長谷川×山岡編

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 山岡の体を温かいお湯に浸した布で丁寧に拭き、風邪を引かないよう空調を整える。無防備な寝顔に何度もキスをしながら、布団をそっと華奢な体にかけた。髪を撫で頬を撫で、ようやく手に入れた宝物に目を細める。  やっと、自分のものになった。出会い、離れ、帰国して。その間も忘れられなかった想い人。流石に年が離れ過ぎていると思わなくもなかったが、人生は一度きり。頑なに諦めようとしない心に負けて、動くことにした。山岡は忘れている出会いだが、それでも別に構わなかった。その分、長谷川が覚えている。今の長谷川を愛してくれているのなら、それで十分だ。 「賭けは……俺の勝ちですよ」  山岡の頬を撫でながら、少し悲しそうな瞳で呟く。あの日。夕暮れの病室で、彼の祖母と賭けをした。死にゆく自身の始末と、血の繋がらぬ孫の行く末を深く案じていた彼女。今もよく覚えている。我ながら無謀な賭けをしたものだと思うが、結果的に勝った。長谷川が喉から手が出るほど欲しかったものが、今ここにある。 「……ごめんね、尚」  こんな男に捕まらなければ、世間が認知する「普通」が手に入ったのかもしれないのに。  実際の山岡を目にして、理性よりも欲が(まさ)った。歯止めが効かなかった。いい年をした大人が、一回り近く年の差のある子を手に入れるために、こうもなりふり構わず。実に無様なことだ。しかし後悔はない。  昔も今も、山岡だけが長谷川の心を満たしてくれる。モノクロだらけの世界に彩りを与え、潤してくれた。  ガタンッ、と。これまでにない大きな音が響く。山岡の睫毛が震え、軽く身じろいだ。それを優しく抱き締めて、あやすように髪を撫でる長谷川。部屋の奥。扉の隙間から聞こえる唸り声。暴れる音。それへ冷たい視線を向けて、手を止めた。  このままでは山岡を起こしてしまうかもしれない。そう考えた長谷川は、山岡を別の寝室に移した。寒くないようにしっかりと空調を整えてから布団を着せ、自分はそのままシャワーを浴びに浴室へ向かう。  軽くシャワーを浴びて滝川が用意していたと思われる着替えに袖を通し、廊下に出た。深く腰を折って立っている男。気配がしたので、さして驚きはしない。彼は長谷川の肩に持っていたガウンをかけると、無言で付き従った。ゆっくり、髪をタオルで拭きながら先ほど山岡を抱いた寝室に戻る。  コキ、と首を鳴らして更に向こうの扉を大きく開いた。薄明りの下、目を真っ赤にして暴れている憐れな青年。怒りで顔を真っ赤にして、しかし両手足を縛られているため上手く動けない。相当暴れたのが、彼の着衣の乱れからも分かる。額を打ち付けたようで、大きなコブから血が垂れていた。  屈辱。そんな言葉では言い表せないであろう、彼の激昂。長谷川はそれをジッと見下ろして、唇を歪めた。  濡れた前髪をかき上げ、傍に転がっていた木製の椅子を起こす。それに腰かけて長い脚を組み、アームに肘をついて目を細めた。 「可愛かったろう? 尚は。一生懸命にしがみ付いてきて。最高に可愛かった」  嫣然とする長谷川を、睨み殺せるのなら殺してやりたいと歯噛みする傷だらけの青年。そんな彼の猿ぐつわを滝川に外させ、自らは滝川が差し出したグラスを受け取る。  この部屋は物置でもなんでもない。れっきとしたゲストルームだ。備え付けのカウンターバーは叔父のお気に入り。たまに長谷川も顔を出した時は利用している。 「殺してやる……ッ。絶対に殺してやる!」  うわ言のように繰り返す男へ、長谷川が鼻を鳴らす。一口、愛飲しているブランデーを口に含み、何を言うわけでもなく黙って青年――尚大を見下ろしていた。ニコリともしない鋭い視線。無言の威圧。絶対に山岡には見せない、長谷川のもう一つの顔。それに耐えきれず、尚大が視線を伏せた。 「殺せるものなら殺してみろ。