長谷川×山岡編

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 翌々日。ソルーシュ店内。  長谷川が仕事に出たのを見計らい、山岡は開店前のソルーシュに顔を出していた。前日に志間へ連絡し、平日の朝だったこともあって三人も許可してくれた。尚大が来る確率が低いからだ。  久しぶりに見た三人の顔。店に入った途端、笑顔で迎え入れてくれて本当に嬉しかった。  山岡はすぐに店に迷惑をかけてしまったことを謝罪したが、三人は悪いのは山岡尚大だからと笑い飛ばしてくれた。けれどやはり原因は自分だ。それを伝えれば、次に謝ったら怒ると志間に言われて困惑する。 「山岡ちゃん、前髪切ったんだね。似合ってるよ」 「ありがとうございます。心機一転っていうか」  前髪を切ったことで野暮ったさが消えた。体重が増えたこともあり、愛らしい顔が一層華やいでいる。  あれ以来、店にはなんの被害もないらしい。長谷川が言ったように、店には手を出さないと決めたようだ。客足も衰えず、それどころか美津根が戻ったこともあり倍増しているようだった。ただ、まだ日中に数時間程度。まだ酒の入る夜には入っていない。それでも美津根がホールに入る平日のティータイムには行列ができるほどで、それを聞いた山岡は流石だと嬉しくなった。 「それで、今日はどうしたの? 何か相談があるって言ってたけど」  店の近況と自分の近況を報告してしばらく経った頃、志間からそれを切り出してくれた。山岡は腹を決めて、当初の目的である相談を三人へ口にする。どうやら、尚大が長谷川に片思い中である――と。 「待って、それって本当なの? どこからの情報?」 「長谷川さんがボソっとですが、呟いたのをこの耳で聞きました。間違いありません」  信じられないといった表情を浮かべる美津根にそう言えば、隣の曽田と顔を見合わせた。曽田は肩を竦めて、大きく口を開いたまま微動だにしない志間に目をやる。 「……マジか」 「マジです。店長」 「ガチ中のガチ?」  大きく頷く。直後の、志間の大きなため息。そんな志間を余所に、美津根は自分で淹れた珈琲を一口口にしてから口を開いた。 「それで、山岡はどうしたいの?」 「……どう?」 「仮にあの男が長谷川さんを好きなのだとして、長谷川さんが好きなのは君だ。君はあの二人にくっついて欲しいの?」 「あ、の。そこなんですが、ちょっと……気になることが」  真剣な表情で三人を見て言うと、彼らは顔を見合わせて、再び山岡に視線を戻した。神妙な面持ちで山岡が口を開く。この事実を知ったあとから、自分の体に起こっている異変。厄介な現象のことを話して聞かせた。 「実は、長谷川さんと尚大さんが並んでいるのを想像したら……、口から胃酸が出てきまして」  三人の目が大きく見開く。口は挟まない。正直、それどころではなかった。 「その後も、不思議なことに食欲がまったく沸かなくなっちゃって……二キロ減りました」  目以上に口が多く開く。三人同じ形相で目を合わせ、不思議そうな山岡に飽きれていた。 「長谷川さんが心配して仕事に行かないって言うから、無理に食べるんですけど、全然味がしなくて」  分かっていないのか。その理由が。いや、だから相談に来たのだろう。何せ初めてのことなのだろうから、分からなくても無理はなかった。 「終いには夢にまで出てくるんで、ちょっと寝不足に……。これって、何かの病気でしょうか? だとしたら、病院は何科を受診したらいいんでしょう?」  押し黙ってしまった三人に、山岡はよほどの病気なのだろうかと青ざめる。その表情を見て、傍にいた美津根がポンっと肩を優しく叩いた。 「それ、長谷川さんにそっくりそのまま伝えてごらん。すぐに解決するから」 「長谷川さんに、ですか?」 「残念だけど山岡。それは、長谷川さんにしか治せない」 「そうなんですかっ?」  医者じゃなくてっ? と声が裏返る。志間と曽田を見ても、大きく頷くばかりだ。どういう理由なのかは分からないが、この三人が山岡に嘘を吐くわけもない。長谷川が治せるというのなら、事実なのだろう。ここは一つ、帰ってきた時点で長谷川に相談すると腹を括った。 「赤飯、作るかぁ」 「いいね。僕もお祝いのカクテル作ってみようかな」 「な、なんで……祝うんですか?」 「目出度いからだよ。うんうん。良かったねぇ。あ、ちなみに深刻な病だから必ず長谷川さんに伝えるように」 「深刻なのに祝われてるんですかっ?」 「大丈夫、大丈夫。死にはしないから。むしろ幸せの鐘がリンゴーンって。嗚呼、ハレルヤ」  志間が何を言っているのか、山岡にはサッパリ分からない。美津根と曽田も何やら嬉しそうだ。深刻な病なのに、だ。からかわれているのだろうか。その割に、彼らはなんの病気なのか分かっているようだ。山岡には教えてくれないけれど。  笑う三人の顔に、山岡は小さく息を吐く。胃の辺りが少しスッとした。口元に笑みが浮かぶ。  懐かしい、ソルーシュの雰囲気。少し前まで、当たり前のように山岡の日常だった。やはりこの店の雰囲気が、この三人が大好きだ。腹に力を入れ、決めてきたことを伝えるために口を開く。  今日は長谷川のことを相談するためだけに来たのではない。もう一つ、大きな理由があった。 「店長。美津根さん。曽田さん」  三人をそれぞれ見つめ、一つ息を飲んで用意してきた言葉を伝えた。 「また……ここで、働かせてもらえませんか?」  三人の驚いた表情を静かに見つめ、丁寧に頭を下げて再度頼み込む。 「お願いします」 「それは願ったり叶ったりだけど……、いいの?」  顔を上げ、志間を真っ直ぐ見つめて「はい」と返事をする。自分なりにちゃんと考えてきた。尚大が客としてこの店に来る可能性もゼロではない。手を出さないと言っただけで、ソルーシュに来ないとは言っていないからだ。山岡との接触も、その日はいつかは必ずやってくる。 「今回の件で分かりました。……逃げても、無駄なんです。ちゃんと立ち向かっていかないと」  これは自分の問題だ。逃げ回っていても解決しないのなら、解決する努力をしよう。