長谷川×山岡編

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 まさに泥のように眠った。それでも体が重い。頭も少し痛い。吐き出す息が熱くて、熱があるのだと理解する。触れた額も熱いから、おそらく間違いはないだろう。心労か。疲労か。その両方か。体調が悪いと気が滅入る。嫌なことばかり思い出すから。家族だった相手に拒絶された冬の日も、やっぱり体調が悪かった。  まったく、これで何度目だろうか。いい加減にしてくれと、自分で自分に怒りがこみ上げる。そろそろ起きなければと思うのに瞼が開かない。体が重くて指一本動かすのも億劫だ。まるで金縛りにあっているかのよう。 「可哀想になぁ、お前の馬鹿ふっっっといの入れられて体が悲鳴を……。こんなに華奢なのに、お前の規格外サイズを一生懸命受け入れて」 「……叔父さん、そんなことばかり言っているから奥さんに逃げられるんですよ」 「うるせっ。俺には娘ちゃんたちがいるからいーの!」  頭上で何やら声がする。一体誰だろう。聞いたことのある声だ。瞼を開いて確認しようと思うのに、中々目が開かない。起きるどころかまた睡魔が襲ってきた。一時的な浮上を、睡魔が阻んでくる。 「静かにせんか、病人の前で。尚道くんが起きるだろう」  ヒヤリとしたものが額に触れた。気持ちいい。頭を優しく撫でられると、それだけで痛みが引いていくようだ。誰だろうか。もっと撫でて欲しい。意識が声の方に向く。額の冷たいものがズレた。それを直してくれる手が優しくて、嬉しくなった。 「可愛いのぅ。律子お嬢さんが心底可愛がっていらっしゃったのも無理はない。そうだ、先日届いた桃を用意させておかねば。滝川、滝川はどこだ」  滝川の名を呼びながら、椅子から立ち上がる音と気配。行ってしまうのか。寂しい。すると今度は逆側から髪を撫でられた。今度はさっきの手よりも大きい手だ。温かい手。安心する。 「じゃあ、そろそろ俺も出るわ。天使ちゃん、早く熱下がるといいな」 「ありがとうございます。色々助かりました」 「いいって。……にしても可愛い顔だよなぁ。お前のじゃなかったら、是非うちの娘ちゃんのお婿さんに」 「お帰りはあちらですよ、叔父さん」 「へーへー」  賑やかな声が遠ざかる。急に寒くなった気がして背を丸めた。  悲しい。寂しい。一人は嫌だ。これまで一度もそれを口に出したことはないけれど、ずっと寂しかった。自分は常に一人でも大丈夫だと言い聞かせて、祖母の前でも気丈に振舞った。そうでなければ心が折れる気がしたから。足元から崩れてしまう気がしたから。頑なに、言葉にはしなかった。 「まだ少し熱いな……」  背中が温かい。いい匂いもする。この匂いは好きだ。とても安心する。包み込まれる感覚に頭の痛みが引いた。とても心地よくて、あれだけ重かった体に少しだけ力が戻る。  視界に零れる優しい光。何度か瞬いて、身じろいだ。額から布が落ちる。 「尚、起きた? 具合はどう?」  こちらを覗き込んでくる綺麗な顔。明るい瞳の色に、これは誰だったかと上手く働かない思考を回転させる。  頬を撫でられた。それに目を閉じて、山岡は微笑む。まだ少し重い体を動かし、隣にある体に顔を埋めた。 (いい、匂い)  落ち着く。このままもう一度眠ってしまいたい。山岡は額を長谷川の胸板に付けたまま体を預けた。 「知り合いの医師に診てもらったら、風邪じゃなくて心労だろうって。ゆっくり休んだら熱も下がるよ。それでね、その……。痛い? ……お尻」  長谷川が何を気にしているのか察して、小さく笑った。眠気はそこで手招いていたが、どんどん意識が浮上する。目を閉じたまま首を横に振った。異物感がないといったら嘘になるけれど、当日も歩けたくらいだ。問題はない。  良かった、と安堵する長谷川の声。風邪でないのなら移らないだろう。腕を長谷川の背に回して抱きついた。すぐに抱き締め返してくれる。嬉しい。枯渇していた何かが満たされる感じに、心の底から歓喜した。  抱きついてくる山岡に、長谷川は尚大を恐れてのことだと思ったようで、優しく頭を撫でてくれる。山岡は何も言わなかった。ただ黙っている。尚大のことは正直気になったが、今はこの温もりに浸っていたかった。  それだけ心身ともに疲弊していた山岡は、長谷川の腕の中から離れない。長谷川もまた何も言わずに山岡を抱き締めていた。