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 ――奈智(なち)……。  ――奈智……。  繰り返し、『奈智』という名が萬豆先生の周囲に浮かんでくる。  これは潜在意識に相当強く根付いているということだ。 (奈智? 誰の事だろう?)  今はまだ分からないので、霊視範囲をもう少し広げてみる。 『萬豆先生!』  長い黒髪の可憐な女生徒が萬豆先生を呼んでいる。  潤んだ瞳。紅潮した頬。白い肌と鮮やかに赤みがかった唇。  全身恋する乙女そのものだ。 (あれって、もしかして、温乃妃子⁉)  怨霊化した姿からは想像しにくいが、よく見ると面影が残っている。 『萬豆先生、こっちです』  甘く麗しい声で萬豆を呼んでいた。 (これが生前の温乃妃子? こんなに綺麗な女性だったとは驚きだ。まるで別人!)  今や、地獄の底から這い出てくるような醜く恐ろしい姿となり、声もしゃがれてまともに聞こえない。  彼女の変貌は、焼き殺されたせいだけではない。理不尽に殺されたことへの募る恨みだ。 『萬豆先生、こっちです』  温乃妃子が甘く麗しい声で萬豆を呼んでいたかと思うと、嬉しそうに腕にしがみついた。 『先生、好きです。大好きです』  愛の告白に躊躇も情緒もない。  温乃妃子は、年の割には大人っぽくて色気あるが、そこはまだ高校生。危うさも含んでいる。 (萬豆先生は、どんな反応なんだろう?)  そちらの顔を見たが、喜んではいない。  すごく平然として『だから、それはやめなさい』と、大人の対応でたしなめている。 『ううん。私、諦めないから。萬豆先生、こんなに好きなのに』  萬豆先生は全く相手にしていないのに、自分を抑えられない温乃妃子は、お構いなしで猛列アピールを続けていた。 (これぐらいでは、さすがに生徒を殺したりしないよな? この後、きっかけになるような何かが起きるんだろうか?)  気になるのは、『奈智』という名前である。 (もしこれが女性の名前なら、萬豆先生の大事な人なのかもしれない。そうなると、温乃妃子が邪魔になって殺したとも考えられる)  そんなに短絡的には見えないが、人は見かけによらないものだから分からない。 『分かっている。萬豆先生には奈智さんがいるって。それでも構わないです』 (奈智さん⁉)  奈智という名前が温乃妃子の口から出てきて驚いた。思った通り、萬豆先生の恋人か配偶者の名前のようだ。 『私、いつか奈智さんと立場を替わります』 『そんな事を考えるのは止めなさい』 『私と替わってって、必死にお願いすれば、願いを聞いて貰えますよね?』 『そんなことはない』  萬豆先生には奈智さんというパートナーがいて、温乃妃子は略奪するつもりのようだ。  萬豆先生の立場としては、ここで温乃妃子を怒らせて大切な人に影響を及ぼしたくないと考えれば、単に拒絶すればいいという話でもないようだ。 『いや! いやいや! 先生は私のもの! ね? 先生……。そうよね? どうしてダメなの?』 『温乃……、泣くんじゃない』 『先生! 私を抱いて!』  温乃妃子が泣きながら迫った。 (まさか、教師が生徒の誘惑に負けるのか?)  ヨシタカには苦手な展開となっている。  この先を見るかどうか迷ったところで、「木佛君」と、瑞波に呼ばれて中断した。 「もうこれ以上の時間稼ぎは無理」  SOSを出されたので、ヨシタカは、「そろそろ僕らは引き取ります」と、校長と萬豆に伝えた。 「え? 帰るの?」  驚いたのは瑞波である。  確かめたいことはまだまだたくさんあったが、熱い展開を見てしまったヨシタカの方が恥ずかしくなって、まともに彼の顔を見られなくなったとはとても言えず、適当に誤魔化す。 「うん。随分時間を取ってしまったから、今日はもう帰って、後日出直してもいいと思う」  時計を見ると、ここに来てから2時間近く過ぎていた。 「校長先生、お忙しいところありがとうございました。萬豆先生も思い出したくない話を申し訳ありませんでした」  丁寧に謝礼をして高校を後にした。  瑞波から、急に帰ったことを責めたてられた。 「急にどうしたのよ。ちゃんと説明してよ。霊視で何が視えたの?」 「えーと、温乃妃子さんは、萬豆先生を好きで、でも先生には恋人か奥さんがいて……」 「え! 生徒と不倫⁉」 「いや、先生は拒否していた」 「じゃあ、もしかして、邪魔になって?」 「その可能性はある」 「えー! あんなにイケメンなのに!」  瑞波はとても残念がっているが、イケメンじゃなかったらいいのだろうかと、ヨシタカにはそこが不思議だった。
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