長谷川×山岡編

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 陽が沈む。迫る逢魔が時。山岡はジッと大人しくしていた。下手な動作は尚大に勘付かれる。そのため迂闊に携帯電話を確認することはできない。さっきからやけに尚大がこちらを見てくるからだ。  逃げたくとも走行中だ。ロックもかかっている。どこかで停まってくれないかと腹の底から願っていたが、生憎とその願いは通じそうにもない。運転席の女性は尚大に命じられるまま車を走らせている。  尚大に恋焦がれて自ら行動に移した、……わけではなさそうだ。ひどく怯えた様子からして、何か強引な手を使われたに違いない。そこまでして山岡を連れ去りたい理由がなんなのかは分からない。  窓の向こうは都心を抜け、首都高を走っている。一体どこへ行く気なのだろう。向かっている方角からして、西方面か。不意に急ハンドルを切られて体が大きく傾く。隣のトラックがかなり接近してきた。それを避けようとしたらしい。あまり運転には慣れていないようだ。 「何やってんだ気を付けろ!」 「ご、ごめんなさい……っ」  怒声が車内に響き、彼女の肩が大きく揺れる。本気で怯えている後ろ姿に、山岡は確信を得た。彼女は無理矢理今回のことに加担させられている。尚大のことだ。何かしらの弱みを握っているのだろう。 「そんな、言い方……ないだろう」 「あ?」 「可哀想に……、怯えてる」 「お前に関係ねーんだよッ!」  ゴッ、と鈍い音。利き足で強く頭を強打された。後部座席の足元に転がされたままだった山岡は、反応で携帯電話が滑り出てしまう。すぐに体で隠したが、見つかっただろうか。緊張しながら痛がるフリをして携帯電話をもう一度隠した。縛られているわけではないので、両手が使える。これは本当に助かった。 (……電、話)  視界が潤みそうになるのを堪えて、外を見た。殴打された頭の痛みが吹き飛ぶ。握った拳に力が宿った。 (切れてなかった……っ)  ずっと通話中になっていた。一瞬だけだが通話時間も見えた。もうそれだけで元気が出てくる。殴られても平気だ。怖くない。現金なもので呼吸も整い、体に力が入った。何か少しでも情報を。姿勢を整えて窓の向こうを見た。隣に尚大がいるので大きなことはできないが、目も自由になるし外もまだ若干明るい。  遠くから迫る青看板。その進路を目にして、思わず山岡は尚大に尋ねていた。 「まさか、河口湖の別荘に行くの?」 「へぇ。馬鹿のくせに覚えてたのかよ」  山岡家。もとい、祖母は別荘を二つ所持していた。そのうちの一つが、河口湖の近くにある別荘だ。派手さはないが、凛とした避暑地は祖母のお気に入りだった。山岡も何度か祖母に連れられて出向いたことがある。  だいたい都心から二時間弱。これはちょっとした地獄のドライブになりそうだ。ひどく緊張している彼女と運転を交代してあげたいが、生憎と山岡は運転免許証を持っていない。持っていたとしても、尚大が山岡にハンドルを握らせるわけもなかった。  何はともあれ目的地は分かった。だからこそマズイと思った。あの別荘はこの時期、閑散としていて人の通りがほとんどない。あんなところに連れて行かれては逃げるのに苦労する。山岡の携帯電話では電波が入るかも怪しいところだ。何より電池の消耗も激しい。強制的に通話が切れるまで、もう少し情報を流しておきたい。 「お前、知らねーだろ。ばーさん、あの別荘はお前に遺したんだぜ」 「お、れ……に?」 「でも、馬鹿親どもが能無しのせいで、バカ高い固定資産税を払う余裕がなくなってな。月末には売りに出る」  義母は散財するばかり。義父にビジネスの才覚はゼロ。