長谷川は寒がっている山岡を温めるために隣にいたのだが、こんな風にしがみ付いてくるとは予想外だった。それだけ心身を摩耗したのだろうと、尚大への怒りを煮え滾らせる。実際、確かに山岡のこの発熱は尚大が原因だった。深い恐怖に悲鳴を上げていた体が、休息を求めたのだ。 「……ここ、は?」 「僕の実家だよ。なんだかんだ、ここが一番安全だからね」  安全と言われて何を警戒しているのか疑問に思ったが、すぐに理解する。長谷川は尚大ではなく、尚大の両親を警戒しているのだろう。ずっと記憶の奥底に閉じ込めていた男女の姿。血は一滴も繋がっていない。尚大が生まれてからはほとんど目も合わせてくれなかった。  長谷川は言う。ソルーシュには連絡を入れてあると。三人ともとても心配していたが、無事に解決したことを喜んでいたと。ソルーシュに嫌がらせを行っていた亜寿佳のことは、訴えないと決めたそうだ。しかし彼女は道路の交通妨害行為と山岡の拉致を手伝ったほう助罪がある。交通妨害に関しては罰金程度で済むが、流石に拉致に関してはそうもいかない。  山岡も彼女のことは許してやりたいが、訴えを下げるにはいかなかった。尚大が関わっている。今後のためにも、尚大のことは許すわけにいかない。亜寿佳には長谷川が弁護士を付けてくれると言ったから、幾分心強い。彼女は脅され、今回のことをとても悔いている。さほど大きな罪にはならないはずだ。  問題は尚大。彼は山岡の拉致以外にも、教授たちを買収して試験結果を捏造した罪がある。裏入学に関しては知らぬ存ぜぬで通せても、そこはどうにもできない。直接金を渡していたのは、尚大本人だからだ。  その尚大は利逸たちによって警察に届けられている。両親には即連絡がいったらしく、利逸が言うには相当揉めているらしい。その両親にも長谷川が集めた証拠によって警察の手が伸びる予定だ。  腹の底が冷える。肩が震える。それに気付いた長谷川が申し訳なさそうにブランケットを肩にかけてくれた。 「ごめんね、体調が戻ってからにしよう。もっとこっちにおいで」  さっきよりも強く抱き締められて深く息を吐く。熱がまだ高いようで、睡魔は驚くほど素早く山岡を包み込んだ。浮上した意識を引きずり戻される。それに逆らうことなく山岡は睡魔を受け入れ、再び意識を閉じた。  次に起きたのは昼過ぎ。夕方には熱も粗方下がっており、滝川が用意した食事をペロリとて平らげた。更に翌朝には熱も下がり、山岡は仕事に行く長谷川を笑顔で見送った。  何度も休みを貰うと言い張る長谷川に、立派な仕事なのだからと見送った。それでも渋る彼に、パイロットとして働いている長谷川が好きだと伝えると、彼は困ったように苦笑して折れてくれた。  ただし、長谷川家を一歩も出ないことが条件だ。泰造とも勝手に外には出ないと約束した。明後日まで日本には戻らない長谷川との言いつけを守り、泰造に囲碁を教えて貰いながら大人しくしている。  ソルーシュもしばらく臨時休業になった。山岡が原因ではない。珍しく志間が体調を崩してしまったからだ。しかも胃腸炎。今のところ苦情の連絡はないが、念のために店に消毒業者を入れて今週丸ごと休むことにしたらしい。電話口で美津根は、どこかで拾い食いでもしたのだろうと言っていた。曽田と美津根は移っていないようで、とても元気だった。 「親父、尚道さん。そろそろお茶の時間になさいませんか?」  優しい紅茶の匂い。山岡は目を輝かせて碁石を握り締める。そんな山岡に目尻を下げて、泰造も頷いた。 「うわぁ、美味しそう! 上に乗ってるのはレモンですか? いい匂い」 「はい。沢山作りましたので、好きなだけお召し上がりください」  甘党の山岡のための生クリームもたっぷり添えられており、山岡は嬉しそうに両手を合わせた。いただきます、と言ってフォークを手に取る。ふわふわで弾力のあるシフォンケーキ。中には刻んだレモンの皮。ほろ苦く、爽やかなレモンの香りが微かに残っている。単体でも美味いが、生クリームをたっぷり付けて食べるとまた格別だ。しかも生クリームの方にもレモン果汁が加えられていて、程よい酸味が最高だった。  大食いの山岡のために、クッキーやレモンゼリーまで用意してくれている。零れんばかりの笑顔で次々と滝川手製のスイーツを頬張る山岡と、そんな山岡を見て満足そうな表情でお茶を啜る泰造。  まるで祖父と孫のような二人を柔らかな笑顔で見守っていた滝川だが、後ろから(ふすま)越しに声がかかり席を立った。