その前に俺は、お前を社会から抹消してやる」  長谷川が滝川を一瞥すると、彼は用意していたA4サイズの茶封筒を長谷川に差し出した。長谷川はそれを掴み、中身を尚大の頭上にばら撒く。 「裏入学か。教授たちへの賄賂。試験内容が事前に分かっていた頃は良かったな? だが律子さんの遺産を使い果たした今、お前を擁護する金はどこにもない。会社の業績も年々悪くなる一方だ。お前自身も化けの皮が剥がれ、周囲はお前よりも優秀な奴らばかり。徐々にお前を下に見る奴らが増えてきた。プライドの高いお前はそれが我慢ならなかったのか」 「……ッ」 「情けない。天下の山岡尚大はどこへいった?」 「うるさいッ、全部アイツが俺から離れたせいだッ! アイツがいた頃はストレスもちゃんと発散できてたんだっ。それなのに黙って俺の前から消えやがって……ッ。無能なんだからそのくらい役に立てよッ。俺の踏み台になるくらいが、アイツは丁度いいんだよッ! アイツは俺のものなんだからッッ」  身勝手極まりない自己主張。自分の人生の踏み台になれとは、これまで山岡がどんな環境に身を置いていたのか察するに余りある発言だ。  傍にいた滝川の拳が怒りに震えている。滝川は長谷川の祖父泰造の想いと、長谷川自身がいかに山岡に救われたのかを知る、数少ない人物の一人だ。また実際に山岡と出会って、彼個人への情も芽生えている。いかに苦労してここまで来たのかを知った滝川が怒るのも、無理はなかった。それでも声を荒げたりはしない。それをするのは、彼の役目ではない。  静かに長谷川が立ち上がる。飲みかけのブランデーを頭上から浴びせ、グラスを床に放る。甲高い音を立てて砕け散るブランデーグラス。尚大の顔色が変わる。怒りに恐怖心に負けた瞬間だった。長谷川が彼の胸倉を掴んで引き寄せる。 「いいか? その空っぽの頭に、よーく叩き込んでおけ。あの子にはあの子の人生がある。そこにお前が絡むことは二度とない。何故ならお前がどれだけあの子を求めようと、彼自身がそれを拒むからだ。そしてその意思は、俺たち長谷川家が全力で叶えてみせる」  己だけではなく『家』を出してきた長谷川に、尚大の表情が強張った。  その時だ。扉の向こう。廊下から聞こえる複数の足音が聞こえてくる。物々しいその音に、尚大が怯えて背を丸めた。扉が開く前に、滝川が腰を折る。長谷川も尚大から手を離し、腰を上げた。 「叔父貴。お疲れ様です」  そう告げて滝川が迎えた先。いかにもなスーツ姿の中で一人、真っ赤なシャツを羽織った男が入ってくる。長谷川と体格はほぼ同じ。細身だがかなり鍛えていることがシャツ越しにも分かる。後ろに流した黒髪。右目の下に大きな刃物傷。年齢は四十代後半。滝川とさほど変わらない。事実、彼は長谷川の父である実兄とは年がとても離れていた。 「面白いことになってんなぁ、隼人?」 「面倒をかけました」 「いいってことよ。可愛い甥のためだからな。で? どこ? お前の天使ちゃん。あのジジィが、是が非でも嫁に欲しがってる、律子お嬢さんのお孫サマ」  ワクワクした目で周囲を探すが、こんなところに山岡がいるわけもない。別室で眠っていると告げれば、子供のように口を尖らせた。飄々として掴みどころがなく、それでいて隙が無い。そこにいるだけ異様なオーラを放ち、周囲の人間を圧倒する。それが、長谷川の叔父。長谷川利逸(りいち)だ。  利逸は長谷川家が【裏般若】と呼ばれるようになった原因でもある。解散するまでは彼が組を取り仕切り、新入りに極道の何たるかを教えていた。解散後は長谷川グループのトップとして、グループ全体を率いている。  派手好きは相変わらず。これで酒が一滴も飲めない。実の父親にはたてつくが、年の離れた兄には頭が上がらない筋金入りのブラコンだった。兄の忘れ形見である長谷川にも、幼少期から何かと良くしてくれる。  ただ、彼は小さくて可愛いものにとことん目がないので、あまり山岡を会わせたくなかった。