った彼女。  会社でそのメッセージを読んだのだが、その後の記憶があまりない。  とにかく走って家に帰ったことだけは覚えているが、はっきりと思い出せるのは、息子が大事にしていた電車のおもちゃが一式無くなっていたのをリビングで見たことだけだ。  義父と義母から連絡が入ったのはその日の夜だったが、恐ろしいことにこの時何を話したのかすら記憶が定かでない。 「楓はどうしたいんでしょうか?」 「すみません。それも分かりません」  義母は恐縮しきっていた。 「ただあの子なりに悪いことをしているという自覚はあるようです」 「でしょうね。そうじゃないと、俺をわざわざ優に会わせるわけがないですから」  ややつっけんどんな言い方になってしまい、内心やらかしたと思う。ただ言っていることは事実だった。  何度心配だから会わせてくれ、とメッセージを送っても一向に返信をしなかった楓が、俺に今日ここに来るよう、連絡してきている。  車を走らせて県境を複数越える時も、正直優に会えるかどうかは半信半疑だった。別れ話のために楓だけがここにいるのかと思っていたぐらいだ。 「楓しか来ていないと思っていました」  独り言のように呟いたそんな一言を、義母はきちんと拾う。 「あの子は今日朝から出かけています。1日だけ優ちゃんの面倒を見るようお願いされました。どこに行っているのやら…」  義母は最後に疲れたような声を出す。何となく、俺は義母の顔を横目で見た。以前会った時より皺が増えている。髪も上手く染めているが、生え際の部分はかなり白くなっていた。  何故こうなってしまったのだろう。  3か月間ずっと自分の中で問いかけ続けたことに再び向き合う。だが、答えなど出るはずもない。楓は俺にも義父母にも何も言わなくて、情報があまりにも不足しているのだ。どんな探偵でもお手上げだ。 「やっぱり、ストレスなんでしょうかね」  俺の言葉に義母は何も返さない。言った後に自分が中身のあることを、実質何も言っていないことに気が付く。そしてどこか他人事のようになっていることも。  だが、何か喋っていないと、どんどん自分が何もできない存在になるような気がして、気が急くままに喋り続けることにする。 「楓、よくタブレットでアイドルのMVとか観てたんですよ。何がいいのかまるで分からないんですけど、今思えばそういったものにのめり込んでいたらストレスもなくなっていたのかなぁと」  義母の体が少し動いたのを目の端で捉える。 「何と言えばいいんですかね。優をもちろん優先してほしいんですけど、羽を伸ばすというか、言わば、あの、推し活みたいなことをして」 「あの子にはもうそんなの必要ないわ」  義母が口を開いて、俺の言葉を遮った。聞いたこともないようなぴしゃりとした言い方で、思わず目を丸くしてしまう。 「あの子は学生時代に十分自分の趣味を満喫しています。だから今は自分の仕事、育児を頑張るべき時です」 「そうなんですか?」 「はい。というよりあの子はまだそんな感じなのですか? 聞いているだけで腹が立つレベルです」  いつもは優しい義母が発している明確な拒絶のオーラに、俺はたじろぐ。義母はそんな俺を見て、自分があまりよろしくない態度をとっていることに気付いたようで、表情を引き締める。そしてまた口を開いた。 「あの子は昔、アイドルを目指していたんです」 「…初耳です」 「でしょうね。私も話さないようきつく言っていますから。オーディションも何度も受けています。ただ結果は当然全部落ちています」  田舎町の中でちょっと可愛いぐらいで、なれると思っていたのでしょうか、と義母は吐き捨てる。 「就職だけは普通にしたようですが、その後もオーディションを受け続けていて、よく分からない歌やダンスの学校にかなり授業料まで納めています。結婚費用に使え、と口を酸っぱくして言っていたのですが、駄目でした」  優がトイレに行きたい、と義父に訴えている。義父はこちらをちらりと見てから、優をトイレのマークがある方向へと連れていく。