しばらくして滝川が少し怖い顔で戻って来る。泰造へ軽く耳打ちすると、泰造の表情が一変した。紅茶を飲んでいた山岡にも分かる表情の動きだった。 「尚道くん。来客があったようでな。少し開けるが、君は食べていなさい」 「は、はい」  笑顔で席を立って部屋を出て行く泰造と滝川。誰だろうと気にはなったが、山岡が口を出すことではない。大人しく一人で出されたものを全て平らげる。  食べ終えても泰造と滝川は中々戻ってこない。暇を持て余して、トイレにでも行こうかと廊下に出て目を瞠った。廊下には黒服が二人、正座したままそこにいた。見知った顔だ。滝川の部下である。年齢は三十代半ば。厳つい風貌だが怖くはない。この屋敷にいる者たちは、誰もが山岡に友好的でとても優しい。 「どちらへ?」  うち一人にそう尋ねられたので、トイレだと答えた。場所は分かっているのでいいと断るのに、二人は滝川の言いつけだからと頑なに引かない。仕方ながないので三人でトイレに行った。 (……なんだ?)  屋敷内で護衛される理由などない。さっきまで自由に一人で屋敷内を行き来していた。それが急に二人も人が付いた。その理由。尚大は警察だ。釈放されたとは聞いていないので、まだ拘束されているはず。今後保釈金が支払われるかも怪しい。それだけ今の山岡家には金がない。尚大の両親も同じだ。裏入学の一件がある。  そうだ。金が要る。あの家には、今。保釈金。示談金。弁護料。その他、諸々の金が。足を止め、山岡は泰造が向かったと思われる応接間に足を向けた。すかさず黒服の二人が壁を作って前を塞ぐ。どこか必死な表情に、だからこそ理解した。 「両親が、来ているんですね?」  ほんのわずかに二人の表情が揺らぐ。殺人事件でもあるまいし警察とてそう早くは動かない。あの二人はまだ捕まっていない。何をしに来た。山岡がここで世話になっていることを知っているのか。であれば訴えを下げてくれと頼みにきたのかもしれない。それともやはり金か。恥を忍んで泰造に金の無心にきた可能性も高い。 (いや……違う)  プライドが天よりも高いあの二人のこと。他人に頭を下げるなど、絶対にあり得ない。では、なんだ。考える。考える。深く、二人の思考を読み取る。一瞬、脳裏に過った祖母の顔。大きく体が傾いた。廊下の壁に手を付き、利き手で口を塞ぐ。一番可能性のある、来訪理由。廊下にへたり込み、両手で顔を覆った。  体に力が入らない。廊下にへたり込んだまま、動けない。  なんてことだ。もし自分の考えが正しいのだとすれば、どこまであの二人は卑しいのだろうか。どうか自分の想像だけで済んで欲しい。祖母のためにも。そう思うのに、指先が震える。あの二人と一つ屋根の下で生活してきたからこそ、分かることがあった。 (おばあ様……)  生前一度だけ、祖母が山岡の前で泣いたことがある。どんな時でも気丈で凛と美しかった祖母が、夕暮れの病室で見せた涙。息子を許してくれと、頭を下げられた。我が子ながら情けない。そう涙しながら山岡に詫びた祖母。山岡はなんと言えばいいのか分からず、オロオロするばかりで上手い返しができなかった。それを今でも悔やんでいる。  実の子である尚大が生まれて、両親は本当に変わった。二人は豹変し、山岡を平気で虐げるようになった。それだけではない。当時は会社も上手くいっており、目に見えて羽振りが良かった。言い換えれば金遣いが荒い。見栄を張るために金を湯水のように使い、実子の尚大にも金を惜しまなかった。  日毎に変わっていく両親を、山岡は隅から見ているだけしかできなかった。環境と金は人を変えると言うが、それを山岡は目の当たりにして育った。しかし金は水物。永遠にそこに留まってくれることはない。  震える指先を丸め、拳を握る。大きく深呼吸をして、心を落ち着けた。いつまでもこんなところで怯えているわけにはいかない。尚大の両親が泰造に用向きなのであれば出る幕がないが、もし山岡がここにいることを知って尋ねてきたのであれば話は別だ。このままでは長谷川家にまで害が及ぶ。これまで何度も迷惑をかけてきた。流石にこれ以上は、迷惑をかけられない。  ゆっくりと立ち上がり、フラつきそうになる体を壁で支えて前に進んだ。 「尚道さん、いけません」 「お部屋に戻りください」  護衛と思しき二人が山岡の前に立ちふさがる。