それを山岡は間近で見てきた。だからあまり驚きはしない。その分、両親は息子である尚大に期待していた。自分たちの生活レベルを落とさないために、息子へかける執念は凄まじいものだった。  両親の期待を一身に背負った尚大は、確かに有能で自慢の息子そのもの。けれど彼とて人間。完璧なわけではない。その反動が全て山岡に向けられていたわけだが、ここまで尚大が歪んだ原因はあの親たちにあることを山岡は知っている。そして、それに対して祖母がひどく嘆き苦悩していたことも。  尚大は山岡家の正式な跡取りだ。祖母との血縁関係もちゃんとある。それがない山岡には分からない重圧が、彼にあるのは当然のことだ。それを上手く発散できなかった尚大の歪みを、彼一人のせいにするのは少し可哀想な気がした。もちろん、だからといって自分にされたことを忘れたわけではない。自分を守るために他人を傷つけていいなんて、そんなことはないのだから。  山岡は施設で育った。まだ幼い頃に子供のできなかった山岡家に引き取られ、山岡家の跡取りとして育てられた。微かに残っている記憶。まだ両親が世間体のために優しかった時代。ほんの数年間だけだったが、確かに山岡は幸せだった。  初めて書いた母の日の絵。初めて作った父の日の黄色いカーネーション。幼稚園で作ったそれを持って帰った日、二人は笑顔で頭を撫でてくれた。嬉しそうに家の真ん中に飾ってくれた。祖母には敬老の日に手紙を書いた。まだ字も汚くて文章も短かったけれど、祖母は宝物だと言って泣いて喜んでくれた。  あの頃は、そんな幸せがずっと続くのだと信じて疑わなかった。歯車が狂い始めたのは、両親に本物の息子が授かってから。よくある話だ。尚大が生まれてから、両親は山岡を邪険にするようになった。目障りだと言いたげに、手のひらを返して冷たくなった。  まだ幼かった山岡は、一生懸命両親とまた仲良くなりたくて勉強も運動も頑張った。頑張れば以前のように誉めてくれると思った。しかし、山岡がどんなに頑張っても、振り向いて欲しくて必死になっても、二人は見向きもしてくれなくなった。それどころか冷たく蔑むばかりであった。  悲しくて。悲しくて。お星さまに、お利口にするのでお父さんとお母さんが笑ってくれますように、と祈った。毎日。空に向かって願い続けた。少しでいい。尚大に向けている笑顔を自分に向けて欲しかった。  それが叶わないのだと知ったのは、いつだっただろう。高熱にうなされている中、病院にも連れて行ってもらえず無視され続けた頃だったか。それとも運動会で尚大よりも目立ったとかで家に帰った途端、殴られた頃か。そのどちらも祖母がいない時だった。  全てを諦め、施設に戻してくれるように頼んだが、世間体がどうのと許してはもらえなかった。  祖母だけが山岡の味方だった。祖母だけは、何も変わらなかった。優しく、気高く、山岡を逃がしてやれない自分を許してくれと泣いてくれた。山岡は夫妻の子供だ。祖母は部外者でしかない。しかも世間的には仲のいい家族で通っている。衣食住も約束されており、進学も許された。児童相談所が動くには、緊急性が低い。 「おばあ様……」 「ハッ。相変わらず、お上品なことで。深窓の御令息気取りかよ」 「そんなつもりは……。ただ、昔からのクセで」 「じゃあ、御令息殿にもう一つ教えてやるよ。お前に相続された莫大な遺産は、弁護士に凍結されたまま。あの馬鹿どもは手が出せず、指咥えて歯噛み状態だ」 「遺産?」 「お前に相続する遺産は、ご丁寧にスイスの貸し金庫に預けて国際弁護士のもと管理されている。その額、およそ百八十億」 「百、八十……おくっ?」 「スイスに預けるくらいだ。その程度の額にはなるだろうさ」 「待って。