なんというか、フォルム的に山岡は利逸の好みドンピシャなのだ。性的にではなく、フォルム的に。 「久しぶりだなぁ、山岡尚大。大きくなっても、中身は成長しなかったか。お前の親父の商才のなさも救いようがないが、お前の馬鹿さ加減も救いようがないなぁ」  ケラケラと笑いながら尚大に近づき、片膝をついて薄汚れた顔を覗き込んだ。  山岡家と長谷川家は、律子と泰造の縁があって今がある。生前律子から山岡のことを頼まれていた泰造と、元とはいえ極道とは懇意にしたくない山岡家。律子の死後から始まった確執は、予想以上に根深い。  どれだけ頼み込んでも山岡に会わせてもらえなかった上、息子に会いたければ誠意を見せろと金を無心した。泰造は山岡の両親に言われるがまま、山岡のためならばと定期的に資金援助していた。しかし、その金は山岡のためには使われず、そのことが発覚したのは山岡が家を出て行って半年も経った後であった。  山岡家に失望した泰造は話が違うと抗議したが、息子として出てきたのは山岡尚道ではなく山岡尚大。悪びれた様子もなく勘違いしていたと説明する山岡の両親に、泰造は失望を禁じ得なかった。  そんな泰造へ、律子と正式に血が繋がっているのは自分であり、自分に投資した方が得だと告げた尚大。笑いながらそんなことを告げる尚大に怒りを覚えた泰造は、そういう問題ではないとその場を失意の中引き下がった。泰造は部下たちに山岡を探すように命じたが、山岡は痕跡を残すような真似はしていなかった。山岡家を恐れ、年単位で計画していた逃走劇。そう簡単に見つかるわけもない。  だが律子への恩も返せず失意が絶望に変わりそうであった泰造に、孫の長谷川から吉報が届く。山岡尚道を見つけたというのだ。けれどその直後、彼はまた消えてしまった。詳しく調べたところ、彼が全財産を騙し取られていたことが判明した。しかもあろうことか、山岡の居所がまた分からなくなった。  そんな父の無念を間近で見ていた、長谷川利逸。念願の尚道が見つかって俄然元気になり、色々と張り切っているのも知っている。父親が元気になれば息子としては嬉しいものだ。しかも甥っ子の想い人ときた。 「うちの金を使って好き勝手してくれた報いと、これまでお前が重ねた罪はしっかり清算してもらうぞ」  顔面蒼白の尚大は目を瞠ったまま動かない。利逸の迫力に圧倒されているのもそうだが、これから自分がどんな目に遭うのか分からず恐怖していた。無理もない。彼は粋がってはいるが、まだ大学生である。足を洗ったとはいえ、本物の極道を相手にどうこうできるはずがない。 「ど、どうする気だ……」 「どうもこうも、サツに行くんだよ。決まってんだろう? 安心しな。元々の職業柄、顔馴染みは多いんだ」  ニィ、と白い歯を覗かせて利逸が笑う。音もなく立ち上がり、部下に合図をして尚大を移動させた。我に返りかなり暴れていたが、うち一人の部下に凄まれて押し黙る。小刻みに震えている尚大。そんな彼を、長谷川は冷たく見据えていた。  あの日。山岡が気絶してしまった日。長谷川は決して手荒なことはしなかった。律子は尚大のことも気にかけていたからだ。あの子があんな風になってしまったのは、全部息子夫婦のせいだと悔やんでいた。自分は子育てを間違えた。そう涙する律子を思い出し、長谷川は条件を付けて尚大に山岡のことを諦めさせようとした。 「何故、約束を破った。取引を反故にする利点が、お前のどこにある」  静かな問いかけに、尚大が足を止める。かなり尚大にも有利な提案をしたつもりだ。利己的な尚大なら、少なくとも大学を卒業するまでは約束を破ることはないと思っていた。だが、尚大は取引に応じたフリをしただけ。そもそも取引自体が成立していなかった。しかも、想像以上に早く手のひらを返して、直接的に山岡を取り戻しにかかってきた。  尚大は語った。長谷川に向かって、山岡の必要性と利用方法を。得意げに語ってみせた。