旅をする山

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「お山様が現れた」  時千代の住む村は、今やその話題で持ちきりだった。  お山様――それは、村のすぐ傍に突然現れた山を指す。昔から時折現れる神出鬼没なその山を、村の人間は有り難がり、そして畏れてもいた。 「時千代、やはり行かないでおくれ。お前に何かあったら、私は生きていかれないよ」  床に伏せった女がすがってくる。女は病弱で、ここ最近は特に体調が優れない様子だった。  時千代は彼女の一人息子だ。齢はまだ十にも届かぬ頃合いだが、利発で賢く、亡き父と病弱な母の代わりに良く働く子どもだった。  時千代は宥めるように首を振る。   「でも、おっかあ。このままだと冬も越せない。おっかぁの身体も悪くなる一方だしさ。お山様に入って、何か食べるものをいただいてくる」  この突然現れる山には食べ物が豊富にある。どういう訳か、季節に関係なく山菜や果物が採れるし、兎や魚もたくさんいるのだ。  時千代の村は、土地が痩せていて作物が育ちづらい。年貢の取り立てもあり、いつだって生活は厳しかった。  だから村の人間はお山様が現れる度に、山に入って山菜を採ったり、獣を狩ったりしていた。   「けれど、お山様に入ったら……つれて行かれるかもしれないんだよ」  そっと母の指が、時千代の袖を引く。  つれて行かれる。  それは、お山様が現れた頃から村に伝わる言い伝えだった。山は村に恵みをもたらすが、代わりに山に入った者を1人連れてゆく。いなくなったものは2度と帰って来ない、らしい。  だから村の人間はみな、山を有り難がる一方で、ひどく畏れているのだった。 「でも、行ってくるよ。――大丈夫。必ず帰ってくるから」 「時千代、」  母が二の句を告げる前に家を飛び出した。  枯れ木のような母の姿を見ているのは辛かった。怖くないと言えば嘘になる。けれど、あの山がどんなに危険な場所でも、枕元で母の終わりをただただ待つよりは余程良かった。  山の前にはすでに村の男衆が集まっていた。そのだれもが大人の男で、時千代と同じような背格好の者は1人もいない。 「遅いぞ」  1番大柄な男が憮然とした声を出す。隣にいた細面の青年が「まあまあ」と、薄く笑いながらとりなした。 「お袋さんの様子はどうだい?」 「えっと、あんまり……」 「そうか。なら、うんと旨いもん持って帰らないとな」 「うん」  青年は時千代の小さな頭をぐりぐりと撫でる。 「お前は後から付いて来な。お山様は迷いやすいから、はぐれないように注意するんだ」 「わかった」 「泣きべそかいても迎えに行かないからな」 「もう10歳になるんだ! そんなに子どもじゃないやい!」 「そう言ってるうちは、まだ子どもだよ」  けらけら笑いながら山に入っていく男衆に、イーッと歯を見せて虚勢を張る。――だが、そう言ったは良いものの、幼い時千代が山道を歩くのは難しかった。  ちょっと足下に気を取られているうちに、山中にとり残されてしまったのだった。
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