おばあ様は、どうやってそんなお金を?」 「金じゃねぇよ。ばーさんが預けてんのは、絵画だ」  風景画の巨匠。P・ロッド。ロッド、幻の自画像。人嫌いで有名なロッドは、自画像はもとより写真一枚残っていない。絵を描くこと以外の作業は全て七つ年下の妹がやっていたそうだ。そのためロッドという人物が本当にいたのかさえ不明であり、昔から実は妹がロッド当人ではないのかと噂されていた。  数々の名画を世に送り出したロッドだが、その全てが風景画である。そこに自画像とくれば、コレクターたちが喉から手が出るほど欲して当然。実際、祖母のもとには毎月のように海外から画商が飛んで来ていた。  そのロッドの自画像が、唯一祖母の手元にある。もとは祖母の曽祖父のものを祖母が譲り受けたらしい。彼が妹と来日した際、通訳を務めたのが曽祖父で、曽祖父が持っていた別宅を大層気に入り、そこで筆を執ったとされている。 「しかも曽祖父に宛てた直筆の手紙まで残ってるらしい。よっぽど気が合ったんだろうな。いつか来るであろう画商宛ての手紙まであるそうだ。その全てが真贋の判定済。本物だと正式に決定が下されている」  そんなものを遺されているなんて、山岡は全く知らなかった。生前、祖母は何も言ってくれなかったから。何故そんな大層なものを山岡に遺しているのか、理由が分からない。山岡は絵に興味がないし、そもそも価値が分からない。山岡に遺してもらっても宝の持ち腐れだ。 「もしかして、その絵が目的なの?」 「はぁあ? ばっかじゃねーの。んなわけあるかよ」 「じゃあ、どうして俺を」  舌打ちされて終わる。意味が分からないまま、山岡は黙るしかなかった。遺産でないとすると、一体何が目的なのだろうか。  外は既に真っ暗で、星どころか月も分厚い雲に隠れていて見えない。落ちる沈黙。不安に負けそうな時は、つい先ほどポケットに隠した携帯電話に触れた。きっと大丈夫。大丈夫。そう言い聞かせて前を向く。重い沈黙の中、車が走り続けて約二時間。見知った景色が流れるようになった。そろそろ到着する頃だ。到着すればどんな仕打ちが待っているのか、考えるだけで身震いした。 「やっと着いたか」  辟易した様子で吐き捨てる尚大に、山岡は懐かしい別荘を前に固唾を飲む。ほとんど手入れがされていなかったのが一目で分かるほど、荒れ果てていた。これでよく売りに出せたものだと目を疑う。  昔、この別荘は白い外壁が特徴的な、それはもう大変美しい外観だった。だが今は見る影もない。祖母との思い出が朽ち果てたようで、山岡はひどく悲しかった。 「降りろ」  命じられるがまま、山岡は車から降りた。すぐにでも逃げ出したかったが、今は一人ではない。ここで山岡が逃げ出せば、運転してきた彼女はどうなるのか。あの怯えようからして、推測でしかないが暴力を受けている可能性もある。女性を殴るなど、そこまで落ちぶれていないと信じたいが、長年虐げられてきた山岡にはどうしても愚劣極まりない男に思えてならない。 「きゃっ」 「大丈夫ですか?」  暗くて足場の悪い中、極度の緊張から女性が両手を地面についた。すぐに駆け寄り手を貸すが、彼女を立たせる前に腕を掴まれて強引に引き戻される。 「勝手に動くな」 「だ……だって、彼女転んで」 「亜寿佳(あすか)。一人で立てるだろ。立てよ」  亜寿佳と呼ばれた女性は、すすり泣きながらゆっくりと立ち上がった。膝を擦りむいている。わずかだが血が滲んでいた。 「お願いだ、彼女は解放してやってくれ。この通りだから」 「駄目に決まってんだろ。そいつはまだ使える」 「彼女は物じゃない!」 「うっせーなッ、口答えすんな!」  殴られる。