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土から生えた生白い人間の手だ。触れられたところが氷のように冷たい。
「ひっ!?」
こわばった時千代の身体を猩々が抱えあげた。威嚇するように歯をむき出し、ガチガチと音を出す。
白い手は1つではない。無数に伸びたそれは、時千代を捕まえようと、虚空をゆらゆらとさ迷っていた。
「な、なにこれ……!」
「――この山で死んだ人間の怨念だ。己の死に納得がいかず、無念を抱え、こうして道づれを探している。こんなものがあっては、猩々たちも生きづらいだろうよ」
ビンッと三味線の弦を切る音がした。次いで抜刀。時千代に向かって伸びていた白い腕は、突如現れた刃に切り落とされた。彼の三味線は仕込み刀だったのだ。白銀の刃が地面から生えた手を刈り取っていく。
「お前はもうお帰り。さっき言った事を忘れないで」
「……わ、わかった! 短い間だったけど、世話になった! ありがとう!」
猩々に担がれたまま、時千代は白い手の生えた山道を駆け降りた。出口の手前でそっと降ろしてくれた猩々にもう一度礼を言う。抱きつくとお日様のようないい匂いがした。優しく頭を撫でてくれた猩々に手を振って、村へと帰って行った。
「時千代! 戻ってきたのか!」
男衆の1人が時千代の姿を認めると、あっという間に大人たちに囲まれた。彼らは一様に、困惑しているような、どこか安堵しているような、それでいて何かを畏れる顔をしている。
「……あんな山奥からどうやって」
「これで全員戻ってきてしまったぞ」
「お山様への捧げ物はどうする」
大人たちの囁きはどこか不穏な空気を纏っていた。
誰も時千代の帰還を素直に喜んでいないような、そんな気がして、思わず背筋を凍らせる。――そして、あの虚無僧の言葉を思い出した。
「あの、山のなかで見知らぬ虚無僧に助けてもらったんですが、帰って来てはいませんか?」
「虚無僧?」
「はい。旅の僧だとかで、このあたりじゃ見ない顔でした」
「余所もんか」
ほっと大人たちの顔が安堵で緩む。時千代を見ていた冷たい視線もなくなり、時千代はやっと息をつくことができた。
家に戻り、持って帰ってきた山の幸で夕餉を作ると、母はいつもの倍は食べてくれた。顔色も良くなったように思える。猩々たちの不思議な力が働いているのかもしれない。
「天城さん、大丈夫かな」
膳を片付けた時千代は山の方を見てはっとする。
「……山がない」
先ほどまであった筈のお山様は、綺麗さっぱり無くなってしまった。――あの奇妙な虚無僧も、山を降りてくることはなかった。
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