心配そうな二人を静かに見つめ、首を横に振った。 「確かめたいことがあります」  あの二人が泰造に頭を下げ、助けてくれと願い出たのであれば、山岡は黙って引き返そう。だがそうでない場合。泰造が祖母に弱いことを知った上で交渉してくるのであれば、山岡も黙ってはいない。  律子の夫であった男性は病弱な人で、律子がまだ若い頃に亡くなった。腹の中にいた息子に会えず他界したそうだ。女手一つで息子を育て上げて、律子は夫が遺した莫大な遺産を守りながらも第一線から退いた。  看護師であり、実業家であり、母であった彼女。晩年自身の家族のことで表情を曇らせることが多かった。それを一番近くで見ていたのは、他ならぬ山岡だ。一滴の血も繋がっていない山岡だけが、晩年の彼女を支え続けた。そんな山岡を、最愛の孫だと言ってくれた祖母。山岡はそれだけで頑張れた。 「尚道さん、我らが親父に叱られます……。どうか」 「いや、親父よりも若の方が怖い」  え? と山岡が振り返る。長谷川が怖いとはどういうことだろうと首を傾げた。確かに少し荒っぽい部分もあるようだが、怖いなんてことはない。長谷川ほど甘い人物を山岡は知らない。  護衛二人の視線が泳ぐ。石のような沈黙に、山岡は小首を傾げてた。再び前を行く。応接間へ向かう途中、遠くから泰造の怒鳴り声が聞こえてきて思わず足を止めた。応接間の前にはやはり黒服が二人。直立不動で廊下に立っていた。 「帰れッ! 二度と……、二度とうちの敷居を跨ぐことは許さんッ!」  以前電話越しに孫へ浴びせた怒鳴り声とは、比べものにならない。肌がヒリつきそうな怒声に体が竦んだ。怒鳴られることには慣れているはずなのに、だからこそトラウマになっている山岡は青い顔でその場から動けなくなった。すかさず護衛の二人が山岡を部屋に戻そうとする。  なおも怒鳴り続ける泰造に、目の前の襖がゆっくりと開いた。先に出てきたのは滝川だ。彼は山岡の姿を見つけると瞠若したまま、足を止める。すぐに後ろの襖を締めようとしたが、一足遅かった。 「尚道……!」  滝川の後ろから顔を覗かせた男が満面の笑顔で駆けてくる。その顔には見覚えがあった。忘れるわけもない。足が震える。強張ったまま動けずにいる山岡の両肩を掴み、嬉しそうに揺らす中年の男。髪を後ろに撫でつけた髪型も、黒縁の眼鏡も何も変わらない。幾分髪に白いものが増え皺も増えたが、それだけだ。 「やっぱりここにいたのね。探したのよ?」  右隣りから聞こえる猫なで声。嫌悪感に肌が粟立ち、山岡は視線だけをそちらにやる。  細身の女だ。長い髪を一本に結い上げ、解れ毛一つない。完璧な化粧と、キツイ香水。年齢より随分若く見えるが、彼女は五十を越えている。冷たい記憶が一気に蘇り、山岡はどうにか倒れないように足を踏ん張るので精一杯だった。目的は粗方、検討が付いている。だからこそ、気持ちが悪かった。吐き気がした。 「さ、帰りましょう? まったく、親に心配ばかりかけて」 「どれだけ父さんと母さんがお前を探したと思っているんだ」  何を言っているのだろうか。この二人は。心配? あり得ない。そんなものするわけがない。尚大が生まれてからは、ただの一度も。 (触らないで、くれ)  無意識に体が動く。男の手を払い、山岡は体を後ろに逃がした。ほんの一瞬、男の目に浮かぶ憎悪。それには見覚えがあって、むしろ山岡は安心した。そうだ。これだ。これがこの男の目。この男の表情だ。しかしすぐに笑顔でその顔を塗り替え、更に山岡へ迫ってくる。今度は女の方も同時だった。二人を前にして体が勝手に固まる。情けない話だが、怖くて身動きが取れなかった。 「滝川! その二人を抓み出せ!」  泰造の一喝が飛ぶ。弾かれたように滝川と護衛の二人が動き、山岡から二人を引き離した。 「何をするのっ? 尚道を返してちょうだい! 私の息子よっ」 「親子の縁を引き裂いて何が楽しいんですかっ?」  親子。それは昔、一番欲しかった言葉。そして今となってはもう、一番聞きたくはなかった言葉だ。虫のいいことこの上ない。彼らには何も期待しないと決めたのは、いつだっただろう。色んなことを諦めてきたけれど、それだけが最後まで残って山岡を苦しめた。何度も何度も諦めようとしたのに、時折機嫌のいい時に見せる笑顔が嬉しくて。名前を呼んでくれるだけでも嬉しくて。たったそれだけのことに、淡過ぎる期待を消すことができなかった。 (何歳になったと思ってるんだ……。