そう思い掴まれていない方の腕で顔を庇った瞬間だった。車のエンジン音が聞こえてきた。タイヤの地面を踏み鳴らす音が近い。思わず身構える。尚大の仲間だろうか。突如、照らされる闇夜。一つや二つではない。唸るようなエンジン音が四方八方から聞こえてきた。山岡は眩しさに目を眇め、腕で影を作る。それでもまだ眩しい。完全に取り囲まれているようで逃げ場ない。  扉の開く音がして、誰かがゆっくりと近づいてきた。長い手足。小さな頭。影だけでも長身なのが分かる。 「……一度だけでも万死。これで二度目だなぁ、クソガキ」  一斉に消えるエンジン音。ライト前に立つ影はとても背が高く、その美しいシルエットに山岡は目を瞠った。 「ちゃんと忠告したぞ? 次は、絶対に許さないと」  この声。あの立ち姿。間違いない。腕を下ろしてポケットに手を突っ込む。それを握り締め、泣きそうになる顔を歪めて唇を噛んだ。  昨今、おとぎ話だってお姫様は王子様の助けを待たずに戦う。勇敢に立ち向かう。それなのに、ただただ助けを待っていた自分が恥ずかしい。情けない。だけど。けれど。 「は……、は……せ、っ、……隼人さんっ!」  微かに影の肩が揺れる。無様にも涙声だったけれど、それほどに嬉しかった。通じた。来てくれた。これ以上にないほどの歓喜だった。逆光で表情までは見えない。それでも彼だ。長谷川だ。間違いない。嬉しさのあまり駆け出そうとして、引き戻される。振り返った先の鬼の形相。恐怖に足が竦む。声も出せなくなる。 「返せ。お前のオモチャにしていい子じゃない」 「……何が、何が許さないだ! 偉そうにッ!」  一つ、大きく、長く、長谷川が息を吐いた。異様なまでの冷たい沈黙。のちの、小さな一言。 「……そうか」  瞬間。影が、消えた。正確には、消えたのは周囲の明かりだ。一斉に落とされた車の照明。せっかく明かるさに慣れていた目が闇夜に逆戻りして、山岡は何も見えなくなった。  焦る中、不意に腕を引かれて体が大きく傾く。少し汗ばんだ冷たい手だ。反射的にその手を振り払い、山岡は体を横に逃がした。強張った体で逃げようとしたせいで足が絡んで転び、手のひらを擦りむいた上に膝を強打してしまう。  それでもすぐに立ち上がって、山岡はその場から離れた。とにかく尚大から逃れたかった。死に物狂いで足に力を入れ、何かに躓く。それは同じく倒れ込んでいる亜寿佳だった。怯えている瞳がすぐ間近。山岡はグッと腹に力を込めて、彼女を抱き上げる。細いが身の丈がある彼女。それでも腰が抜けて立てない彼女を頑張って抱えて移動した。しかしあまり長くは歩けず、すぐ近くにあった車の影に彼女を隠す。 「ここに隠れてて。もう大丈夫だから」  すすり泣く彼女に上着をかけ、山岡は長谷川を探して後ろを振り返ろうとした。  バンッ、と車のドアに手を突く両手。腕の中に閉じ込められる。恐怖に身が竦み、息を呑んだ。振り返れない。誰だ。尚大か。 「尚。そちらのお嬢さんと、どこ行く気?」 「は……長谷川さん?」 「……。そうだよ」  返事に間がある。長谷川の声がやけに不満げ。 「長谷川さん? ……あの?」  目も慣れてきた。目の前には拗ねた表情の長谷川。何をそんなに拗ねているのか分からなくて首を傾げると、隼人だ、と呟かれた。すぐに合点がいき、思わず失笑してしまう。そうだった。そう呼んだのだった。 「来てくれて、ありがとうございます。隼人さん」  ふわり、柔らかな笑顔が花開いた。今度は抱き寄せられて、長谷川の腕に納まる。ここは安全。もう大丈夫だ。そう思ったら気が抜けた。力も抜ける。ホッとして長谷川の肩に額を宛がい、ほんの数秒だけ目を閉じた。 「よく頑張ったね。