その盛大な告白を、長谷川は怒りを吞んで聞いていた。目的のためにも、怒りのまま動くことは得策ではなかったからだ。  このを山岡が勘違いしたわけだが、この男の山岡に対する執着心を甘くみていたのかもしれない。だからこそ、腑に落ちない。山岡に執着する理由である。ストレス発散がどうのと言っているが、本当にそうだろうか。あれだけの条件を提示し、契約書と多額の金も用意した。約束さえ守っていれば、彼は彼の描いた人生を歩めていたはずなのだ。  それを蹴ってまで山岡を取り戻そうとした尚大。まさか、と長谷川が低い声で呟く。信じられないものを見る目で、彼を見遣った。振り返った尚大と目が合う。 「お前、……本気で?」  額から伝う赤い鮮血。それを拭うこともせず、尚大は真っ直ぐに長谷川を見つめたまま告げた。 「……アンタが何をどうほざこうと、アイツは俺のものだ」  歪な行動に見え隠れする、微細な本音。逃げる山岡を追いかけ続けてきた尚大自身の渇望と欲求。それを理解した時、長谷川は初めて目の前の男を憐れんだ。おそらく一生山岡には伝わらないだろう。あの子は素直過ぎる。その点、尚大はまさに真逆だ。恐ろしいほどに対照的。交わるわけがない。  頑なに今ある事実を認めない。自分にとって不都合な事実は特にその傾向が強い。大学まで化けの皮が剥がれなかったのは、それまである程度自分をその枠に嵌めておけたからだ。しかし世間は広い。上には上がいる。井の中の蛙が大海を知り、溺れかけた時に縋ったのが血の繋がらない兄。けれどその兄には拒絶され、その理由を自分ではなく他に擦り付けている。 「……憐れだな」 「うるさいッ」  聞きたくない台詞への拒絶。まるで子供だ。まったく成長できていない。  軽く頭を振って長谷川が叔父に連れて行ってくれと合図する。叔父は何も言わずに、部下に目配せした。引きずられるようにして尚大が部屋を出よとした時。利逸が足を止めた。廊下の向こうをジッと見ている。それに気付いた長谷川は、まさかと蒼白して廊下に出た。  長谷川よりも真っ青になった顔で、薄暗い廊下の端に立っている青年。分厚いガウンを羽織った小さな体は、大きく震えていた。目を覚ましてしまったのか。ここに戻ったのは、長谷川を探してか。誰か一人でも人を付けておくのだったと後悔しても、もう遅い。 「に、兄ちゃん!」  今更そんな風に馴れ馴れしく手を伸ばす尚大に、山岡が分かりやすく悲鳴を上げて後ろに後退った。  最悪だ。本当にしくじった。ここで尚大が見つけるとは。今日は起きてこないだろうと踏んでいただけに、自分の浅慮を全力で殴りたい。尚大の横をすり抜けて、長谷川が山岡を腕に抱く。 「兄ちゃんッ!」  「大人しくしてろ!」  利逸が尚大を床に伏せ、その背を踏みつけた。それでも尚大は山岡を呼び続ける。山岡は可哀想なくらいに怯え、尚大から兄と呼ばれるたびに大きく体を揺らした。長谷川は山岡を抱え、その場を離れようとする。 「待てよッ! 嫌だ……っ、兄ちゃん! 俺を捨てないで……ッ」  泣きそうな声で身勝手なことを重ねる尚大に、山岡が肩を揺らす。顔を上げ、長谷川の肩越しに尚大を見た。徐々に止まる震え。廊下を進む長谷川に止まってくれと告げた。 「尚、アイツに同情は」 「違います。……お願い、戻って」  何やら雰囲気が違う。長谷川は山岡をジッと見つめ、その視線が逃げずに尚大へ向けられていることに足を止めた。踵を返す。  自分を見捨てずに戻って来たと思っている尚大は、嬉しそうに山岡を見た。手を伸ばす。しかし山岡がその手を取ることはない。長谷川に言って下ろして貰い、すぐ傍で尚大を見下ろしていた。彼の視線はいつになく冷たい。悲哀よりも、むしろ失望を滲ませていた。  こんな目をする山岡を長谷川は初めて見る。こんな表情も出来たのだなと、長谷川は新たな山岡の一面に目を奪われていた。 「……捨てないで、か。昔、俺も子供の頃に言ったことがあるよ。冬だった。