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寝静まった夜。足音が、怖かった。薄い布団を頭から被って震える体を丸めていても、なんの守りにもならない。寝たふりをしても布団を剥ぎ取られて起こされた。嫌だと頼んでも、必死に謝っても、絶対に許してはくれなかった。
夜になるのが怖くて。辛くて。いつしか眠れなくなっていた。目の下の濃いクマは山岡のトレードマーク。陰で日向で、よく笑われてた。心配してくれる者もなくはなかったが、彼らが尚大に攻撃させるのが怖くて誰にも打ち明けられなかった。
恐怖心はこびり付くと、中々剥がれてくれない。それが何度も上書きされると、怯えている自分が日常化してきて「大丈夫」だと錯覚する。大丈夫。大丈夫。大丈夫。その一言が無理に積み重なり、歪に形成された心を生む。自分を保つために、これはなんてことでもないと思い始める。取り繕った仮面が剥がれるのは、本当の恐怖を前にした時。あの男が部屋にやってきて、攻撃してくる時だ。
「っ、ぅ……ぅ、ぐ」
呻き声が聞こえる。泣き声にも似た嫌な声。これは、誰。そう疑問に思った瞬間、自分の名を呼ばれた。
「尚? 尚……っ、尚ッ」
同じことを思う。これは、誰。しかし今度は嫌な感じがしない。浮上する意識。ぼやけた視界。高い天井。顔を覗き込んで来る明るい瞳の色に、なんだかとっても安心した。
「良かった……。魘されてたから心配したよ。まだ少し熱もあるみたいだし、今日はゆっくり寝ていようね」
(……熱?)
何故そんなものが、と考えて表情が強張る。咄嗟に目の前の長谷川の服を掴み、大きく目を瞠ったままあの男の影を探した。血の気の引いた青い顔で、周囲を見回す。
「大丈夫、ここに彼はいない。僕たちの家に帰って来たんだ。もう大丈夫だから」
期間は短いが、ここは見慣れた長谷川の寝室。いい匂いのする室内も、柔らかな布団やシーツも、山岡のよく知るものだ。それを認証すると、ようやく体から力が抜けた。再び体を横たえる。早鐘を打つ心臓が徐々におさまり、安堵の吐息が零れた。しかしその息が熱い。額に手をやり、若干熱を帯びたそこに目を閉じる。
これは風邪を引いたわけではない。きっと精神的なもの。あの男──山岡尚大と再会したせいだ。心身ともにあの男を拒絶し、込み上げる恐怖が限界を迎えてしまったか。自覚すると熱っぽい体がひどく怠くて重い。いつもは温かい長谷川の手が少し冷たく感じる。ストレスから熱を出すなんて、いつぶりだろうか。
「……すみません、でした」
震える声で謝罪する。か細い声が完全に涙声で、情けない。腕で両目を覆い流れる涙をも隠したが、なんの意味もなかった。
「いいんだよ。理由があったんだろう?」
言葉が出てこない。くぐもった音が掠れるだけ。だが、当事者である長谷川にはきちんと説明しなくては、申し訳も立たない。この一件で一番迷惑をかけている相手だ。心配してくれていたソルーシュのメンバーにも、同様に迷惑をかけていた。自分が存在しているだけで、余計な苦労をかけてしまっている。
「大丈夫だから。話してごらん」
優しい声が、今はとても残酷で。甘えてしまいそうになる。なんて醜いのだろう。こんなことではいつまで経っても厄介者だ。グッと腹に力を込め、これ以上長谷川を巻き込まないで済む言い訳と説明を考えるが、残念ながら何一つ浮かばなかった。
「……尚。分かってると思うけど、自分一人でどうにかしようと考えているんだったら、怒るよ」
腕を掴まれ、顔を覗き込まれる。かち合う視線と視線。怒っている表情に、安心している自分がいた。情けない。本当に情けない。どうして自分一人で立っていけないのだろう。いつまで他人を巻き込み、迷惑をかけ続けるのか。