怖くないと言ったら嘘になる。それでも、山岡はこの店に戻りたい。    志間が踵を返す。そのまま奥に行ってしまい、怒らせただろうかと不安になり追いかけようとした。それを曽田に止められる。志間と曽田は分かっているようだが、山岡には何も分からない。志間が怒って奥に引っ込んだようにしか見えなくて、不安の中、彼の戻りを待った。  奥から志間が戻ってくる。その手にはソルーシュの制服が抱えられていた。差し出される制服。それは山岡が袖を通していた山岡の専用の制服。ずっとそれを着てこの店に立っていた。働いていた。 「おかえり」  そう言ってくれる志間に、三人を見る。唇を噛み、込み上げるものを堪えた。震えそうになる肩を抱いてくれる志間。逆から曽田も山岡の肩を抱き、メニューは忘れてないだろうなと軽口をたたく。山岡は熱い涙を流して笑顔で頷き、カクテルの練習もしてきたと報告した。手袋越しに頭を撫でてくれる美津根に、山岡は幸せそうに腕の中の制服を抱き締める。 「あ。だけど一つだけ条件があるよ」 「……条件?」  満面の笑みで頷く志間が妙に楽しそうで、山岡は濡れた睫毛を上下させながら彼の台詞を待った。 「長谷川さんとの同棲は、解消させないから。絶っ対に」 「え、な、なんでですかっ? 俺、また上の部屋に、荷物もあるし」 「ダメ~」  断固としてNOを告げる志間に、山岡は困惑する。美津根と曽田に助けを求めるが、彼らもこればかりは志間の味方なようで首を横に振られてしまった。 「そんなぁ……」  へにょん、と項垂れる山岡に、志間が不思議そうに目を瞬く。 「逆にいいの? 長谷川さんから離れて」  美津根にそう訊かれ、返答に詰まった。何故だか即答できない。長谷川との同居生活は一時的なものだ。山岡は尚大から逃げないと決めた。もう長谷川に匿ってもらう必要はない。最近は眠れるようになったし、寝不足も解消された。きっと自身の部屋に戻っても大丈夫だ。  無意識に握る拳。泳ぐ視線。もちろんだと、そう告げるだけの台詞が中々出てこない。  今朝も心配そうに家を出て行った長谷川。くれぐれも無理はしないようにと言われ、自分は電話に出られないかもしれないからと、何かあったらソルーシュの三人や実家に連絡を入れるように何度も念押しされた。そんな長谷川がいる毎日。美味しい手料理。日替わりの温泉。他愛もない会話。隣で眠る温かい彼の体温。おはようの挨拶。付き合ってくれたカクテルの練習。美味しいお土産。時折紡がれる愛の言葉。 「……、俺」  訊かれて初めて、気付いた。困惑した表情のまま、志間たちを見る。胸に手を当て、微かに早い脈に眉根を寄せた。胸のあたりがズクズクと痛い。胃の辺りがまた軋み始める。 「嫌、……かも」  口に出してみて初めて理解し、認めたこと。嬉しそうに三人が顔を綻ばせる。しかし山岡は浮かない表情だ。分からないことがあった。顔を上げて三人を見つめ、戸惑いを口にする。 「でも、……恋か、どうかは」  正直まだ分からない。経験がない。もしかしたら、もう答えは出ているのかもしれない。気付いていないだけで。だが今はそれが定かではない。そんな自分の気持ち一つ明確できない不甲斐なさに、山岡は顔を伏せた。 「いいんじゃないか? ゆっくり理解していけば。急ぐ必要はないだろう」 「……曽田さん」  優しく肩を叩かれ、重かった体の中心からスッと何かが抜けてゆく。山岡は薄く微笑んで、まずはこの感覚を認めようと顔を上げた。 「ていうか、その時点で完全に――ゴフッ」 「店長っ?」 「ほら、そろそろ開店準備に入らないと。山岡も手伝ってくれる?」 「え、ぁ、それはもちろん……です」  志間を拳骨一つで黙らせてしまった美津根は笑顔でそう言うと、手袋を嵌め直しながら志間を振り返った。山岡からは後ろ姿なのでその美しい顔は見えないが、美津根と正面から対峙した志間は青い顔で両手を合わせて膝を付く。 「しゅみましぇんでぢだぁ!」 「掃除」 「ハイッ! 外を掃いて参ります!」  逃げるように外の掃除に駆けて行った店長に、山岡は恐る恐る美津根を盗み見た。彼は隙のない笑みを深くして店内の掃除に取り掛かり、山岡も手伝うため朝のルーティンに加わる。  懐かしい開店準備。掃除を済ませから厨房内の軽作業に入り、客を迎える準備を整える。ほとんど毎日こなしてきたことだ。多少離れていただけ。忘れるわけがない。テキパキと嬉しそうに準備を整える。メニューボードの書き換えも、日替わりのチェックも、何もかもが懐かしくて楽しかった。今日は夕方で店を閉める日だ。その分午後のお茶のバリエーションが豊富で、デザートも曽田の手作りが出てくる。 「あら、山ちゃんじゃない~!」 「やだホント!」 「山岡くん、寂しかったわぁ!」 「まぁまぁまぁ、まぁ~!」  常連マダム。四姉妹。近くのオフィスビルにそれぞれ会社を構える社長たちで、旦那は仲良く主夫業をやっている。夜は夫婦でよく訪れ、仲睦まじく食事をして帰ってゆく。創業当初から通ってくれている、ソルーシュの大切な常連客たちだ。 「いらっしゃいませ。お久しぶりです、桜子様、梅子様、桃子様、菊子様」  笑顔で四人に挨拶をすると、嬉しそうに四人が山岡を取り囲む。山岡も顔なじみとの再会に笑みを深くし、窓際の席に案内した。 「しばらくお休みすると志間くんから聞いた時は、ビックリしたのよ」 「ええ、ホントに。でもまた会えて嬉しいわ」 「もういなくなったりしなわよね? わたくし、本当に寂しかったんだから」 「またこれからは、ソルーシュでお仕事なさるのよね?」  細身で明るい笑顔が印象的なのが、デザイン事務所を開いているのが桜子。国内外のコレクション常連の売れっ子で、先日パリから戻って来たばかりだ。ちなみにソルーシュの制服は彼女がデザインした。志間と美津根に惚れ込み、頭を下げてデザイン経緯を持つ。  一番身長が高く、理知的な印象の梅子。彼女は作家兼税理士だ。上品で柔和な物腰の桃子は内科医で、ここのメンバーは彼女のクリニックに通っている。末の菊子は弁護士だ。