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「……はぐれてしまった」
見たこともない背の高い植物に囲まれて1人きり。ぐるりぐるりと視線を巡らせても知らない景色。
まるで、別の世界に迷い来んでしまったかのような錯覚に、ぶるりと全身の毛が逆立つ。
「おーい!」
声を出してみるが、返事はない。木々のざわめきにかき消されて、静寂だけが返ってくる。
「おおい」
不意に声がした。声のした方を見ると、木陰から手まねく影がある。
――良かった、人がいた。
表情を明るくして駆け寄った時千代の足が止まる。眼前の腕の不自然さに気がついたからだ。
その腕は形こそ人間に良く似ているが、白くて長い毛に覆われていた。異様に長い。5本ある指先に黒い爪がついている。
「ひ……!」
――人間の腕じゃない。
恐ろしくなって後ずさった時千代の視界が、不意に回転した。背後にあった石に踵をとられたのだ。ひっくり返った身体は斜面をこんころと転がり落ちる。
「ぎゃっ」
途中にあった木に背中を打った。左足首が燃えるように熱い。転がった時に捻ったのだ。
ガサリ、ガサリ、何者かの足音が近づいてくる。
「あ、あわ……」
藪から現れたのは白い巨大な猿だった。顔が異様に大きく、そして赤い。笑っているようにも見えるその顔は、人間に良く似ていた。
「ばっ、ばけっ、ばけものっ」
恐ろしくなって手当たり次第にそこにあった物を投げつける。小枝だったり、石だったり。小さな時千代の小さな抵抗は、明後日の方向に散らばって猿に当たることはなかった。だが、猿の赤い顔はだんだんと不快そうにひそめられていく。
「こら、乱暴な真似は止しなさい」
そこへ静かな声が飛び込んできた。
時千代に背を向けて、猿との間に割って入るように現れたのは、黒衣の虚無僧だった。三味線を背負い、赤子を抱いている。
「お前、村の子だね。駄目じゃないか、1人で山に入ったりしては」
「あの、はぐれてしまって……」
「……ああ、なるほど。そういう事か」
振り返った虚無僧は時千代の足を見て頷くと、猿を手まねいた。時千代は「ひっ」とひきつった悲鳴をあげる。その声に驚いたように、猿は虚無僧の背中にしがみついた。
「こらこら、そんなに怯えない」
よしよし、と猿を撫でる。まるで苛められた子どもが親に泣きつくような、そんな仕草だ。恨めしげに見られて、なんだか自分がとても悪いことをしたような気持ちになってしまう。
「彼らは猩々。古くからこの山に棲んでいるもの達だ。賢くて優しい生き物だから、石なんて投げてはいけないよ」
「しょ、ショウジョウ?」
「そう」
穏やかに頷くと、僧は時千代の身体を抱き上げた。細身に似合わない力だ。片腕で小脇に抱えられる。
「ひとまず彼らの世話になろう」
「は、はあ」
先導するように駆け出す猿を、ゆったりとした足取りで追いかける。山歩きに慣れているようだった。
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