その最たるが祖母だった。山岡のせいで気苦労が絶えず、心労が重なっていた祖母。祖母の次はソルーシュのメンバーと長谷川。店にまで実害が生じていたのだから、もはや言い訳もできない。今に長谷川にも何かしらの形で害が及ぶかもしれない。山岡はそれが怖い。何より怖い。
「困った子だな」
「っ」
大きく肩が揺れる。目を閉じて体を竦めた。尚大と出会った直後だからだろうか。相手は長谷川なのに、体が震え始める。それほど山岡の精神は疲弊し、恐怖心で一杯だった。自分を不幸の種だと思い込み、原因は尚大であるにも関わらず己が悪いと誤認してしまっている。深い、深い心の傷。蓋をしただけの悲愴な過去。言葉では言い表せないほどの惨い日常。それが山岡の正常な思考を歪めていた。
謝ってしまえば、自分に非があることにすれば、解放されたからだ。苦痛から、ほんの少しだけだが早く許してもらえた。その積み重ねの結果。何もかもが自分のせいだと脳が認識し、まるでそれが事実であるように錯覚を起こしている。別段、卑下しているわけではない。本気でそう思っていた。だからこそ厄介だった。
「そんな君が愛しいよ」
「……、……?」
「正直、こんなに歪んでるのを見ると、可愛くって可愛くって。なんか、こう……ウズウズするんだよね」
何を言っているのだろう。この人。
(……ウズ、ウズ?)
「この際だからハッキリ言わせてもらう。僕は、君のことをズブズブに甘やかそう思ってる。真綿にくるんで、そこから抜け出せないくらい依存させて、僕から離れられないようにしたい。それが目下の目標だ」
「……は?」
「だって僕は、君のことが好きなんだよ? そう言ったよね?」
「そ、そう……ですね」
「だったら、僕がいないと不安で探し回っちゃうくらい依存させて、絶対に僕から離れないようにしようと思うだろう? それが普通だ」
「……いや、普通は思わないんじゃ」
「僕は思うんだ」
「な……る、ほど」
涙が引っ込むくらい、とんでもないことを告白されている気がする。濡れた睫毛を何度も瞬き、山岡なりに今の状況を理解しようと頑張った。頑張るが、長谷川の考えが何一つ理解できない。堂々と宣言するには、あまりにも重過ぎるのではないだろうか。
「君にも合ってると思うんだよ。甘え下手だし、危なっかしいし、不安定で頑固だ。その上とにかく真面目で、救いようがないほど根っこが捻じ曲がっている」
「な……っ」
「その点、僕は君だけには優しいし、絶対的に甘い自覚がある。甘えさせるのも上手い。基本的に何が起こっても『尚は可愛いなぁ』で済ませる自信しかない。君は必要ないって言うだろうけど、それなりに金もあるし、君のために動かせる人員の確保も可能だ。何より美味しい料理が作れる。ね? 僕って結構、好物件だろう?」
思わず頷きそうになって、慌てて首を竦めた。山岡の知る長谷川とは若干違う気もするが、目の前にいるのはやっぱり長谷川本人だ。困惑が強い。けれど、嫌だとは思わなかった。
「大丈夫。今に分かるよ。理解した時には僕なしじゃ生きていられないから」
そんな怖いことを、綺麗な笑顔で言わないで欲しい。山岡とて、長谷川が優しいだけの男ではないことくらい、もう知っている。滝川とのことや、泰造との喧嘩。山岡には優しいが、やはり血筋的なものは持っているようだ。だからといって怖いとは思わない。彼が自分に危害を加えないと、山岡は既に刷り込まれつつある。これがどんなに面倒なことなのか、山岡は分かっていない。今しがた口にした長谷川の作戦は、既に実行中だ。これからそうするなんて言っていない。もう長谷川の術中なのだ。
柔らかな真綿にくるまれて、優しい笑顔と美味しい料理と、最高の生活水準。何より、定期的に囁かれる愛の言葉は山岡に確固たる足場を与えている。長谷川の傍にいる足場。土台だ。根無し草に土台が与えられ、あと少しで根付くところ。求められている事実は人を強くする。存在理由になるからだ。
「それじゃ話を戻すけど、どうして車から降りたの?」
