長谷川×山岡編

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 差し出された白い手。視線の先の真っ黒な瞳。灰色の笑顔。  急速に血の気が引いてゆく。体が強張る。表情が失せる。けれど不思議。震えはしない。その余裕すら、ない。この感覚は懐かしい。覚えている。忘れるわけがない。そうだ。ずっと、光も差さない深海の中で息をしていた。ただ動いていた。  中々手を取らない山岡に、相手の黒眼が苛立ちを滲ませる。それでも笑顔は張り付けたまま。当然だ。人の目がある場所では、誰もが口を揃える好青年なのだから。  背はあの頃よりも伸びた。髪も明るい。更に垢抜けた印象で、容姿だけなら爽やかなイケメンのカテゴリーに分類されるだろう。実際、若い女の子たちが彼のことを気にしながら歩いていた。  少し前まで、山岡も彼ほど顔の整った人間を知らなかった。だが、世の中には「圧倒的」を欲しいままにしている人間も存在する。山岡はそれを、ソルーシュに入って四人知った。  変な感じだ。その中の一人。ここにはいない彼のことを考えると、足に力が入る。指先も動く。額に滲む冷たい汗はどうにもならなかったけれど、それを拭うことができた。山岡にとって、これは凄いことだった。自分の意思で、体を動かせたのだから。  両手を地面について、ゆっくりと立ち上がる。体が少しよろけたが、上手く立てた。  目の前の男が、自分の手を取らなかったことに笑みを深くしたのが視界の端でも分かった。だが何も言わない。してこない。人目がある限り、山岡は守られている。だが触れられたら終わりだ。心も体も、それが十二分に分かっていた。だからこそ、山岡はある程度の距離を取って彼を見上げた。 「……どうして、俺を探すの?」  辛うじて出たのは、無様なほどに掠れた声。男が笑う。笑顔の底に苛立ちを隠して、山岡の手を取ろうと利き手を伸ばしてきた。 「っ」  悲鳴を押し殺してかわす。あくまでも逃げる山岡に、男の笑顔が静かに下ろされた。温かみの欠片もない表情を前に、山岡の肩が大きく揺れる。足が勝手に後ろへ逃げた。瞬間、そうだ逃げればいいのだと頭が働く。しかし彼に背を向けることはできない。その理由が山岡には残念ながら未だに強くこびりついていた。 「いい加減にしろよ。あのブス使ってエサばら撒いた甲斐もなくなるじゃねーか」  恫喝にも似た台詞。周囲には決して聞こえない低い声。相変わらずの言動に吐き気がする。何も変わっていない。あの家を出て約四年。少しは大人になってもいい頃だろうに、きっと彼には成長する機会さえ与えてもらえないのだろう。外に向ける顔だけは最高に善人なのだから。 「……。答えに、なってないよ」  奥歯が鳴りそうなほどの恐怖心を抱きながら、それでも一生懸命に自分の意見を口にする。口の中はカラカラで目も合わせられないくせに、けれど必死に前進しようとしていた。あの頃とは違う。そう、思いたかった。こんな考えが浮かぶ奇跡。家を出る前の山岡であれば考えられなかったことだ。彼自身、山岡の変化に驚いているのが気配で分かる。  わずかな沈黙。のちの、野卑た笑い声。小馬鹿にしたそれに、冷や汗がこめかみを伝った。 「分からないなぁ。……あのさぁ、お前、いつから俺にそんな態度取れるほど偉くなったの?」  凄まれて、山岡は何も言えなくなる。無言のまま立ち尽くした。  反応しない山岡への苛立ちがピークに達したのか、一気に距離を詰めてくる。今度は逃げ損ねて二の腕を掴まれた。悲鳴が零れる。体が強張り、足が竦んだ。痛いほどに握られた二の腕。わざと力を入れているのだろう。痛みに顔が歪み、そのまま路地裏に引きずり込まれる。抵抗らしい抵抗はできない。ソルーシュを振り返ることすら、山岡にはできなかった。 「痛ッ」  背を壁に打ち付けられ、反動で後頭部をぶつる。被っていた帽子が落ちた。  陽の差さない場所。奴が本性を出す場所。呼吸をするのも痛い。膝が笑う。 「あんま舐めた真似してんじゃねーぞ。そんなに、抓って欲しかったのか?」  瞠若した先の薄笑い。悲鳴が喉の奥に詰まり、一気に呼吸が乱れた。    