熱が出て、苦しくて、本当に辛くて。でも、そう言った俺に、君たちはなんて言った?」 「っ」 「覚えてるだろう? 君の両親も、君も、鼻で笑ってこう言ったんだ。――気持ち悪い、って」  尚大の目が大きく見開かれる。覚えているのだろう。ダラダラと額から溢れる冷たい汗が、それを物語っていた。そんな尚大を、山岡は瞬きもせずにジッと見下ろしている。  長谷川は何も言わない。今ここで、当人を相手に吐き出せることは山岡にとっていいことだと思った。  決別は、山岡自身の手で。周囲がどうこう言うより、尚大には効果てき面であろう。 「俺は君の兄じゃない。俺が山岡の姓を捨てなかったのは、おばあ様への恩と愛情があるからだ。人間以下の扱いを受けて、どうして兄弟だと思える? 血の繋がらない君と僕は、元より赤の他人じゃないか。それが今更、兄ちゃん捨てないで? ふざけないでくれ、……気持ち悪い」  長谷川は少し思い違いをしていたのかもしれない。山岡は二度も山岡家から逃げた根性と、強さを持つ男だ。優しいだけではここまで来られなかった。愛らしい外見と人の良い言動に忘れそうになるが、そもそも病院で長谷川に辛辣な言葉を浴びせたのは山岡だ。  記憶の底であの頃の山岡を懐かしみながら、長谷川は瞠若して動かない尚大を眺めていた。  彼は自分が弱さを見せれば、山岡が手を差し伸べると疑っていなかったはずだ。ひどくショックを受けている。自分はその手を払っておいて、何故自分だけは手を取ってもらえると思ったのか。その心理が長谷川には分からない。 「俺の携帯番号、……理都子(りつこ)さんに訊いたの?」  理都子。それは山岡がソルーシュに入る前、お世話になっていた店主の名前。小料理屋を営んでいた女性だ。律子と同じ名前の響きと同じ年。風貌も、どこか似ていた。山岡が店の前に貼ってあった求人の張り紙を見たのがきっかけで、事情も深くは訊かずに雇ってくれた。二階が空いているからと、見ず知らずの山岡を住み込みで働かせてもくれた。まさに恩人だった。  山岡が気を許すのに時間はかからず、一生懸命に働いた。彼女の役に立ちたかった。  小料理屋だけではなく、山岡は他の店でもバイトをした。理都子が住まわせてくれたお陰で履歴書に書く住所に困らず、人手不足にあえぐ昨今、職はいくらでもあった。  そんな冬の日。バイト先から山岡が帰ると、小料理屋の前で業者が話をしているのを見つけた。聞けば明日にでもこの店を解体するのだと言う。何がどうなっているのか分からなくて山岡は慌てて部屋に戻ったが、理都子の姿はどこにもなかった。  唖然とする山岡に、業者の男たちはここは以前から空き家だったと不思議そうに話してくれた。そんなわけがないと、今日までのことを説明するが家主の男性は海外に住んでいて理都子なんて女性は存在しないと言われた。業者が持っていた書類も一部確認させてもらったが、本当に理都子の名前はどこにもなかった。  血の気が引いた。訳が分からなかった。あの老婆は、一体何者なのか。一人取り残された山岡が知ったのは、優しい仮面をつけた老婆に騙された事実。貯金通等と、印鑑。そして部屋でこっそり貯めていたタンス預金。そのすべてが、理都子とともに消えていた。気を許して暗証番号を教えていた山岡は、この事実に絶望する。  ポケットに入れていた携帯電話。もちろん何度も理都子にかけたが、当たり前のように電話は繋がらなかった。結局、今も彼女が何者であるのかは分かっていない。警察には届けなかった。山岡家に見つかりたくなかったからだ。フラフラと一人外に出て、身一つで彷徨い、気づけばソルーシュの前。それが山岡の過去だ。 「ちょっと、待って。理都子なんて知らねぇ。番号は興信所に金払って調べてもらったんだ。なぁ、まだ怒ってるのかよ。ちゃんと謝っただろ?」  理都子ではなかったと分かり、山岡は視線を伏せた。少し気落ちしているのか、長谷川が気遣わしげに肩を抱く。