おっとりした物言いとは裏腹に、その業界では鬼と呼ばれている凄腕である。美津根が相談していた弁護士とは彼女のことだ。  週に一度だけ必ず昼食時にやって来る四人。年齢は五十代。だが年齢よりも大変若々しく、若い頃は相当モテていたことが伺える。志間と美津根がこの店を始めた頃から通っている最古参。梅子はこの店が世話になっている税理士でもあった。決算時期になると美津根が梅子の事務所に出向き、よく電話でもやり取りしている。 「なんだか、変わったわね。山岡くん」  梅子に言われ、微かに目を瞠った。メニューを差し出しながら、そうでしょうかと苦笑する。やつれたとでも言われるのか。そう危惧していたが、目を輝かせて桜子が手を叩いた。 「分かるっ。私もそう思ってたの。可愛い顔はそのままなんだけど、なんか雰囲気がこう……可憐?」 「そうね! 可憐だわ!」 「可憐だわぁ。最初から愛らしかったけれど、それに輪をかけたみたい」  終いには桃子や菊子まで賛同して、山岡はなんと言ったらいいのか分からずに困惑する。以前から四人には可愛いと言われてきたが、可憐なんて言われたのは初めてだ。男として嘆いていいのか、単純に褒められていると喜ぶべきなのか、判断し兼ねる。 「いい人でもできたんじゃない?」 「エッ? い、いやっ」  ズバリ訊いてくる桜子に、大きく肩を揺らして動揺を見せた。真っ先に浮かんできた長谷川の顔に益々動揺し、赤面するのを止められない。山岡は耳まで真っ赤になって首を横に振る。しかしそこにはなんの説得力も存在しなかった。四人はそんな山岡を見て目を丸くし、いつになく興奮した様子で歓喜の表情だ。桃色の悲鳴を上げて、勝手に盛り上がっている。 「皆様、どうぞそこまでに」  そこへ優雅に現れた副店長、美津根。悲鳴が桃色から黄色、いや黄金色に変化した。四人とも目を潤ませて頬を染め、うっとりと美津根に見惚れている。玉のような肌に、大輪の花々も嫉妬する美貌。凛とした美しさの中にある儚さ。ことごとく周囲の視線を集め、そこに立っているだけで絵になる圧倒的な存在感。  この美貌をネットで晒されたことは多々あるが、その度にどういうわけか全て握り潰されている。誰がどうやっているのかは知らないが、無断でネットに掲載した人物には弁護士から警告文が送られているそうだ。もちろん菊子ではない。拡散された画像も次々と消え、ネット上で美津根を検索しても映像や画像は出てこない。  こんなことがあり得るのかと驚く山岡に、志間が遠い目をして笑っていたのを今でもよく覚えている。  ソルーシュでは、店内の撮影が基本的に禁止だ。料理の写真だけは撮影を許可されている。それ以外、特に従業員の写真撮影は厳禁であった。しかし中にはこっそり料理を撮影するフリをして写真を撮る連中は多い。今回山岡の居場所がバレたのも、客がネットに掲載した山岡の写真が理由であった。 「申し訳ございませんが、山岡はこういうことに不慣れで。あまり遊んでやらないでくださいね」  美津根の笑顔に物言えず、頷くだけの四人姉妹。彼女たちに一礼し、美津根とともに裏へ引き上げた。 「助かりました、美津根さん」 「あの人たちに悪意はないから」  美津根に礼を言い、山岡は汗を拭った。美津根も苦笑しながら頷き、志間がケラケラ笑いながら彼女たちに水とおしぼりを出しにホールへ出てくれた。  山岡も美津根も続々と入ってくる客に応対するためホールへ出て、顔なじみに挨拶しながら仕事をこなしてゆく。久しぶりに味わう充足感。曽田の作る美味しい賄い。戻ってきた。これが山岡の日常だ。やっと戻ってきた。尚大を警戒しなかったといえば嘘だ。怖かった。何度も窓の向こうに目をやり、彼がいないか確認した。笑顔の裏で怯えていた。けれど、それよりもソルーシュで働けることが嬉しかった。 「山岡ちゃん。今日はもう上がりな」 「え? でも」 「山岡、そうしとけ。今日は長谷川さんも仕事でいないんだろ?」  そうだ。本当は一歩も外に出ないように言われている。それを破った上、ソルーシュに復職したことを長谷川はまだ知らない。恩を仇で返している。その自覚があるから戻ってきた時にちゃんと謝罪するつもりだった。 「長谷川さんに、ちゃんと復職したこと言うんだぞ?」  曽田に言われて、一つ頷く。視線が下を向いてしまうのは、長谷川に後ろめたさがあるからだ。独断でここまで来てしまったが、きっと長谷川は頭ごなしに怒鳴りつけることはしない。怒るかもしれないが、それはおそらく山岡を心配してのことだ。それに、ちゃんと話せば分かってくれる。長谷川なら大丈夫だと確信めいたものが山岡の中にはあった。 「あれ、山岡ちゃん。お迎えが来たみたい」 「迎え?」  客も引いてきた閉店一時間前。店の扉をくぐって入ってきた、和装の老人。その後ろには屈強なスーツ姿の男が一人。まさかの二人に山岡は目を剥いた。 「えっ、た、泰造さんッ?」  思わず飛び出して、山岡はホールに出る。泰造は被っていた帽子を取ると、にこやかに山岡へ笑いかけた。帽子と羽織りを後ろの滝川に手渡し、柔らかな笑みを浮かべて口を開く。 「これは素晴らしい。制服姿が立派だ。律子お嬢さんが見れば、泣いてお喜びになっただろう」 「どうして……、ここに」 「どうして? ほぅ。どうして、か。それはそっくりそのまま君に返しても構わんだろうか?」  うっ、と山岡の視線が余所を向いた。実は今晩、山岡は長谷川の実家に行く予定だった。長谷川が一人になることを心配して、夜に迎えが来ると長谷川に言われていた。まだ時間はある。予定ではあと二時間半後。閉店後に戻って待てばいいと思っていたから、これは予想外だ。かなり驚いた。 「……ごめんなさい」  きっと長谷川が護衛に誰かを付けていたのだろう。いきなり外に出た上に、ソルーシュで働き始めたので泰造が出てきたわけか。泰造がこの時間まで待ってくれたのは、山岡が楽しそうだったからなのかもしれない。 「ハハハ、よいよ。何、君を責めているのではない。この爺も心配していると分かって欲しかっただけだ」  謝罪する山岡の頭を撫でて、泰造は明るくそう言ってくれた。