しっかり、しろ)  数年ぶりに見た養い親の顔。山岡が真っ直ぐに二人を見ると、彼らにも人並みの後ろめたさがあるようで、機嫌を取るように山岡へ笑いかけた。 「……お話することはありません。どうぞお引き取りください」 「何を言っているの? やっと会えたのに。こんなところじゃ積もる話もできないわ。さ、実家に」 「おばあ様の絵画なら、美術館に寄贈します」  女の笑顔が固まる。それだけで山岡には十分だった。二人から顔を背け、これ以上は話すことなどないと距離を取る。それに合わせて滝川たちが動いて二人を今度こそ引き離した。血相を変えたのは山岡夫妻だ。 「お前に遺された遺産なんだから私たちに受け取る権利があるだろうッ」 「そうよッ、勝手なことしないで頂戴! あれは山岡家のものなのよッ」  ここにきて本音が出てくる二人に、なんて浅いのだろうと山岡は視線を落とす。絵画が欲しいのなら、もっと狡猾に、もっと忍耐強く山岡を騙すべきだ。こんなにアッサリ手のひらを返しては意味がない。  昔はこうやって怒鳴られるだけで体が竦んだ。怖くて何も言い返せなかった。青ざめ、委縮して、怯える山岡に、彼らは嬉々として怒鳴り続けた。 (懐かしいな……、この感じ)  もっと恐怖するかと思ったのに、周りに泰造たちがいるからだろうか。昔のように怒鳴られても、あまり怖くない。不思議な感じだった。離れてみたからだろうか。年齢を重ねたからか。それとも、一人ではないからか。ここにはいない長谷川やソルーシュのメンバーを始め、今の山岡には心を許せる大切な人たちが沢山いる。泰造や滝川もそうだ。皆、驚くほど山岡に親切で泣けてくるほど温かい。尚大に感じていた圧倒的な恐怖心とは違う、両親への恐れ。会ってみて、それがさほど心を抉らない事実に目を細めた。  穏やかな表情で二人を見る。彼らは山岡の表情に眉根を寄せ、逆に気圧されたように言葉を失った。 「ここで絵を貴方たちに渡してしまえば、貴方たちは味を占める。俺にはなんの力もないし金もないけれど、長谷川家は違う。俺をダシにして隼人さんや泰造さんに金を無心するかもしれない。俺はそれが許せない。だから絵は貴方たちに譲らず、寄贈することにします」  長谷川や泰造は優しい。今ここで山岡が二人に優しさを見せれば、山岡のために両親の要求を呑むようになるかもしれない。長谷川はまだしも、泰造は基本的に山岡の名に弱い。しかも相手はあの律子の息子だ。  律子から是非にと頼まれた山岡自身が許せば、絆されてまた金を渡すかもしれない。山岡は長谷川家のためにも、ここで二人に甘い顔をするわけにはいかなかった。誰かのためなら、こんなにも強くなれる。こういう一面もあったのだなと、山岡は一歩を前に出た。 「どうぞ、お引き取りください。二度と長谷川家の敷居は跨れませんよう」  丁寧に一礼して二人を見送る。それを合図に滝川たちが二人を強引に連れて行き、ハッと我に返った二人が叫びながら山岡を罵り続けた。しかも男の方は柱にしがみ付き、往生際悪く山岡へ恩知らずめと怒鳴ってくる。  不思議だった。とても。嫌味でもなんでもなく、ただただ素直に不思議で目を瞬く。だから傍に近づいて尋ねた。教えて欲しかった。 「恩って……なんの、恩ですか?」 「貴様っ、育ててやったのは誰だと思っている!」 「俺を育ててくださったのは、おばあ様です」 「……っ」 「貴方たちが与えてくださらなかった衣食住、全ておばあ様が整えてくださいました。食事も、着るものも、割り与えてもらった部屋も、全部です。おばあ様が屋敷を空ける時は食事は出ませんでしたね。風呂も入れなかった。俺の命を繋いでいたのは、学校の給食です。高校に入ってそれもなくなって、おばあ様が入院後には残飯を与えられた。中には腐ったものもありました。覚えていらっしゃいますか? 夏も冬も、俺が公園に体を洗いに行っているのを見て、貴方たちは笑っていたんですよ。おばあ様が心配して戻られてからは人並みに食事も風呂も入れましたけど、また病院に戻った時はどうなりました? どうか俺に教えてください。恩って、なんの恩ですか?」  山岡の淡々とした問いかけに、男は返す言葉がないのか顔を顰めたまま黙っている。しかし金が手に入らないことが余程悔しいのだろう。地団駄を踏んで、全ては律子がいい顔をしただけの策略だったのだと、支離滅裂なことを言い始めた。呆れて言葉もない。