山岡は長谷川に身を預け、また前を向いた。 「……。いらない。謝罪は必要ない。受け入れない。俺は君と縁が切りたい。怒る怒らないの問題じゃない」  これが本当に山岡かと思うような、淡々とした言葉運び。あれだけ怯えていた山岡が、彼の中で何かが切れたように今では辛辣に言い返している。これこそが、紛れもなく山岡の本心だ。彼の本音である。恐怖心が腹の底に押し込んでいた。言いたくても言えなかったものだ。  尚大は愕然としている。そんなかつての弟を、山岡は無表情で見下ろしていた。それだけ山岡にとって「捨てないで」という言葉は強く、かなり根深いものだった。先に手を払ったのは尚大だ。彼は今、その報いを受けているだけに過ぎない。 「近いうちにおばあ様が遺してくださった絵画は、美術館へ寄付する。おばあ様もそうして欲しくて、絵を俺に譲ったんだろうから」 「百八十億の絵画だぞッ?」 「だから?」  これは山岡の復讐だ。尚大に向けて、ではない。おそらくは山岡家の両親に向けての。  指を咥えて待つことしかできなかった百八十億の絵画。それを無償で寄付するという山岡。これ以上の復讐があろうか。山岡の両親は激昂するだろう。だがどれだけ激昂したところで、全ての権利は山岡にある。遠吠えは虚しく木霊するだけだ。  血走った目で山岡に飛び掛かろうとする尚大を、利逸が押さえる。すぐに長谷川が山岡を背に隠した。 「駄々こねてないで、行くぞ」  連れて行け、と利逸が部下に命じる。喚き散らす尚大を大人数人がかりで引きずり、今度こそ彼は警察に向かった。静けさの戻った廊下で、長谷川が山岡に目を移した。彼は暴れる尚大を見つめながら、頬を濡らしていた。嗚咽を漏らすことなく静かに涙する山岡。彼の拳はきつく握られており、長谷川はそっと小さな体を抱き寄せる。 「部屋に戻ろう」  そのまま冷えた体を抱き上げ、寝かせておいた部屋に戻った。その間、山岡は一言も喋らなかった。  抜け出したベッドに寝かせ、自らもベッドの端に腰を下ろす。濡れた眦を指先で拭い髪を撫でていると、山岡が虚ろな瞳で口を開いた。 「……言いたいこと、言えました」 「うん」 「でも、変なんです。言えたのに……苦しい。スッキリしない。なんでしょう、コレ」  山岡は今、自分の言葉に自分で傷ついている。自身が放った棘で、自分を傷つけている。  これまで彼が受けてきた罵詈雑言に比べればそよ風のような拒絶だっただろうに、それでも彼は確かに傷ついていた。なんと繊細な子だろうかと、長谷川は華奢な体を抱き締めた。律子の支えがあったとはいえ、よく心が壊れなかったものだ。律子の存在の大きさと、彼自身の強さに感謝しつつ、長谷川は彼を強く抱き締めた。 「よく頑張った。君が傷つく必要はない。後悔しなくていい。君は正しいんだ」  嗚咽が滲む。か細い嗚咽が腕の中。長谷川は山岡の隣に体を寝かせ、腕の中に改めて引き寄せた。  山岡は今、とても複雑なのだろう。深く傷つけられて、人格を否定され、どうにか逃げ出した山岡家。その跡取り息子が自分を捨てないでくれと叫んだ瞬間、彼の中で何かが壊れたのかもしれない。幾度となく手を差し伸ばして拒絶されてきた山岡にとって、おそらくそれは間違っても言われたくない言葉だったのだ。  怒りと慟哭。何故自分の手を取ってくれなかったのか。何故今更自分の手を欲するのか。腕の中で嘆き苦しむ山岡の心が、涙とともに長谷川の体に染みる。それを全身で受け止めながら、長谷川は黙って彼の背中を撫で続けた。そのうち泣き疲れたのか、心身の疲弊がピークを迎えたのか、山岡がウトウトし始める。腕に山岡の全体重がかかり、彼が眠ったことを察した。しばらく柔らかな黒髪を撫でていた長谷川だが、完全に寝入った山岡から手を離してベッドから下りる。彼にはまだもう一つ。大きな仕事が残っていた。
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