とりあえずお茶を飲むと言うので、山岡は近くの席に二人を案内する。 「いらっしゃいませ。お久しぶりです、長谷川さんのお祖父さん」 「久しぶりだね、志間くん。お邪魔するよ」 「お知り合いなんですか?」 「山岡ちゃんがお休みしてる時に、何度か来てくれたんだよ」  偵察に、とは言わず志間は笑顔で泰造を見た。泰造は苦笑を浮かべて季節のフルーツパフェ(S)とホット珈琲を注文し、滝川はケーキセットを注文する。山岡は一旦厨房に下がって注文を入れた。  美津根がいる時、珈琲を淹れるのは彼の担当だ。ケーキセットのケーキはストックがあるため、丁度手の空いた曽田と二人で手早くフルーツパフェを盛りつける。その間、志間が泰造と何やら話をしていた。  手早く注文の品を準備して、泰造たちの席へ向かう。ホールから笑い声が聞こえてきた。何事かと急ぎホールに出ると、何故か固く握手をしている泰造と志間の姿が視界に飛び込んでくる。 「お待たせしました」 「あ、じゃあ俺はここで。どうぞごゆっくり」  志間が客と談笑するのはいつものことなので、特にそれを問い質すことはしない。注文の品をテーブルに置き、伝票を置いて奥へ戻ろうとした。しかし視界の端で小さくなっている滝川が目に入り、声をかける。 「滝川さん?」 「はははいっ」 「凄い汗ですけど、そんなに暑いですか?」 「お、お気になさらず……」  懐から取り出したハンカチで汗を拭う滝川。泰造は笑顔でパフェを食べている。妙な感じだったが、突っ込むのも悪い気がしてその場を下がった。 「はぁああ? 防犯カメラを六台もっ?」 「じゃあ警備会社は、え、嘘。あの長谷川警備グループが?」  三人が顔を寄せてコソコソ話している。よく聞こえなくて三人に声をかけると、飛び上がって驚かれた。 「どうしたんですか?」 「いや。その、な……なんでも。な、店長。美津根サン?」 「う、うん。それより、早く着替えておいで。ここはいいから」 「そうだぞ、山岡ちゃん。スポンサー様をお待たせして――ゴフッ」 「店長っ?」  思いっきり肘が腹に入ったが、大丈夫だろうか。笑顔で肘を払う美津根に困惑しつつ、だいぶ人に触れられるようになったのだなと少々偏った喜びを噛み締めた。  三人に促されるまま身支度を終え、ホールに出る。食べる時間を考慮してゆっくりめに着替えをした甲斐もあり、二人はスイーツを食べ終えていた。会計も済ませており、山岡を見つけて二人は立ち上がる。  久しぶりに出向く泰造の家。長谷川の実家だ。滝川の料理はとても美味しいので楽しみだった。志間たちに挨拶をして泰造とともに車へ乗り込む。長谷川の実家はソルーシュから車で約三十分。滝川が運転する黒塗りの超高級(ハイグレード)車は相変わらず凄まじい威圧感を発揮して、ちゃんと交通ルールに則って安全運転をしているのにも関わらず左右前後から車が退いてゆく。  確かに高級車の代名詞ともいえる某ブランドの、磨き抜かれた黒塗りが堂々と走っていたら少し怖い。しかもSクラスだ。山岡がドライバーであっても自車を近づけたくない。  到着するなり観音扉の門をくぐり、エントランスまで優雅に車が進入する。大理石のエントランスにズラリと並ぶ、スーツ姿の男たち。仰々しい出迎えに圧倒されながら、山岡は泰造とともに車から降りた。 「久しぶりの勤務は疲れただろう。夕食までゆっくりしているといい。先に湯に浸かるかい?」 「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」  長谷川の実家の長谷川の部屋。着替えなどの荷物は先に届けてあるので、山岡は体一つでいい。運び込まれていた荷物から着替えを準備し、泰造ご自慢の湯殿へ足を運ぶ。  泰造の言う通り、久しぶりに接客をして疲労感があった。だが程よい疲れだ。働いたな、と実感が持てる。  体を洗って広い湯舟に一人優雅に浸かりながら、大きく伸びをして天井を仰いだ。充足感というのだろうか。そこまで長い間、不在にしていたわけではないのに何もかもが懐かしかった。常連客との会話も、忙しい時間帯を捌くのも、新規の客にオススメを説明するのも楽しかった。  毎日仕事をしていると嫌な客に当たることもある。失敗した日は落ち込む。けれど仕事から離れていたからこそ、働けるありがたさを実感できた。長谷川はいないが、きっと今日は熟睡できるだろう。  広い湯殿を一人で満喫した後、山岡は部屋に戻って長谷川に無事実家に着いたことをメールした。ソルーシュに復職したこと、その仕事のことで話があるとも伝える。長谷川に相談せず仕事に復帰したことは後ろめたいが、後悔はしていない。長谷川に相談しなかったのは止められると思ったからだ。口の上手い長谷川に説得されると、丸め込まれていつまで経っても復職できない気がした。  長谷川の心配はありがたい。心強く、誰より親身になってくれている。だからこそ一刻も早く社会復帰をして、彼を安心させたかった。  メールを打ち終えて、水を貰いにダイニングへ向かう。するといい匂いがした。不覚にもダイニングに入った途端、大きく腹を鳴らしてしまう。 「す、すみません……」  エプロン姿の滝川と目が合い、顔を真っ赤にしながら謝る。滝川は驚いた様子だったが、すぐに笑って冷蔵庫から手作りのほうじ茶プリンを出してくれた。ミネラルウォーターもボトルごと差し出してくれる。 「夕飯までにはもう少し時間がかかりますので、それを食べていてください。お代わりありますからね」 「ありがとうございます。食べたら手伝います」 「いいんですよ。今日は久しぶりの出勤で疲れたでしょう?」 「そんなことは」 「ありますよ。はい、林檎と桃もどうぞ」  手早く剥いてくれた林檎と桃を頂戴し、山岡は目を輝かせてフォークを手に取った。大好きな桃を頬張る。美味い。泰造の家で出してもらう果物は本当に絶品だ。林檎、桃、ほうじ茶プリンと次々に平らげて、ミネラルウォーターも空にする。長谷川と尚大のことを考えると食事が喉を通らなかったが、今日ソルーシュの三人に相談してスッキリした。お陰で食事が美味い。  