それが事実かどうかは山岡が一番分かっている。もし、万が一にでも彼の言うことが本当でも、山岡を助けてくれたのは律子だ。それが全てである。 「滝川っ、早く連れて行け……っ。顔を見ているだけで虫唾が走る!」  泰造の一喝で滝川たちが山岡夫妻をその場から連れ去り、山岡はもらえなかった答えに短く息を吐いた。そもそも彼が答えられるような回答があるわけもない。 「大丈夫か?」  ぽん、と肩を叩いて心配そうにこちらを見てくる泰造へ、山岡は微苦笑を浮かべて案外大丈夫だと答えた。 「あやつらを屋敷に上げたのには、理由があってな。少し、いいだろうか?」 「はい、もちろんです」  泰造に促されるまま、別の応接間に連れて行かれてソファに腰掛ける。住み込みの男衆の一人がフリルのエプロン姿で紅茶とアップルパイを運んで来てくれ、山岡は温かい紅茶にホッとした。礼を言うとフリルエプロンの男は笑顔で去って行く。  この屋敷にいる男性たちは最年長の滝川で四十代。ほとんどは二十代の若者たちだ。十代の少年も少なくない。詳しくは聞いていないが、彼らのほとんどは肉親との縁がないらしい。長谷川たちをとても慕っており、特に泰造を本当の祖父や父親のように思っている。  初めては強面の彼らが怖かった山岡だが、人となりを知れば完全に自分の思い込みだった。滝川の影響もあって料理が美味い若い衆が多く、山岡がよく食べるためテーブルの上はいつも沢山の料理で埋め尽くされている。それが嬉しくて、山岡は毎食ニコニコと綺麗に平らげていた。  自分のためだけに料理を作ってくれたのは、まだ祖母が元気でよく台所に立っていた頃。祖母は料理があまり得意ではなかったが、山岡のために手料理を振舞ってくれた。その中でも一番よく作ってくれたのが親子丼だ。卵はカチカチ。玉ねぎは焦げまくり、鶏肉は何故かミンチだった。であるから、曽田が賄いで親子丼を出して貰った時は本当に驚いたものだ。  だけど、今でも祖母の親子丼は山岡にとって最高の親子丼である。 「君は……、律子お嬢さんの墓が今どこにあるのか知っておるかい?」  墓。祖母、律子の墓。山岡の顔色が変わる。尋ねている言葉の意味が分からない。祖母の墓は、郊外の霊園に今もあるのではないのか。尚大たちに見つかるのが恐ろしくて墓参りには行けなかったが、山岡は祖母の写真を飾って月命日には必ずお供えものをしている。いつか必ず祖母の墓前に手を合わせると決めて家を出た。 「律子お嬢さんの墓は、山岡夫妻がどこかに移してしまったんだ。檀家を抜けて、今やどこにあるのか……」  知らなかった。尚大が山岡を見つけるまでは絶縁状態であったわけで、こればかりは無理もない。 「墓じまいされた可能性もあるんですね?」 「……ああ」  墓じまいされた遺骨は散骨されたり、永大供養墓へ送られたりするケースが多い。その場合、律子が大切にしていた山岡家の墓は消えたことになり、山岡や泰造の拠り所は潰える。  カップを置き、泰造を見た。きつく眉根を寄せて険しい表情を浮かべている泰造。彼が山岡夫妻に激昂していた理由は、なんとなく予想がつく。だからこそ、山岡は彼に苦々しい笑みを浮かべて静かに告げた。  「……おばあ様を散骨した可能性は、かなり低いと思います」 「っ、な、何故だ?」  弾かれたように顔を上げ、一番恐れている事態が低いと言われ前のめりになる。山岡は真っ直ぐに泰造を見つめ、あの二人の性格をよく知るからこそ冷静に告げた。 「お金を巻き上げるネタがなくなるからです。おばあ様は最後の切り札。それをあの二人が手放すはずはありません。必ずどこかにお墓はあります。今日も、そのことをチラつかされたのではないですか?」  律子のことになると思考が完全に停止するようで、そういえばそうだと泰造が肩の力を抜いた。安堵の表情を浮かべ、胸を撫で下ろす。 「だが、隼人や利逸からくれぐれも山岡家に金は出すなと言われておってな。律子お嬢さんを悲しませるだけだと……。だから今回は、金は出さんと断った。そうしたら、君を引き取ると言い始めて」  金が出せない泰造には用はない。金になりそうな山岡を手に入れ、絵画を売却した金で保釈金を用意する算段だったのだろう。しかし絵画が売るにしても、まずはその準備から始めなければならない。すぐに売れたのだとしても、資金が手元に入ってくるまでは相当時間がかかる。あれだけの価値があれば、世界中の有名美術館が黙っていないはずだ。