色々手を回してぶっ飛ばしてきた甲斐があった」  一体どうやったのかは、多分訊かない方がいい。心の衛生的にも。道徳的にも。  ニコニコと少し怖いくらいの笑顔でいる長谷川に、山岡は微苦笑を浮かべた。そんな長谷川もいいなと、自ら彼に腕を回す。温かい。当たり前だが長谷川の匂いがした。嬉しい。抱きついた山岡に、少なからず驚いた様子の長谷川だったが、山岡の髪に顔を寄せて幸せそうに目を細めた。暗がりで誰も気づかなかったが、耳は赤く目元も薄っすらと色づいている。長谷川のまさかの照れ顔は、こっそりと闇の中に甘く溶け、誰の目に触れることなく夜に消えた。 「なんでそいつなんだよッ」  金切り声に、山岡は後ろを振り返る。車のライトが一台分だけ点灯していた。その先に尚大の姿がある。滝川たちに取り押さえられており、こちらを鬼の形相で睨んでいた。 「この俺がここまで気にかけてやってんのに! お前、頭おかしいんじゃねーのッ?」  血走った目が真っ直ぐに山岡を射抜き、地面に押さえつけられていながら、まだ体をばたつかせこちらに来ようとしている。異様な執念に怖気(おぞけ)が走った。 「……律子さんに義理通したのが間違いだったな」  ほとんど聞き取れないような低い声で、長谷川が呟いた。何、と彼を見てもその視線は真っ直ぐに尚大へ向けられている。山岡ももう一度義理の弟を見るが、彼は滝川に向かって何かを吠えていた。言葉が文章になっていない。支離滅裂なことを、ただ叫んでいる。  あれは本当に、尚大なのだろうか。同じことを思ったのか、亜寿佳が失望にも似た表情で尚大を見ていた。山岡の視線を感じたのか、彼女がこちらを見る。目が合った。彼女にありありと浮かぶ悲哀と虚無に、山岡は突き動かされた。ボロボロの彼女に近寄り、声をかける。 「辛かったね。もう、怖くないよ」 「……っ」 「今日が辛くても、明日は違うかもしれない。俺はそう思い続けて、どん底から這い上がれた。だから貴女もきっと前を向ける。時間はかかるかもしれないけれど、……人生そう捨てたものじゃないから」  長い間、尚大に苦しめられてきた山岡の言葉は、重い。それが彼女にも通じたのか、青白い頬に涙が伝う。泣きじゃくりながら謝罪する亜寿佳に、山岡は優しく声をかけ続けた。 「人のこと無視してんじゃねーッ! こっち向けッ、尚道ィ!」  声を荒げ過ぎて掠れている尚大の声に、山岡は憐みを浮かべて彼を見つめた。髪を振り乱し、目は怒りで充血し、泥だらけの服で暴れている。作り上げた尚大の顔しか知らない人間が見れば、まるで別人であろう。 「俺を見ろ俺を見ろ俺を見ろ俺を見ろ、俺を、見ろおぉぉぉ……ッッ!」  気圧されて体が後ろに傾く。それを長谷川に支えられて転ばずに済んだ。肩を強く抱かれて引き寄せられる。  尚大は滝川と彼の部下に取り押さえられていて、かなり無様な格好だ。そんな尚大から顔を背けて、長谷川の胸に顔を押し当てた。もう見ていたくない。声も聞きたくない。すると、山岡の心情を察したのか長谷川が自分のジャケットをそっと肩にかけてくれた。改めて抱き締められる。 「その手を離せッ、下衆が!」  滝川、と長谷川が尚大を取り押さえている男の名を呼んだ。年齢的には長谷川より上の滝川が、片膝をついたまま返事をする。 「そいつを、うちの別荘に運べ」 「別荘に、ですか? しかし若、親父がなんと言うか」 「運べ」  居丈高に命じる長谷川に、滝川が面を伏せて了解した。二つ返事で尚大を起こし、彼を部下たちとともに引きずりながら車に放り込む。尚大はかなり必死に暴れていたが、滝川たちは慣れたものだ。動じない。そのまま問答無用で車は尚大を乗せて、行ってしまった。 「隼人さん、彼をどこに?」 