そのうち本格的にいい匂いがしてきた。滝川を手伝うため、強面の男たちが三人キッチンに立っている。彼らとは挨拶程度の話しかしたことがないが、広い屋敷で迷っていると笑顔で助けてくれる優しい人たちだ。  今日は鍋。しかもぼたん鍋。猪肉は初めて食べる。  食べ終えた皿を洗って夕食用の食器をテーブルに並べていると、滝川の手によって次々料理が運ばれてきた。  メインのぼたん鍋。ししゃもの塩焼き、さわらのたたき、茶碗蒸しに野菜の天ぷら、海鮮サラダ、はまぐりの酒蒸し、根菜盛りだくさんの味噌汁に雑穀米。夕飯というよりは宴会の量と種類だが、食欲を取り戻した山岡ならなんら問題ない。泰造も年齢の割に食べる方ではあるものの、この量と種類は九割山岡のためのものだ。  山岡はテーブルの上に並ぶ料理に心を躍らせ、自らもテキパキと動く。泰造を部屋に呼びに行くのも率先して引き受け、鍋が凄いと笑顔で話せば嬉しそうに顔を綻ばせて頷いてくれた。 「そうか、そうか。用意した甲斐があるというものだ。沢山食べなさい」  泰造がわざわざ山岡のために用意してくれたと知り、一瞬言葉に詰まる。もてなされる経験が乏しい山岡だ。自分の来訪を喜んでくれていることが分かり、どんな表情をすればいいのか分からなかった。  凄く嬉しいのに、どこか照れ臭い。心がとっても温かくて、妙なことにほんの少しだけ視界が潤んだ。 「ぁ、……ありがとう、ございます」  泰造の顔が見れなくて、顔を伏せたまま礼を言う。そんな山岡の頭を、泰造は無言で撫でた。おずおずと顔を上げてみれば、優しい表情の泰造と目が合う。その表情に山岡もまた目を細め、二人仲良く食事の席についた。上手い食事を全身で堪能し、今日あったことを泰造や滝川に話して聞かせる。弾む会話に笑い声が絶えない。滝川が熱燗を用意してくれたこともあり、食事の際は飲まない山岡もありがたく頂戴した。  長谷川に料理を教えたのは滝川だそうで、彼の料理の腕は本当に素晴らしい。若い頃は板前修業をやっていた時期もあると聞いた。調理師免許も取得しているそうだ。 「失礼します。尚道さん、若からお電話が入っております」  粗方食べ尽した頃、子機を手にした男性が山岡に向けて白いそれを差し出してきた。若、といえば長谷川のことだ。きっとメールを見て連絡をくれたのだろう。携帯電話に繋がらなかったので、実家に直接かけたのか。お茶を一口含んで子機を受け取り、席を離れて廊下に出てから電話に出る。 「は、はい。山岡です」 『尚。どうして今朝言ってくれなかったの?』 「……ごめんなさい」 『謝って欲しいわけじゃない。理由を聞きたいんだ』  いつになく声が怒っている。当たり前だ。これだけ世話になっておきながら、なんの相談もなく勝手に決めた上、事後報告になったのだから。  小さく息を吐く。長谷川が多少怒るのは予想できていた。それでも復職したのは、長谷川に説得されたら折れてしまうと思ったからだ。これではいつまで経っても自立できない。守られたまま迷惑をかけ続ける。山岡は、何よりもそれが辛かった。 「賛成、してくれましたか?」 『しないね』 「長谷川さんに説得されると、決心が揺らぎます。長谷川さんには本当に感謝しています。だけど、今回のことでよく分かりました。逃げても無駄なんだって。だったら、俺はソルーシュで働きたい。好きなんです。ソルーシュが。あの場所が」  沈黙が落ちる。重いため息が受話器の向こうから聞こえてきた。ごめんなさい、ともう一度謝る。だが決定を覆すつもりはない。もう決めたのだ。復職すると。 『それでもやっぱり心配だ。最近だって調子が良くなかっただろう?』 「それは……」 『でも、もう決めたんだね?』 「……はい」 『……分かった。じゃあ、僕が戻ってから引っ越しの準備をしようか。明日の夜には戻るから、それからで』 「あ、あの……大変申し訳ないのですが、店長から一つ条件が出てしまって」 『条件?』 「長谷川さんとの、同居は……解消させないと」  また沈黙が落ちて、山岡は青ざめて頭を下げた。見事な平身低頭。ここにいない長谷川相手にペコペコと頭を下げながら、ひたすら謝る。 「ごめんなさい、ごめんなさいっ。どうにか説得しますので、もう少しだけ待っていただけないでしょうか」 『……志間くん、分かってるなぁ』 「え?」 『なんでもない。そうか。良かった。僕は嬉しいよ』 「怒って、ないんですか?」 『怒ってるよ。というか、拗ねてる。君に相談してもらえなくて』 「本当にごめんなさい……」 『いいんだよ。それより、体調はどう? ご飯は食べられた?』 「はい、すっかり元気です。だけど、皆に変なことを言われました」  変? と長谷川が不思議そうな声で尋ねてくる。山岡も訳が分からないまま、昼間の出来事を説明した。  長谷川と尚大が並んでいるのを想像すると、吐いてしまったこと。その後の食欲不振、睡眠不足。そしてこれは医者ではなく、長谷川にしか治せないこと。 『吐き気に食欲不振、極めつけは睡眠不足か。その理由が尚大と僕、とはね……』 「はい。一体どういう意味なんでしょうか?」 『……尚』 「はい?」 『それはきっと、ストレスだ。過度なストレスが心身に影響しているんだよ』 「ストレス……!」 『可哀想に、無意識に心身を蝕んでいたんだ。志間くんが僕にしか治せないと言った意味はよく分からないけど、きっとストレス緩和の食生活をさせるようにってことだと思う』  この場に志間たちがいれば総ツッコミが入ること間違いなしだが、生憎とここには誰もいない。まさか三人も長谷川がこんな形で鈍感っぷりを発揮するとは思わなかっただろう。よもやの展開である。 「あ、だから同居の解消は許して貰えなかったんでしょうか?」 『どうだろう。そうかもしれないし、奴の危険性を見抜いてのことかも』  なるほど。志間ならあり得ると大きく頷いた。あれで中々の切れ者だ。それから少し話をして、長谷川の帰宅後改めて話をすることで電話を切る。泰造たちの待つダイニングへ戻り、ソルーシュの件だったと説明すると少し心配された。 「大丈夫です。