スルリ、服の隙間から男の手が滑り込んでくる。恐ろしさに肌が粟立ち、山岡は歯を鳴らしながら爆発しそうな心臓に眩暈を覚えた。蘇る。思い出す。頭の中にかかっていた靄が晴れ、暗澹たる記憶を取り戻した。  昔から、この男は自分を演じて生きている。異常なほど周囲の目を気にして、偽りの栄光を甘受している。だからこそ生じる、完璧な山岡尚大を演じることへのストレス。それを発散するため、彼は少しでも何か気に食わないことがあると必ず山岡の部屋を訪れていた。  初めは分かりやすい暴力。頭を殴る、腹を蹴る、乳歯が折れるほど顔を殴打されたこともある。拳は使わない。自分が痛いからだ。決まって何かの道具で体を打たれた。  しかしすぐにそれが祖母にバレて、男は激しい叱責を受けた。母親は子供同士の喧嘩だと反論したが、山岡家の絶対的な強者は祖母だ。祖母に睨まれては山岡家の遺産も思うようには手に入らない。黙れと一喝され押し黙り、親子はしばらく実家に戻るよう命じられて家を出て行った。  その間だけは、幸せだったと思う。夜もちゃんと眠れるようになり、ガリガリだった体も幾分ふっくらしてきた。だが祖母が倒れ、入退院を繰り返すようになると親子はすぐに帰ってきた。父親は知らぬフリ。気付いていても見ぬフリ。我関せずを貫き通し、祖母のいない山岡家は地獄でしかなかった。  食事は残飯。風呂は冷水に近いような残り水。それでも祖母が生きている間は、まだ人間でいられた。祖母に言いつけられると困るからだ。病室で色んなものを食べさせてもらえたので、あまり飢えもしなかった。  祖母が山岡に毎日見舞いに来るよう伝えたこともあり、山岡は親子の顔色を伺わずに病院にも行けた。あの頃は、祖母の入院先に赴くことが何よりの幸福だった。  けれど同時に、目の前の男にとってはストレスの多い時期だった。完璧な山岡尚大を演じるにあたり、(ひずみ)が生じていた。思うように成績が上がらず、塾や家庭教師を付けても効果がなかったせいだ。  山岡が都内でも有数の進学校へ特待生で入ったこともあり、その焦りもあったのだろう。山岡より偏差値の低い学校に入るなど、絶対にプライドが許さなかったはずだ。母親も我が子が山岡より下だと認めたくなくて、金をつぎ込んで彼をサポートしていた。  受験が近づいた、ある夜。歪は大きな音を立てて崩れ、山岡に襲いかかった。言葉の暴力と嫌がらせは続いていたが、祖母のお陰で暴力は振るわれていなかった。けれど、その日は違った。真夜中に山岡の元へ来るなり、馬乗りになって首を絞めてきた。死ぬと思った。殺されるのだと。面白いものでは、あんなに毎日死にたがっていたくせに、いざ死が目の前に迫ると山岡は抵抗した。まさに死に物狂い。  それが功を奏したのか、男は我に返り山岡は死ぬことから逃れた。だが、本当の地獄はそこから始まった。当時は、何故あの時ちゃんと殺されていなかったのだろうと悔やんだものだ。  男は言った。服を脱げと。意味が分からなかった。怯えながらも嫌がる山岡に、しかし男は容赦なく服を剥ぎ取り、思いっきり腹を抓った。青痣になるほど強く抓られ、山岡は悲鳴を上げて痛がった。  それが相当気に入ったようで、笑いながら男は山岡を抓るようになった。抓られた肌は青黒く変色し、濃い痕が残った。それが学校の健康診断で問題になると、男は腹部ではなく下着で見えない臀部を抓るようになった。そのせいで、山岡の臀部には今でもまだ消えない痕が薄っすらと残っている。  夜中に叩き起こされて服を脱ぐように強要され、這いつくばって尻を叩かれては、痕が残るほど強く抓られた。痛みで眠れなかった日が毎日、毎日、毎日、続いた。繰り返される屈辱と恐怖。殴る、蹴るとは違い派手さはないが、その分発見されにくい。それがこの男の狙いだった。 「ッ、く……」  脇腹を強く抓られて体がくの字に折り曲がる。痛みに視界が歪む。痛い。痛い。痛い。ヒリヒリとした痛みに歯を食いしばり、覚えのある痛みに膝を付いた。 「何やってんだよ、立てよ。さっさと帰るぞ」  髪を掴まれて首を引っ張られる。そのまま引きずられるように奥へ進めば、それはまるで家畜のよう。