山岡の表情が再び曇る。しかし暗澹たる空気は消え、鬱々としたものが晴れたせいか、山岡は例の女性のことをポツポツと話し始めた。
これまでも尚大の被害に遭った女性が数多くいたこと。自分の手を決して汚さないこと。今回も尚大は笑顔で女性の恋情を利用したこと。そのせいでソルーシュのメンバーと店に何かしらの迷惑をかけてしまっていたことなど、全て長谷川に話して聞かせた。
「じゃあ尚は、その彼女を追って車から出たんだね?」
「……嫌な感じがしたので、データを流されたくない一心でした。まさか、その場で見ていたなんて」
浅はかだった。しかし、彼女はどうなっただろう。裏路地に連れ込まれた時は、もういなかった。
落ち込む山岡の隣に転がり、肘枕をしてこちらを見つめてきた。綺麗な瞳だ。明るい色の優しい眼差し。もっと怒っていいはずなのに、彼は山岡に声を荒げない。約束を破ったのだから、まずそこを責めていい。
「どうして、……怒らないんですか? さっき言ってたように、作戦だから?」
長谷川が目を丸くする。怒るどころか、白い歯を覗かせて笑い始めた。
「さっき、謝ったじゃないか」
「そうですけど、でも」
「うん。君が自分を否定しなくなったら、もう少しお説教するかな」
意味が分からなくて眉根を寄せる。別に否定しているつもりはない。悪いことをしたから謝っているだけだ。
「少なくとも今は、山岡尚大絡みで僕が君を責めることはない。あ、でも自分を大事にしない時は僕も怒るよ」
怒られる、ではなく、怒鳴られる、ことが多かった山岡には、長谷川の怒らなさが不思議でならない。謝っても謝っても、許してはもらえないことの方が多かった。手を出されて、やっと尚大の気が済んで終わる。その形が、長谷川だと成立しない。
ソルーシュでも失敗したことはあるし、最初の頃は注意を受けてよく謝っていた。しかしソルーシュでの失敗と今回の過失は種類が違う。不可解な表情を浮かべる山岡に、長谷川は目を細めた。大きな手のひらが山岡の頭に伸びる。柔らかな表情で優しく撫でられた。困惑する山岡に、長谷川が口を開く。
「尚は、悪くない。少し、間違ったけどね」
「そんなわけ……、俺が悪いからソルーシュにも迷惑をかけて、長谷川さんにも」
「迷惑だって、誰が言ったの?」
「え?」
「僕は君に迷惑をかけられているとは思っていない。志間くんはウチに喧嘩を売るなんていい度胸だって笑っていたし、美津根くんは淡々と弁護士と連絡を取っていた。曽田くんは、志間くんと美津根くんを敵に回した犯人が可哀想だって合掌してたよ。三人が不安な顔をしたのは、君が気に病んで辞めると言い出さないかと話している時だった」
「……、そん……な」
「だから、君はもう謝らなくていいんだ」
「どうして、責めないんです……か?」
「どうして、か。逆に、どうして責められたいの? その方が楽だから? 責められて、謝って、縁を切るように逃げれば楽だもんね?」
「っ」
「責められてないと謝るきっかけがない。謝れないと縁から離れられない。怖いね。君は。それがとても怖い」
「……ち、が」
「違わないよ。逃げることは悪いことじゃない。山岡家から逃げたのは大正解だ。それを進めた律子さんは流石だと思う。でも、君は全財産を失った一件から他人と深い縁を結ぶことを極端に怖がっている」
その通り過ぎて言葉がない。志間から聞いたのか。それとも美津根か。いや、彼が独断で調べさせたのかもしれない。山岡のもう一つの過去。恐怖とは違う、深い失望を。
「だけど、君は志間くんと美津根くんに救ってもらい、再起することができた。あの三人は君の仲間だ。君を本当に大切に思っている。何かあるとすぐに縁を切ろうとするのは止めよう。彼らとの縁は、決して切るべきじゃない。尚だって、切りたくなだいろう?」