説明したら、ちゃんと分かってくれました」 「そうか。なら良い。アイツはあれで頭が固いからなぁ」  笑いながら酒を煽る泰造に微苦笑を浮かべて、山岡もしばらく彼に付き合う。その後、片付けを済ませて部屋へ戻った。寝支度を整えるため歯磨きをしに出向き、戻ってみると電話が鳴っている。慌てて電話に出た。 『こんばんは。兄ちゃん』 「ッ……?」 『ああ、切らないで。俺、兄ちゃんに謝りたくて電話したんだ』  初めて聞くような穏やかな声。しかし山岡は激しい動悸に目を瞑り、胸を押さえて小さく震えていた。  落ち着け。落ち着け。落ち着け。必死にそう言い聞かせながら、歯を食いしばる。対峙すると決めた。逃げないと決めた。震える拳を握り、こんなことでは駄目だと前を向く。  しかし、いきなり兄とは一体どうしたのだろう。人前ならいざ知らず、面と向かって呼ばれる時は必ず呼び捨てだった。名前さえ呼ばれないことも多い。それが急に兄ときた。勘繰らない方がおかしい。 「……急に、何」 『俺、反省したんだ。これまで酷いことして、本当に悪かった。ごめんなさい』  どうしよう。本当に、意味が分からない。長谷川に説教でもされたのだろうか。好きな人に好かれたいから、山岡との仲を修繕しようとしているのか。呼吸をどうにか整え、歯がガチガチ鳴りそうな中、山岡は乾いた口を閉じて言葉を選ぶ。いきなりの展開に思考が追い付かない。完全に混乱していた。 「俺に、……何を望むの」 『望むなんて、これまでのことを謝りたいだけなんだ。土下座して詫びろって言うならそうする。謝罪文を書いて来いって言うなら何枚でも書いてくる。許してもらえるなら、なんでもするよ』 (許す……?)  これまでのことを、許す。山岡はゆっくりと目を閉じ、握る携帯電話に力を込めた。唇を噛む。天井を仰ぎ、目を開いた。高い天井を見つめ、乾いた唇を動かして答えた。 「……。分かった。許すよ」 『本当っ? ありがとう、兄ちゃん! やっぱり兄弟だな、誠心誠意謝ったら分かってくれると思ったんだ』  弾んだ声に耳鳴りがする。嬉しそうな声に視界が歪む。ゆらり、体が傾いた。咄嗟にローチェストに手を付き、そこに置かれているフォトフレームが視界に入る。手が伸びた。それを手にして胸に抱き、言葉を継ぐ。  「その代わり、頼みがある」 『もちろん、なんでも言って? 何?』  嬉しそうな声に、山岡は静かに続けた。口の中はカラカラだったけれど、言葉は音になってくれた。 「二度と、俺の前に現れないでくれ」 『……え?』 「君の謝罪は受け入れる。でも、今後一切俺には関わらないでくれ」 『何、言ってんの』 「それを守ってくれたら、君の願い通り水に流す」  それは、生まれて初めての、尚大との交渉だった。  胸に抱いた長谷川のフォトフレームが小さく軋む。痛いほど心臓が鳴っている。息が上手くできなくて呼吸に専念する。それでも気を抜けば過呼吸になりそうで、冷や汗が滲んだ。とんでもない量の冷や汗だ。滝のように流れる。それほどに緊張し、それほどに恐怖を同時に味わっていた。  これで逃げないと(のたま)っていたのだから笑える。電話越しでこれだ。だが、ちゃんと話せている。自分の意見を言えた。これは、山岡にとって凄いことだった。 『んだよ、それ。許すなら、そうならないだろ』 「俺は……君が怖い。今、こうやって話ができていることが奇跡なほどだ。だから、お願いだ。もう、会いに来ないで欲しい。他には何も望まない」  縁を切りたい。一生懸命に話した。言葉にした。着ているロングTシャツが、汗でぐっしょりと濡れるほどの緊張。長谷川のフォトフレームを抱えたまま、祈るようにして彼の返答を待った。  彼にとっても悪い話ではないはずだ。長谷川のことを考えて許しを請うのなら、山岡はちゃんと許すと言った。長谷川に尋ねられても、確かにそう伝える。ただ山岡に接触してこなければ、それでいい。あとは長谷川が決めることだ。山岡ではない。 『そんな、大袈裟な』 「大袈裟……?」 『そりゃちょっと虐めたけど、俺も子供だったし。よくある兄弟喧嘩だろ? 昔のことなんだし、水流して仲良くしようよ。ね? 家族じゃん』  笑いながらそう告げる尚大に、大きな雫が膝とともにフローリングに落ちた。汗ではない。見開いた瞳からとめどなく溢れては流れる、色のない悲痛な感情。 (昔の、こと……?)  彼は、覚えていないのか。彼は、忘れてしまったのか。だからそんなことを、笑って言えるのだろうか。  山岡の体には、未だに醜い傷が残っている。長年抓られた痕だ。変色した部分が、今も癒えずにそのまま。 『兄ちゃんさ、もう未来に進もうよ。過去のことは謝るから。ごめんなさい』  ギリッ、と奥歯が軋んだ。これまでに沸き起こることのなかった感情がせり上がり、爆発する。 「謝れば……許される?」 『え。だって、俺が謝ってるんだよ?』  プライドの高い尚大の言いそうな台詞だ。話が通じなくて泣けてくる。彼からすれば、あくまでも、謝ってやっているのだ。喉が窄む。言葉が(つか)える。だが、今回はそれを飲み込まなかった。拳を床に叩きつけて叫ぶ。  「ふざ、けるな……ッ」  ふざけるな。何が水に流そうだ。何が未来に進もうだ。それができないからこんなにも苦しんでいる。今でも辛くてたまらない。 「やった方は忘れても、やられた方の傷は癒えないんだ! 全然消えない! 今でも夜に魘される……ッ。俺は、もう縁を切りたいんだよ! 頼むから二度と連絡してこないでくれッ!」  叫んでいた。滑稽なほど声は裏返っていたけれど。尚大相手に、叫んでいた。怒鳴っていた。激昂したまま電話を切り、ベッドへ放り投げる。長谷川の写真を両腕に抱えたまま、背を丸めて泣いた。醜聞など無視して号泣した。抑えられなかった。それは、これまで一度も体験したことのない激しい感情だった。  翌朝。目を覚ますと、床に転がったままだった。電気もつけっぱなし。もちろん上には何も羽織っていない。薄いロングTシャツ一枚。寒かったのか体を丸めていた。体中が痛い。喉も少し痛い気がする。