強制的に歩かされる様の、無様で滑稽なこと。圧倒的な恐怖心からこの男に対する闘争心は既に折られており、人間性を否定されようとも逆らえない。傍から見ればとんでもない格好だ。首だけを突き出して、四つん這いで歩く。それなのに当人に抵抗する素振りもない。むしろ、時折髪を千切られながら歩く様を、ソルーシュのメンバーに見られずに済んだことにホッとしているくらいだ。  あれだけ必死に逃げ惑っていながら。あれだけ周囲に迷惑をかけておきながら。自分でも何をやっているのだろうと思う。それでも動けないのは、蓄積してきたものが根深いから。こんなのは嫌だと思っていても、体が動かない。突き飛ばしてでも逃げ出したいのに。できない。できないのだ。 「──ッ、──ッッ!」  風に乗って届いた、覚えのある声。逆らえなかった山岡の足を、ふと止めてくれる。脳裏に過った、優しい笑顔。美味しいご飯を作ってくれる大きな手。温かい体温と穏やかな眠り。苦痛のない毎日。次々と思い出す日常に、自然と涙が溢れた。 「おいっ、さっさと歩、け──……」  勢いよく迫る足音。荒い息遣い。髪を引っ張っていた男の手が離れる。見れば、初めて目にするような引き攣った顔がそこにあった。いつも不遜的で王様のようにそこに君臨していた彼からは、想像もできない表情だ。  呆然とする山岡が振り返るより先に、肩を抱かれて引き寄せられる。押し付けられた胸板から聞こえる、早鐘を打つ鼓動。それだけ急いで駆けつけてくれたのだと知り、山岡の強張った体が途端に弛緩して膝から崩れ落ちた。すぐに抱き寄せられ、腕の中に沈んだ。安心したら震えが込み上げてきた。  尚、と。名を呼ぶ力強い声。瞬間、山岡の中で何かが弾けた。 「っ……ぅ、ぁ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」  ポロポロ。ポロポロ。ポロポロ。子供のように泣きじゃくる。しゃっくりを上げながら咽び泣く。長谷川のシャツを握り締めて、羞恥心など放り捨てて泣き続ける。いい年をしてこの様だ。だけど、安心した。とても。心の底から。安心した。 「……。大丈夫。もう、大丈夫だから」  号泣する山岡の髪に顔を寄せて、抑揚のない声でそう言われる。山岡からは見えない。涙する山岡の髪に唇を寄せたまま、ジッと正面を見据える長谷川の視線。その鋭さ。生半可な迫力ではない。言葉にし難い圧迫感と威圧感。まさに背筋が凍りそうな凄味だった。  完全に気圧された男が、蒼白して後退る。さっきまでの強勢はどこへいったのか、身を縮めて怯えていた。弱い者にはどこまでも強く。自分より強い者にはどこまでも弱い。それが山岡尚大という男だ。 「な、なんで……貴方が、それを」 「それ……?」  怒鳴っているわけでも声を荒立てているわけでもないのに、憐れな男から悲鳴が零れる。それを瞬き一つせず、長谷川は真っ直ぐに彼を見ていた。ゆっくりと長谷川が山岡を腕に抱いたまま立ち上がる。  長谷川の首に腕を回している山岡の頭に顔を寄せ、しかし一層強い眼差しで尚大を見下ろした。 「この子には、二度と近づくな。いいかい。これは君に頼んでるんじゃない。……警告してるんだ」  長谷川と比べれば細いと言える、男の肩が恐怖に揺れる。鬼の素顔が覗く時。偽りだらけの仮面が崩れ出す。ハリボテは所詮ハリボテ。贋作はどこまでいっても贋作でしかないように、本物には決してなり得ない。  山岡は鼻を啜りながら長谷川の声を聞いていた。上手く頭が回らず、言葉の内容は頭に入ってこない。音だけを聞いている。長谷川の声だけを。 (……も、……大丈、ぶ……)  カクン、と急に長谷川の腕に重みが増した。限界だったのか、泣き疲れたのか、安心したのか。山岡は泣きながら気絶していた。長谷川のシャツを握りしめたまま、頬を涙で濡らして意識を手放している。  長谷川はそんな山岡を静かに見つめた後、改めて山岡尚大に視線を向けた。 「ここから少し、大人の話をしようか。──坊や」
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