小さく、顎を引く。切りたくない。ソルーシュで働いていたい。あそこが大好きだ。彼らも自分のことを大切に思ってくれているのなら、これ以上嬉しいことはない。それだけ山岡にとっても、ソルーシュは特別なものだった。恩がある、大切な人たちだ。
けれど、本当にいいのだろうか。迷惑をかけてしまったのに。また戻っても。迷惑がかかり続ければ嫌になるのではないか。一度や二度では許してもらえても、三度目はどうだろう。
「山岡尚大のことは、一人で抱え込まなくていい。ソルーシュの三人も、そのつもりだから色々策を練ってる」
「……本当?」
「本当。だからね、尚が頑張ることは皆に『助けて』って言えるようになることだ。それを嫌がる人間は、尚の傍には誰もいないよ」
そっと抱き寄せられる。背中を撫でられた。
「痛かったね。心も、体も。本当に痛かった。今回のことは、熱が出るくらい苦しいんだ。もう、謝らなくていい。君は悪くない。悪いのは、君をここまで苦しめている山岡尚大だ。女の子を使って店に悪質なことをしているのも山岡尚大だ。君は被害者であり、加害者ではないんだよ」
長谷川の匂いと体温に包まれて、山岡は嗚咽を堪える。緩んだ涙腺から溢れる涙が、長谷川のシャツに染みて消えた。尚、と呼ばれて髪に長い指が絡んだ。名前に反応して上を向けば、すぐそこに長谷川の綺麗な顔がある。再び近くに迫る明るい瞳。その瞳を見ていると、心が緩んでお腹の辺りがキュンとなった。
──キュン、ルルルルルルルゥゥゥゥ……。
「……尚」
「す、すみません。……長谷川さん見てると、お腹が空いちゃって」
「それは喜んでいいのか、悲しんでいいのか」
「てか今、あの、またキスしようとしませんでしたっ?」
「したね」
「ちゅうは駄目だって言いました! 俺たち、まだ付き合ってません!」
「そうだね。まだ、付き合ってない」
「でしょうっ?」
「ごめんね。今度からちゃんと許可を取るよ。尚、お腹空いたの?」
「……はい」
「ご飯にしようか」
「はい」
「ちゅうしていい?」
「はい?」
迫る影。重なる唇。無防備な唇の隙間。そこから忍び込んできた、柔らかなもの。歯列を割り口蓋を舐められ、鼻から声が漏れる。絡められる舌先に、思わず長谷川のシャツを掴んだ。
「ン、ぅ……っ」
前にされたものと全然違う。息が上手くできなくて、眦に涙が溜まる。目元が熱い。ゾワゾワとした感覚が下肢に走り、甘ったるい声が水音とともに零れた。角度を変えて更に深く口腔を甘く嬲られ、腰が浮きそうになる。山岡はただただ長谷川にしがみ付いて、爆発しそうな心臓を聞きながら混乱するだけだった。
「ふ、ぁ」
「尚……」
「んんぅ、ぁ……っ」
掠れた男の声。名を呼ばれた瞬間、背を不埒な感覚が走り抜け腰が揺れる。また角度を変えて唇を塞がれた。
(何、これ……なにこれ、っ、な……に)
口蓋を舌先で撫でられ、舌の裏をなぞられ、唇を優しく噛まれる。互いのそれを飲み込めば喉が大きく音を鳴らし、無知の山岡にはそれですら羞恥であった。耳が熱い。口腔中を舐められて、舌先が痺れてきた。もう限界。意識が甘く混濁してきた頃、淫猥な水音がしてようやく唇が離れる。忙しない息遣い。潤む視界。滴り落ちる唾液を舐め取られて、唇を噛まれ、山岡は長谷川にしがみ付いたまま呼吸を整えていた。艶然とする長谷川の表情がすぐそこ。ペロリ、自身の唇を舐めて一言。
「許可は、取ったよ?」
(ひ、きょぉ……っ)
顔を真っ赤にしながら、山岡は長谷川の体を押し返した。長谷川は抵抗することなく体を引き、大人しくベッドを下りる。
「ご飯作ってくるね」
そう言って去ろうとした長谷川の笑顔。それが妙に気になって、気付けば彼を呼び止めていた。何故彼を呼び止めたのだろう。一瞬の空白。だが頭で考えるより先に口が動いていた。
「尚大は、あの後どうしたんですか?」
