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 富岡は、誰もいない放課後の教室であの子の席を掃除していた。  バケツに汲んだ綺麗な水を使い、白いタオルで全体を強く水拭きする。  誰も触りたがらないから掃除されていなくて、すぐに埃が積もって汚れてしまう。だから、こうして人知れず定期的に拭いていた。そうしないと、彼女が悲しむような気がしていた。  汚れが落ちて白くなった。 「ふう、綺麗になった」  仕上がりに満足しながら眺めていると、ここを使っていた温乃妃子を思い出してしまう。  席について、友人たちと談笑していたり、一人で泣いていたり。  切ない顔をしている時は、大体萬豆先生が関係していた。  彼女が萬豆先生を好きなことは、誰でも知っていたことで特別な秘密ではなかった。  そして、萬豆先生の方は1ミリも彼女に興味がないことも知っていた。 『先生を好きになるなんて、いい加減止めたら』と、忠告したこともあった。  そうすると、『何も知らないくせに、余計な口出ししないで!』と、とても反発された。  最後の会話は、亡くなる直前だった。  放課後の教室に一人でいた彼女に声を掛けた。 『帰らないの?』 『うん』 『誰かと約束?』 『私が誰と会おうと、あなたには関係ないでしょ』  そのことで、萬豆先生に会うのだとピンと来た。 『だから、諦めろって。ぜんぜん相手にされていないのに、まだ分からないのか?』 『今はそうかもしれないけど、卒業したら分からないでしょ』  今はまだ、教師生徒の関係だから手を出せないのだと彼女は信じていた。  卒業して大人になれば、きっと結ばれるのだと期待を抱いていた。 『勝手にしろ』 『何も頼んでいません』  富岡は、そのまま部活に行った。  部活動の最中に非常ベルが鳴って、火事だから中止となって校庭に避難した。  校舎の裏手で黒い煙が上がっているのが見えた。 『校舎の裏が燃えているぞ!』 『やっぱり火事だ!』 『消防はまだか?』  その場にいた生徒たちはお祭りのように騒いだ。富岡もその内の一人だった。  あとで火元を聞いて、大きなショックを受けた。  皆で騒いでいたあの瞬間、温乃妃子は熱さに苦しんでいた。苦しんで、苦しんで、死んでいったのだ。  富岡は、思い出すと今でも涙が出る。浮かれ気分でいた自分を責め続けた。  最後の様子を知っていたから、自殺したという学校の説明を聞いた時に、絶対嘘だと思った。誰かに呼び出されて殺されたのだ。  その事を校長に訴えたこともあったが、『警察に伝えておくよ』と言われたきりで、その後の報告はなかった。  誰かが萬豆先生との将来を悲観したのだろうと口にするたびに『そんなことはない!』と強く否定して回っていたら、誰もその話題に触れることがなくなった。  教師になって西南高校に赴任すると、これは運命だから絶対に真相を掴んでやると当初は意気込んでいた。  ところが、改めて話し合いたいと思っていた校長がいなくなっていた。  教頭や萬豆と話しても、あれは自殺だったと言うばかり。  一生徒だった自分など、何もできない塵芥のような存在だったと思い知った。  やがて、日々の忙しさに忙殺されて真相究明を諦めてしまった。  あの子の席に座ると呪われるという学校の怪談を耳にするたびに、胸が苦しくなった。  せめてもの罪滅ぼしとして、『どうか心安らかに眠って下さい』と願いながら、たまに彼女の席を洗浄していた。
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