美術館同士の牽制や駆け引きも想像に容易い。夫妻は簡単に考えているのかもしれないが、名画故にそれを金に換えるのはとても大変なことなのだ。 「それに俺は、おばあ様の御遺骨がどこにあろうと関係ないと思っています」  残された者にとって、故人の墓は確かに心の拠り所だ。それを否定するつもりはないし、できることなら山岡もちゃんとした形で残っていて欲しいと思っている。  だが所詮、山岡は血の繋がりがない他人。血も繋がらず、戸籍も分かれ、家族の情も存在しない。律子が繋いでいた細い糸は彼女が他界したことで完全に切れた。山岡は自分を山岡家の一員だとは思っていない。であるのなら、山岡があの家の問題に口出しをすること自体が間違っている。逃げたのは山岡だ。そこに一切後悔はしていないけれど、縁を断ち切ったことで置いてきたものも皆無とはいかない。 「綺麗事を言うわけではありませんが、おばあ様は俺の中で生きています。あの二人におばあ様のお墓を悪用されるくらいなら、俺はおばあ様の写真を前に手を合わせ続けます」 「……尚道くん」 「……おばあ様は生前、山岡家の行く末をとても案じていらっしゃいました。でも俺は、内心潰れてしまえと思ってました。あんな奴ら、全員地獄に落ちろ……って」  祖母のことは大好きだったが、祖母以外のことは血も涙もない悪魔だと信じていた。この世で一番怖いのは人間だと教えてくれたのは、彼らだからだ。  泰造は自嘲の笑みを浮かべる山岡に、そっとカップを手に取ってお茶を一口含んだ。小さく頷きながら自分も同じだったと白状する。 「儂とて同じだ。律子お嬢さんの息子に騙されたと分かった時は、正直信じられなかった。どこかで妄信しておったんだろう。律子お嬢さんの子供が、他人を騙すわけないとな。しかし律子お嬢さんと彼は違う。別の人間だ。それを教えられたよ。……そうだなぁ。確かに、君の言う通りだ」  墓はどこにあってもいい。万が一散骨されていても、心の中に律子はある。墓は故人との思い出の拠り所。代々の縁に感謝する場所。それを悪用することは、故人も良しとしないはず。探すことを諦めるわけではないが、利用されることはあってはならない。 「俺は聖人じゃありません。美術品を渡さないのは、少しくらいあの人たちに俺の気持ちを分かって欲しかったからです。仕返しなんですよ、結局」 「それで何が悪い。因果応報だ。それだけのことを奴らはしてきた。あの二人が君に優しくしておれば、こうはならんかっただろう。儂が金を出さんかったのも、奴らのこれまでの態度が故。自業自得だ」  顔を見合わせ、力なく笑い合う。互いに律子が恋しいけれど、彼女はもうこの世にいない。墓に縋って右往左往していては、彼女に怒られてしまう。 「さて、この話は終いにしよう。今日はうちの嫁さんの月命日だからな。あんまり辛気臭いと叱られてしまう」 「あ、そうなんですね?」 「懐かしいものだ。アイツとは律子お嬢さんを取り合った仲でねぇ。律子お嬢さんが山岡さんと結婚した時は、二人で泣きながら酒を飲んだもんだ」 「取り合った……?」 「そう。アイツは今でいうところのLGBTというやつだな。アイツも儂に負けんくらい本気で律子お嬢さんに惚れていたもんだ。周りがうるさいからと儂に籍だけ入れろと恫喝しおって、花札で決闘して負けた儂は条件を呑んだ。死ぬ間際でさえ酒瓶を枕元に置いていた酒豪だったよ」 「えっ、じゃ、じゃあ……隼人さんのお父さんたちは?」  長谷川には息子が二人いた。長谷川の父と、弟の利逸だ。てっきり泰造の息子たちだと思っていたのだが、違うのだろうか。  驚きを隠せず山岡が泰造を見ていると、彼は豪快に笑いながら自分の息子だと頷いた。 「あれはどっちもイケた口でな。長年一緒におれば情も絆も結ばれる。互いに悪友みたいなもんだったが、息子たちが生まれてからはちゃんと夫婦をしていたよ。世間の基準からはかなりかけ離れていたが、儂らにとっては最高の形だった」  泰造の表情を見ていれば、彼女のことをどれだけ大切にしていたのかが分かる。律子とはまた違う形で、しっかりと結ばれていた相手なのだろう。 「死に際、律子お嬢さんも駆けつけてくれてね。最期は朦朧としていたが律子お嬢さんのことは分かったみたいでな。儂の手を振り払って律子お嬢さんの手を握りおったんだ。あの馬鹿嫁は」 「そ、それは……また、なんというか」 「まっ、儂でも同じことをするがな! アハハハハ!」  