こんな時期に床で眠ってしまった山岡の自業自得なのだが、怠さが中々取れない。しばらくぼーっとして、抱いて眠っていたフォトフレームを元の位置に戻した。  ベッドに腰掛け、放り投げた携帯電話で時間を確認する。尚大からの連絡は入っていない。それに心から安堵して、山岡は顔を洗うために部屋を出た。 熱っぽいが、この程度なら問題ない。今日はソルーシュの店休日。ゆっくりと休めば明日には体調も戻っているだろう。顔を洗って口を漱ぎ、服を着替えたところに滝川が朝食だと知らせてくれた。正直あまり食欲はなかったが、それを言えば心配させるだろうから笑顔で部屋を出る。滝川とともにダイニングへ向かい、席に着いていた泰造に挨拶をした。 「おはようございます」 「おはよう。おや……? 少し顔色が悪くないかな?」 「え。……ぁ、昨日ちょっと食べ過ぎたみたいで」 「そうか、じゃあ今朝は消化のいいものにしたらいい。滝川」 「はい。雑炊をご用意しますね」 「いえ、大丈夫です。量を控えますから」  ありがとうございます、と告げて席につく。滝川が作ってくれた朝食を、ゆっくりと時間をかけて少しだけ口にした。緑茶を飲むと喉がピリピリしたが、お陰で体は温まった。 「泰造さん。明日から仕事になりますので、今日は早めにお暇させて頂きます。お世話になりました」 「そうか……。残念だが仕方ない。滝川に送らせよう」 「助かります。滝川さん、よろしくお願いします」  優しい笑顔で頷いてくれる滝川の作ってくれた朝食を摂り、歯を磨いて荷物をまとめる。改めて泰造に礼を言い、長谷川の実家を後にした。  長谷川のマンションに戻り、風邪薬を貰って飲む。一緒に住むようになって、薬のある場所は初日に教えてもらった。あとは温かくして寝ていよう。薬が飲めただけいい。ソルーシュに入ってからは健康そのもので医者の世話になったことがない。もちろん山岡自身、金がないので健康には気を付けていたこともある。家にも常備薬はあるが、クローゼットの奥に仕舞われたままだ。  山岡家にいた頃は常にどこかが不調であった。頭が痛かったり、お腹が痛かったり、眩暈がしたり、耳鳴りがしたり。完全に精神的なものからくる体調不良だが、それをどうこうできるわけもなく祖母がくれる小遣いで鎮痛剤を買ってどうにか抑え込んでいた。 (……寒い)  柔らかな布団を鼻先まで引き上げて、山岡は眠る。そのうち薬が効いていたのか、ウトウトし始めた。明日から仕事だ。風邪なんて引いている場合ではない。体調が悪くなると心も臆病になる。こんなことでは駄目だと思うのに、頑張れない。元気がでない。  どうか少しでも早く体調が回復しますように。そう一心に願いながら、山岡は睡魔に身を委ねた。  カタン、と。物音を聞いた気がして深く沈んでいた意識が浮上する。夢か現か、額が気持ちいい。 「尚、ちゃんと薬を飲んで偉かったね」  長谷川の声が聞こえる。褒められる。だが彼は、フライト予定にもよるが大抵帰りが遅い。こんなに早く帰ってくるはずがない。だとすると、これは夢か。  そうか、夢なのか。そう思えば残念なような安心したような、不思議な気分だ。長谷川に心配をかけたくないけれど、本物でないことを残念がっている自分がいる。その理由を考える余裕はなくて、しかしそれが山岡の素直な気持ちだった。頭を撫でられる。なんだか嬉しくて、目を閉じたまま表情を緩めた。 「起こしちゃって、ごめんね。滝川から電話があった時は驚いたよ。でも熱もそう高くなくて良かった」 「……仕事、は」  夢なのに普通に訊いている自分がいて、ちょっぴり笑える。頭がぼーっとしているからか、山岡はこれを夢だと思って一ミリも疑っていなかった。 「ちゃんと終わったよ。それより君だ。久しぶりだったから、疲れが出たのかな?」  小さく首を横に振り、山岡は尚大から電話があったことを話した。まだ夢の中だと思っている山岡は、フワフワした気分の中で素直な気持ちを吐き出す。とても怖かったこと。とても悲しかったこと。とても悔しかったこと。とても、怒ったこと。 「怒鳴っちゃった……へへ」  へら、と笑う山岡に、長谷川が目を細めた。汗ばむ前髪をかき上げて、優しく何度も頭を撫でる。 「頑張ったね。偉かったよ」 「……エライ?」 「うん、偉い。凄い」  長谷川に褒められて嬉しくなって、目を閉じたまま小さく笑う。そんな山岡の隣に寝転がり、長谷川は凄い進歩だと更に褒めてくれた。山岡は今なら長谷川のことも下の名前で呼べそうだと笑い、長谷川は驚いたように目を丸くする。 「呼んでくれるの?」 「んー……もうちょっと、練習する。練習、大事」  長谷川が傍にいて嬉しいのか、山岡は上機嫌だ。さっきまでの恐怖心が嘘のようで、体もとっても温かい。安心したこともあるだろう。  ずっと瞼は閉じたままでいるせいか、再び眠くなってきた。夢の中でも眠くなることがあるのだな、と的外れなことを考えつつ「眠い」と口にする。 そのまま長谷川が「おやすみ」と言ってくれたこともあり、あっさりと意識を手放した。  これが、完全に山岡の失態であった。  ニコニコ。ニコニコ。ニコニコ。目が覚めて、自分の失態に大慌て。そして目の前の、ニコニコニコ。 「本当に昨晩は最高だった。しがみ付いて眠ってくれてね。離れようとすると、もう本当に嫌がって」 「ぐ、ぅ……っ」  顔を真っ赤にしながら、栄養満点の野菜スープを口に運ぶ山岡。正面に腰かける長谷川は嬉しそうで、朝からずっと笑っている。そしてこの調子だった。まさか、アレが本物の長谷川だとは。なんたる不覚。何を言っても無駄なので、ここは無視だ。優しい味の野菜スープを飲み干して、オニギリに手を伸ばす。すっかり熱も下がり、体調も回復した。食欲も戻っている。というより、腹の音で目を覚ましたくらいだ。  長谷川はおかゆを準備してくれていたが、山岡の腹の音を聞いてオニギリを握ってくれた。シャケにおかか、梅にたらこ。食べ放題状態である。おかずは慌てて長谷川が焼いてくれた塩サバと、甘い卵焼き。お手製の海苔の佃煮もまた最高に美味い。