俺たちは幸い最寄りに休憩用の椅子があったので、そこに座る。 「1人娘だから、私たちも甘くし過ぎました。あと一回、もう一回と言う娘に対して強くも言えなくて。でも結局は正しい道に導くのも親の務めと考えて、もうやめろ、と強く止めました。勝さんと見合いさせて、結婚して、もう大丈夫かと思っていたら、まだ未練を断ち切れていないようですね」  自分の歳を考えられていないのでしょうか、と呆れ声を出す義母を見ながら、俺はあるフレーズのことが気になった。あと一回、もう一回。先ほど聞いたばかりの優の涙声が、頭の中で強制的に再生される。  そのあとで思い出されたのは、ここ1年の楓の表情だった。  不意のタイミングに、疲れたような、諦めたような目をすることが偶にあった彼女。  その目の中に自分への非難が込められているような気がして、とうとう耐え切れずに、何かあったのか、と詰問したのが半年前だ。 「何もない」  楓はそれしか言わなかった。何もないわけがないだろう、という言葉が喉まで出かかったが、俺はその言葉を結局飲み込んだ。  それは無理に聞き出そうとすれば彼女が感情的になるだけだ、と判断したからだし、その判断自体は間違っているとも思っていない。  でも自分たちが間違った方向に来ているのではないか、とはっきりと俺が思い始めたのは、間違いなくこの時からだった。  押し入れに隠されるように置いてあったアイドルグッズを見つけた時。  安否を確認するメッセージに既読すらつかなくなった時。  自分が楓と優がいない生活を楽しみ始めていて、結局は流れに合わせて結婚しただけで、別段結婚自体が自分にメリットをもたらしたわけではないことに気付いた時。  そんな時、今までの人生に対して、少なくとも楓と家庭を築き始めたことに対して、大きなぺけが印字されているような気がして、落ち着かない気持ちになった。  物思いに耽っていると、優と義父が戻ってくる。優の短い歩幅に合わせながら歩いているせいか、義父が少し疲れた顔をしていて、心が痛んだ。 「優、そろそろお父さんと手を繋ごうか?」  そう言って手を差し出したが、優は首を横に大きく振ることで拒絶を表現してきた。 「勝さん、大丈夫ですから」  義父の一言に俺は引き下がる。だが内心は、不意に生まれてきた、優に対する激しい怒りで気が狂いそうだった。今日何時間車を走らせたと思っているんだ、と心中で怒鳴りつける。でもそんなことを考える自分は間違いなく父親失格なわけで、怒りはあっという間に自己嫌悪に変わった…。  4人でまた一緒に歩き始める。優は何度も走ろうとしてその都度、義父がストップをかけた。義父の表情に僅かに苛立ちの感情が表れている。  もし俺と楓が離婚したらどうなるのだろう? 義父の表情を見て、そんな不安が体の奥から滲み出てくる。  一緒に住んでいた時、優はとにかく夜泣きがひどかった。寝小便もいつまで経ってもなくならず、閉口した。シーツが干せないから、雨が降ると独身時代よりもはるかに憂鬱になったのを覚えている。  義父と義母は今のところ優を受け入れてくれているが、それはいつまでもつのだろう。  優が子供の見た目をしている間は、目に入れても痛くないほど可愛がるのかもしれない。だが、手足が伸び始める中高生になったらどうなるか。  手のかかるイベントは子育てには目白押しで、それを孫が可愛いというだけで耐えられるだろうか。 「楓は、今後、どうしたいんでしょうね?」  先ほどと同じ質問が自然と口をついて出た。義母は、分かりません、と答え直してくれる。  ポケットの中に入れていたスマホが震えた。楓からの連絡かと、俺は慌ててスマホを手に取る。通知を見て自然とため息が出た。母からだ。 『ちゃんと謝りなさいよ』  うるさい、と心中怒鳴りつけ、ポケットにスマホをねじ込んだ。
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