そうだ。肝心なのは、そこだ。尚大のことを何も聞いていない。長谷川のことだから熱まで出した山岡のために今は口を噤んでいたのかもしれない。けれど、何か引っかかる。山岡が彼を呼び止めたのは長谷川の笑顔に違和感を覚えたからだ。いつもの笑顔のようで、何かが違った。
ゆっくり、穏やかな笑顔がこちらを振り返る。なんだろう。この底が見えない感じは。ゾッとするような凄みと、普段通りの優しい表情。違和感の正体は、そのギャップ。尚大の名を口にした途端、長谷川から覗いた違和感に肌が粟立つ。
「何か、あったんですか……?」
長谷川は答えない。笑顔のまま肩を竦めてみせるだけ。名を呼んでみる。だがやはり彼は答えない。
「お、俺には知る権利が、あると思います」
ここで引いては駄目な気がして山岡も粘る。すると長谷川がドアに背を預けて、腕組みをしたまま天井を仰いだ。深く息を吐く。
あの時、尚大は現れた長谷川を見てひどく驚いていた。山岡は覚えていないが、彼は律子とも面識がある。彼の祖父である泰造からの縁だろう。長谷川と尚大が出会っていても何もおかしくはない。むしろ全く覚えていない山岡の方がおかしいくらいだ。
ただ、思い返せば一つ疑問が浮かんだ。尚大は山岡の前以外では、優秀で誠実な山岡尚大を演じている。長谷川とて尚大の印象は悪くないはずなのに、長谷川は尚大の裏の顔を知っていた。山岡が教えたわけではない。律子だろうか。実家の部屋にあった写真から見ても、祖母とはだいぶ昔からの知り合いだったようだ。祖母が仮に話していたのだとしたら、山岡家の実情は知っていて当然だ。けれど、祖母も山岡家の人間。家の醜態を外へ漏らすかは疑問だった。
「……はぁ、成功してる禁煙に挫折しそう」
「え? た、ばこ……吸うんですか?」
「吸わないよ。この仕事、体が資本だからね。シックスマンスも近いし」
そう言いながらポケットから取り出したのは、白い小箱と重厚なライター。
「買ってるじゃないですか!」
「だから挫折しそうだって言ったじゃない。まだ開封してないよ。買っただけ。あんまり苛々したから、ついね。気付いたら手にあった」
「苛々って、もしかして……尚大にですか?」
「もしかしなくても、あのクソガキにだね」
「え、あ……、と」
「一遍、ちゃんと分からせた方がいいなぁ、アレには」
目がちっとも笑っていない。温厚な長谷川をここまで怒らせるなんて、何があったのだろう。正直信じられない。罵声や怒号とは無縁の長谷川だ。と、信じている山岡は、困惑した表情で彼を見上げていた。
「ちょ、長谷川さんっ? 駄目ですよ!」
「ンー……一本?」
「駄目!」
流れるような仕草で開封して一本口に咥えた長谷川に、山岡が怖い顔をして否と告げた。ハの字になる眉。駄目? と小首を傾げる仕草に首を縦に振りそうになるが、定期検査も近いのだし駄目なものは駄目だ。百害あって一利なし。健康に良くない。
「分かった。じゃあ、……はい」
煙草を箱ごと握り潰して近くのダストボックスに放り、両手を広げる。ドアに背を預けたまま。自分では動かないらしい長谷川に、山岡は素直にベッドを下りた。よっぽど苛々しているのだな、と思いつつ長谷川の前に立つ。当然のように抱き締められて、髪に顔を寄せられた。
「尚、好き」
「ど、どうも」
「本当に可愛い」
「あんまり嬉しくないです」
「最高に可愛い」
「……尚大と、何かあったんですね?」
顔を上げて長谷川を見れば、遠いどこかを睨むようにして――笑っていた。鋭い視線と弧を描いた唇。
「引いたんですか? あいつ」
「ちょっと面白いことになったけどね」
「面白い?」
こちらを見下ろし、長谷川が目を細めて唇に人差し指を当てる。内緒、と言われて戸惑った。本気でこれ以上は話す気がないようで、当事者としては不満でしかない。聞く権利があると思う。なおも食い下がれば、微苦笑を浮かべて頬を撫でられた。ごめんね。そう謝る長谷川に、視線を落とす。謝るのは反則だ。ズルい。何も言えなくなってしまう。