これでもかと食らい尽してお茶を啜り、念のためと差し出された薬も飲んだ。  今日は出勤が遅めなので、それまではのんびりと過ごす。朝から温泉にも入った。とても気分が良かった。長谷川が勧めるままソファに転がり、まさかの長谷川お手製ハチミツ生姜飴を舐めながらゴロゴロする。まだ少し喉がピリっとすると言ったら作ってくれた。  長谷川はなんでも手作りしてしまう。味噌も彼の手作りだそうで、先日はぬか床も手際よくかき混ぜていた。  時間が近づき、慣れた様子で準備を整える。電車で行くと言ったが、頑なに駄目だと言われた。これ以上悪化させたくもなかったので、長谷川の車で送ってもらうことにする。 「やけに混んでますね」 「そうだね、事故かな?」  もうすぐでソルーシュに着こうかという距離で、車の渋滞に引っかかった。そこまで車の通りがあるわけではない道だが、一旦渋滞すると長いのが特徴だ。お陰でソルーシュに客が流れて来ることも多く、これが吉と出るか凶とでるかは時間帯次第。暇な時間帯であれば嬉しい限りなのだが、逆に忙しい時間帯だと外と内を対応しながらの業務になるので、本当に大変だった。  五分、十分とまったく動かない車列に、長谷川が窓を開け向こう側からやって来た通行人に声をかけた。着物姿の凛とした中年女性二人組。彼女たちは長谷川を見るなり驚いたような表情を浮かべ、質問に対して少し照れた様子で道路にコンクリートブロックが散乱しているのだと教えてくれた。今、通行人や運転手たちで撤去作業を行っているらしい。 (こういう時、左ハンドルって便利だな)  爽やかな笑顔で礼を言って窓を閉めた長谷川に、山岡は携帯電話で時間を確認してここで降りると告げた。 「平気?」 「はい、近いので。どうもありがとうございました」 「帰りにまた迎えに来るから。終わるの二時だよね?」 「はい……でも、いいんですか? 深夜上がりの日はソルーシュに泊まっても」 「駄目だ。僕がいない日は滝川を寄越すから」 「俺なら平気ですって」 「尚、僕のためだと思って諦めて」  そう言われてしまっては、もう何も言い返せない。小さく返事をして承諾し、車を降りた。軽く手を振り、 ソルーシュに向かって歩き始める。ソルーシュはこの道から一本奥に入った場所にある。そちらも車の行き来はできるが、この通りよりも道幅が狭く人通りも少ない。  時間には余裕があるので、道路に散乱しているというコンクリートブロックを確認しに行く。すると、丁度最後の一つを片付け終わったところだった。両脇には山積みになったブロック。二車線を塞ぐように散乱していたようで、中々の量だった。  誰かのいたずらだろう。いや、いたずらでは済まない悪質さだ。遠くで警察のサイレン音も聞こえている。誰かが通報したのだろう。当然といえば当然か。流石に目撃者や防犯カメラに誰かが映っているはずだ。覆面であれば厄介だな、と思いつつ早く犯人が捕まることを願うばかりだった。  裏に入り一本裏の道に入る。夕闇迫る裏通り。細い道路を渡ろうとして、目の前にピンク色の軽自動車が停まった。気にせず道路を横断した山岡に、車の中から声がかかる。 「あ、あの……っ」  声をかえられて振り返ると、運転席にいたのは見覚えのある女性だった。深い色味の黒。細身で痩せこけた頬。青白い肌。陰鬱な印象は相変わらずで、山岡は近くに尚大がいるのではないかと周囲を見回した。 「わ……私、この前のことを……謝りたくて」  車を歩道側に寄せて停車し頭を下げてくる彼女に、山岡は力を抜く。可哀想に、涙目だ。あの後、尚大と何かあったのかもしれない。彼女にとっては過酷な現実だったはずだ。それを否定せず受け入れたのか、何にせよ本当に悪いのは尚大であって騙されていた彼女ではない。 「いいんですよ、もう。居場所はバレてしまったし、気にしないでください」 「……。ぁ、のっ……せめて、じゃあ。コレ……を」  なんだろう。やけにオドオドしているのは気のせいか。運転席の窓から差し出された小さな紙袋。受け取れないと断るが、あまりにも必死な形相だったので頬をかく。仕方ない。それで彼女の気が済むのなら、受け取ろう。もし変なものだったら、悪いが処分させてもらおうと思った。車に近づいて紙袋に手を伸ばす。 「ごめ、んなさぃぃ……っ」 「え?」  大粒の涙を流す彼女と、勢いよく開いた後部座席。振り返ると同時に、腹に電流が走った。痛みに大きく折り曲がる体。動きが止まったのを見計らい、体を抱えられる。映画やドラマのようにスタンガンで気絶することは、まずない。しかし体は委縮するし、痛みは当然ある。 「早く出せッ!」  狭い車内。後部座席に連れ込まれ、逃げる暇もなく車が発車した。それは絶望の音。愕然とする山岡の目の前で、サングラスをかけた若い男が運転席の女性にあれこれ指示を出している。怯えた女性のすすり泣く声。飛ぶ怒鳴り声。なんてことだ。ここまでやるのか。血も繋がらない弟に、心底失望した。  痛みに言葉を発するのも億劫で、山岡は男の足元でぐったりと項垂れる。怒鳴る声が頭に響く。体が竦む。聞き慣れた不機嫌な声。心が凍りそうだ。だが。もうあの頃の山岡ではない。そっとポケットに手を伸ばし、体で携帯電話を隠しながら操作する。心臓は緊張で張り裂けそうだったが、少ないチャンスを無駄にはできない。音は店に着く前に消音設定にしておいたので助かった。リダイヤルの上から二番目の番号にコールを鳴らし、相手が出てくれたのを確認してから声を張った。 「どうして俺を攫ったんだ! 今更なんの用だ!」 「うるさいッ! 黙ってろ!」  ビクっと肩が揺れる。血走った目に、本気で背筋が凍った。見たこともない切羽詰まった表情。 「お前は……俺のもんなんだよ、俺のなんだ……」  低く唸るような声に息を呑む。これ以上は刺激しない方がいい。そう判断し、窓の外を見た。どんどん日が傾き夜が迫る。山岡は不安に押し潰されそうになりながら、祈りを捧げていた。 (……長谷川さん)  助けて。助けてください。
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