再び豪快に笑う泰造に、山岡も微苦笑を浮かべる。彼が長谷川と山岡のことを、こうもすんなり受け入れた理由が分かった気がした。妻のことがあったから、孫のことも受け入れられたのか。だとしても、泰造の懐の深さには恐れ入る。  凄い話を聞いてしまった。世の中には色んな夫婦がいるのだと勉強になる。 「このアップルパイはあれの大好物でな。甘いものは好まんかったが、これだけは自分で焼くくらい大好きだったんだ。自分の命日は必ずレシピ通りにアップルパイを焼いて供えろと言われたよ」  アップルパイを一口口に入れて、泰造が少し悲しそうに微笑んだ。遺されたレシピでアップルパイを焼き、毎月彼女の月命日にお供えしている泰造。もちろん大好きな酒と一緒だ。 「凄く、美味しいですね」  山岡もアップルパイを頬張り、笑顔で告げる。その言葉に泰造は嬉しそうに頷き返し、もう一口口に運んだ。  尋ねなくても分かる。きっと、なんだかんだと仲のいい夫婦だったのだろう。愛する二人に先立たれた悲しみは計り知れない。しかも彼は実の息子まで若くして亡くしている。どれだけ辛かったことか。  心から強い人だと尊敬する。懐が深い。滝川や住み込みの男衆が、彼を慕うのも理解できた。  そこへ滝川が戻って来る。彼は泰造へ山岡夫妻が帰ったことを告げ、念のため人を付けていると告げた。 「人を……? 大丈夫でしょうか? 尾行に気付いたら、あの二人」 「問題ない。今なら警察の線も勘繰る。そもそもこれから逮捕されようかという人間が警察には連絡せんだろう。もし通報されたところで、言い訳は五万とある」  余裕の表情で笑う泰造に、山岡の視線が素直に泳ぐ。 (尾行し慣れてるな、これは)  いや。彼の場合、させ慣れている、か。  今のは聞かなかったことにして、山岡は残りのアップルパイを全て平らげた。甘酸っぱい林檎の優しい味わい。食べているだけで幸せになれる一品だ。こんな美味しいものを作れる泰造のお嫁さん。一体どんな人だったのだろうかと気になった。  写真はないのかと尋ねれば、嬉しそうにあると言って泰造は応接間を出て行った。アルバムを持ってきてくれるようだ。 「……尚道さん。少し、お話が」  滝川の真剣な表情を見て、山岡の表情から柔らかさが消える。今度は一体何かと、顔を強張らせた。胃の痛くなる思いで滝川に向き直る。 「この一件が無事に落着したら、お願いがあります」 「お願い、ですか?」 「はい。私だけでなく、この屋敷に住まう全員の願いでもあります」  そう言うと滝川が部屋の外に向かって呼びかけた。待っていたかのように、住み込みの男衆がゾロゾロと中へ入って来る。ざっと数えただけでも二十人近い。これは余程のこと。大事だ。泰造には秘密の頼みなのだろう。山岡が一人になるタイミングを見計らっていた様子だった。 「……なんでしょうか」  尋ねる声は、無様にも震えていた。まさか、長谷川と別れてくれとでも言う気か。彼は長男の一人息子。思うところがあるのかもしれない。山岡では逆立ちしても子供は産めないからだ。  律子の縁で泰造は山岡を受け入れてくれているものの、周囲が同じ気持ちだとは限らない。  長谷川家の今後のことを考えて長男である長谷川に嫁を、と考えているのであれば山岡は完全に邪魔である。そこまで男系の血を残したいものなのかは不明だが、この滝川の真剣な表情。相当な覚悟と決意が見て取れた。  酷く言い難そうに、滝川が一呼吸置く。益々山岡の心臓が跳ね、嫌な音を立てて脈を打った。  意を決した様子で滝川が口を開く。山岡は震える手を膝の上で握り締め、そっと息を呑んだ。 「親父のために、どうか……頼みます」  滝川の声も震えている。かなり言いにくいようだ。彼ほどの男がここまで言い淀むこと。やはり、別れろと。そう言うのか。視線を落とす。唇を噛み、震える拳を更に固く握り締めた。 「どうかっ、この通りですッ! 若と、披露宴を上げてやってくださいッ!」 「やってください!」 「お願いします!」 「是非ッ若と!」 「このとーりですッッ」  額を床に擦りつけて頼み込む滝川たち。彼らを呆然と見つめ、山岡は素直な声が腹の底から出てしまう。 「………………ハイ?」  それは力の抜けた、少々間抜けな声だった。
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