「安心して。ソルーシュには手を出さないと約束したから」
「本当ですかっ?」
笑顔で頷く長谷川に、山岡の表情も明るくなる。それは何よりの情報だ。自分のことなどどうでもいい。ソルーシュさえ無事ならば。涙が出そうなくらい嬉しくて、山岡はスッと胸の内が軽くなるのを感じた。気が抜けた膝が笑う。その場にへたり込むと、すぐに体が宙に浮いた。
「熱、だいぶ下がったね」
「はい、もう大丈夫です」
「だけど、……分かってるね?」
そう。ちゃんと分かっている。ソルーシュには手を出さない。約束されたのはそれだけ。山岡の前には、おそらくまた現れる。それを考えるとまた体が震えそうだ。
怖い。とても怖い。あの姿を目にして、正気でいられるかは分からない。けれど、会って分かった。追いかけて来た彼を見て、理解をした。逃げても、無駄なのだと。
「また来ますよね。理由は分からないけど、俺を家に連れて帰りたがってました。……なんでかな」
分からないと、ほろ苦い笑みが零れる。すると、山岡を抱き抱える長谷川の腕が微かに震えた。不思議に思い彼を見上げ、瞠若する。肩が小さく震えた。ニコリともしない。柔らかさの欠片もない、凍てついた表情。鋭く、冷たく、見た者を慄然とさせるそれは、長谷川をまるで別人に仕立てている。竦み上がりそうな雰囲気を前に、言葉がなかった。
尚大を前にした時のものとは質が違っている。これは、本能的な恐怖心だ。経験からくるものではない。人間が進化する中で潜在的に覚えているもの。山岡ではなく、宙を静かに見つめている長谷川。彼の唇が、微かに動く。掠れた低い声。なんと告げたのか正確には聞き取れない。
落ちる沈黙。長谷川が長谷川でないような、焦りにも似た感覚が山岡の手を動かした。そっと触れる、長谷川の頬。彼は山岡が触れた瞬間、弾かれたように表情を変え、少し困ったような笑顔を向けてきた。
そのままベッドへ戻される。食事を作ってくると言って、今度こそ出て行った。
再び視線の先に、高い天井。山岡はジッとそれを見つめたまま、先ほど長谷川が呟いた台詞の一部を反芻する。全ては聞き取れなかったけれど、ちゃんと耳に入ってきた言葉もあった。
──……まさか、俺に……を、告白してくるとはな。
俺。自分のことをそう呼んでいた長谷川の、低い声は確かにそう言っていた。まさか、の前に何か言っていた気もするし、途中が上手く聞こえなかった。それでも確かに彼は告白がどうのと言っていた。
(尚大……が、告白? 長谷川さんに?)
つまりは、おそらく。そういうこと。長谷川がモテるのは知っていたが、とんでもない話になってきた。
「あ……。俺を引き離すために、連れ帰ろうとした……?」
尚大は山岡が長谷川に告白されたことも知っていたに違いない。見下していた山岡が長谷川の好きだと告白された上、自分のせいとはいえ同居しているのだからムカついて当然だろう。
ソルーシュに手を出したのも、山岡の居場所を間接的に攻撃して山岡を追い出すためか。山岡は尚大をひどく怖がっている。少し脅せばまた逃げると思ったのかもしれない。では、山岡がこの舞台から降りれば尚大との縁は切れるのではないか。降って湧いた可能性に、山岡は体を起こした。
(……長谷川さんを、振れば)
解放される。尚大が山岡の前に現れることもない。平和な日常が、ソルーシュでの日々が、戻ってくる。
それは何より山岡が欲していたもの。山岡家との完璧なる絶縁だ。これ以上の歓喜は存在しない。
それなのに不思議。沈む。沈む。沈む。表情と気分と視線が。急に吐き気が込み上げてきてベッドから下りた。トイレに駆け込み吐いてしまう。何も食べていないせいで、吐いたのは胃液だけ。気持ち悪い。吐き気が治まらない。
(これは、……マズイ、かも)
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