「本当なら先に警察なんだろうけど、少し理解させることができたから」 「……そう、ですか。あの、警察って」  長谷川が視線を山岡から亜寿佳に移す。彼女は大きく肩を揺らし、項垂れてしまった。 「尚も覚えてるよね。今日、道路が通行止め状態になってたこと」 「はい、覚えてますけど。……え」 「犯人は尚大と彼女だ。街の防犯カメラに映っていた。相当焦っていたんだろう。用意周到で決して自分の手は汚してこなかった男が、今回は違ったみたいだ」 「カメラに……」 「その上、君の誘拐事件。さすがに警察も動いている。罰金程度じゃ済まない。彼女には出頭してもらうことなるよ。ほう助とはいえ、ね」  項垂れている彼女を見て、山岡は拳を握った。彼女はきっと、尚大に強制された。あの怯えように嘘はない。断言できるのは、彼女の姿に自分自身を重ねたからだ。どれだけ恐ろしかったのかも、山岡なりに理解しているつもりだった。 「尚。気持ちは分かるけど、やってしまったことは変わらない」 「……で、でもっ」 「そんな顔しないで? 大丈夫、うちの弁護士をつけて行かせる。カメラにも彼女がかなり怯えていたのが映っていたからね」  彼女は目に涙を浮かべて、山岡と長谷川に何度も頭を下げながら、長谷川の部下たちに連れられて車に乗り込む。長谷川の部下たちは亜寿佳を怖がらせないためか、何故か「手荒な真似はしません! 指一本触りません!」と宣誓してから彼女の車に乗り込み、この場から去って行った。  残った部下たちも各々立ち去る中で、一台の見慣れないスポーツカーだけが残る。車体の低い、独特のフォルム。派手な深紅と有名なシンボルマーク。この男、一体何台車を持っているのだろう。見たこともない車体であったため、実家に置いていたのかもしれない。 「僕たちも行こうか」  帰ろう、ではなく、行こう、と言われて違和感を覚えた。だが、すぐに滝川と尚大が向かった別荘に行くのだなと理解する。SF映画に出てくるコックピットのような内装に愕然としながらも、二つしかないシートの一つに乗り込んだ。慣れたような手つきで車を出発させる長谷川に、これは何台目の車なのかを聞いてみる。 「あ、あの……、ね。別に豪遊しているわけじゃなくて、なんというか、叔父貴が……じゃなくて、叔父が趣味で車を、その、だから」  しどろもどろになって言い訳をする長谷川が可笑しくて、そうですか、と苦笑を浮かべながら頷く。別に嫌味を言うつもりはない。素直に何台所有しているのか、気になっただけだ。なんとも言えない表情の長谷川が面白い。ここに来た時とは全く違う、心の安定感。だからこそ感じる疲れ。山岡は心底疲れていた。 「尚。寝てていいよ。着いたら起こすから」 「ありがとうございます。でも先に、志間さんたちに連絡を」  きっと心配している。優しい人たちだから。迷惑をかけたことも謝らなければならない。 「僕が入れておくよ。とにかく疲れたろう? 寝るにはあんまり快適じゃないかもしれないけど、すぐ到着するから。落ち着いてから、ちゃんと連絡すればいい」  言われ、改めて疲労困憊の体に意識を向ける。確かに指一本動かすのも億劫なほど、疲れていた。色々思うところはあれど、山岡は長谷川の言葉に甘えることにする。こんな風に掛け値なしで甘えられる他人がいることに喜びを覚えた。かつての山岡では考えられなかったことだ。  暖かい車内。程よい振動。山岡はそっと目を閉じ、意識を安堵の底に沈める。眠りの邪魔をしない、洗練されたサックスの音色。疲れと安心感。意識を手放す準備は整い、山岡はすぐに穏やかな寝息を立て始めた。
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