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何かの終わりは、何かの始まり
目が覚める。
普段と違う部屋にいることに僅かに動揺したが、その後で自分が楓の実家に泊めてもらったことを思い出す。部屋の中はまだ暗かった。数時間前の喧騒が嘘のように静まり返っている。
体を起こしたタイミングで、自分が随分と深酒したことを、尿意と共に知る。義父に付き合う形で飲まざるを得なかったにしても、我ながらひどい飲み方だった。
午後10時頃に実家に帰ってきた楓は、まさに蜂の巣と表現してもいいぐらいに攻撃された。
いつまでこんな生活をするつもりだ、といつもなら優しい義父が楓を怒鳴りつける。
子供もいるのにこんな時間までぶらつくなんて、と義母も怒り狂った。
一体何をしていたのか、と問いただしたのは俺だが、楓は頑なに言おうとしなかった。言っても無駄だと言わんばかりに、微かに鼻を鳴らしさえした。それがさらに義父母の怒りを買った。
平手打ちをする義父。泣き叫ぶ楓。それを苦々しく見ている義母。もう滅茶苦茶だ。
泣いている楓に離婚の意思があるかどうかを聞いた時、彼女は何も答えなかった。ただ、こちらを責めるようにじぃっと見てきた。
自慢にも何にもならないが、俺はそれなりに努力はしてきたつもりだ。家事だってしたし、言葉遣いも気をつけていたつもりだ。
ただ、そちらがもう別れたい、ということなのなら新しい人生を、地に足をつけた形で歩んでほしい。
優もまだ小さいのだから、俺たちがしっかりしなくてはならない。
そう言っただけなのに睨まれたのだ。全く意味が分からない。
楓が泣きながら自分の部屋に逃げ帰ったところで、話は強制的に幕を引かされた。待ちなさい、と怒鳴る義父に対して、うるさい、と涙声で答えていた楓。近くに座っていた義母は楓の腕を掴んだが、力任せに振り払われた。
振り払う時に楓の鞄の中から、恐らく買ったばかりと思われる、ビニールで包まれたアイドルグッズが出てきたときは、部屋の中の空気が凍った。
思い出すだけで胸のあたりがむかむかする記憶を反芻しながら、立ち上がる。襖を開け、階段下に耳を澄ませた。誰かがいる気配がして、自然と眉間に皺が寄った。
しばらく待っていたら気配が消えないか、と俺は耳を凝らす。だが、5分ぐらいしても物音がやまない。ずっとごそごそしている。だんだんと心が荒んできた。
最近ずっと1人で生きているものだから、誰かに気兼ねをする生活に対して我慢が利かなくなっているな、と頭の中の冷静な部分が評価を下す。だが、いくら俯瞰的に物事を見ようとしても不快感はなくならない。
さらに10分ほど待っても一向に気配がなくならないので、諦めることにした。部屋を出て、階段をなるべく音をたてないように降りる。
トイレに行くまでに、必ず横を通らなければならない和室から気配がしていると分かった時、さらに眉間の皺が深くなった。
楓と顔を合わせたくはない。優ともだ。義父の、この世の全てを恨んだ果ての様なやけ酒に付き合わされていなかったら、俺はもう、深夜の運転になろうと構わずに、車を走らせていただろう。
抜き足差し足で廊下を歩き、和室の中を覗き見る。悪いことに楓と優だった。和室横の廊下、雨戸も窓も開け放った状態で、楓が柱にもたれかかるようにして座り、優は楓に抱っこされている。
優は眠っているようだったが、楓はうたた寝という感じだ。化粧を落とした彼女は、以前よりもずっと老いて、そして疲れ果ててしまったように見える。でもそんな状態ながらも楓はポン、ポン、と一定のリズムで優の背中を優しく叩いていた。
そのあやす姿を見て、俺は自分の中で、まるで巨石のように存在感を放っていた不安の1つがなくなるのを感じた。
楓がようやく俺が見ていることに気付き、睨みつけてくる。
「何?」
そうつっけんどんに聞いてくる。その口調に、自分はもう彼女に必要とされていないという事実を、再び突きつけられる。
そんな状況でも、昼間の義母の話を考慮に入れると、楓の態度の幾分かは理解できた。俺はある意味では1つの夢が潰された後に、与えられた選択肢、妥協策でしかない。楓からすると、俺は人生における「敵」の1人にすら見えているのかもしれない。
何でもない。
やっぱり今後のことをもう一度考えてみよう。
いつまでも子供じみた態度を取らないでほしい。
色々な返答候補が頭の中で次々と浮かんでくる。一回
どれを選んでも正解のような気がしたし、逆にどれを選んでも不正解のような気もした。
いや、違う、と自分に言い聞かせる。どれを選んでも結果は同じなのだ。俺にはもう、あと一回のチャンスもない。ガチャガチャから力ずくで離された優のように。憧れの道を親と加齢によって断たれた楓のように。
だったらここで俺が俺自身に引導を渡してやろう。
「楓」
「はい」
「別れるぞ」
顔をまっすぐ見据えながら言ったため、楓の表情の変化を俺ははっきりと観察できた。
不安。後悔。憤り。それらがぱっ、ぱっ、とまるで万華鏡のように表れた後、でも最後には彼女の顔に、強い、何かを決意したような表情が生まれてくる。
その顔で見られるのが辛くなってきて、俺は和室から離れる。今まで自分と彼女を辛うじて繋げていた何かは、たった今ぷっつりと途切れた。本来なら認めがたいはずのその事実を、俺の頭は案外ソフトに受け止めていた。
きっとこれが一番良いのだ、と誰ともなしに呟く。ショッピングモールでは強く俺の心をかき乱した、謝りなさいよ、という言葉も、今となっては、何の衝撃も与えてこなかった。
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