長谷川×山岡編

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「やぁ、久しぶりだね」  爽やかな笑顔で透明なアクリル板の向こうを見遣り、長谷川はそう口にした。高校時代、誰もが羨む好青年だった頃の面影はどこにもない。まだ捕まって数日であるのに、もう何年も刑務所の中で刑に服してる服役囚のようだ。しかもここは、まだ刑務所でもない。  保釈申請が通らない苛立ち。それがピークに達しているのだろう。無理もない、長谷川家が手を回している。そう簡単に出してはやれない。何より、山岡家にはこの男の保釈金を支払う金がない。自分たちが捕まる可能性が高い中、息子に用立てる金などあるわけもなかった。今頃は必死に金をかき集めていることだろう。  保釈金がなくとも出ることは可能だが、その手続きを両親が取っていないことは彼の表情から見ても分かった。憐れなことだ。両親から捨てられ、その事実をこんなところで噛み締めなければならないのだから。プライドの高い尚大にしてみれば、どんでもない屈辱だろう。  叔父の伝手は伊達ではない。また、長谷川グループの金も伊達ではない。この世は欲まみれ。だからこそ世界は廻る。山岡家の会社には長谷川グループの手が伸びた。これまでどうにか潰れずにいたが、今回の騒動で株主たちも黙ってはいない。彼は決して馬鹿ではないからだ。  会社は長谷川グループが買収する手筈となっている。先に送り込んでおいた人間が今頃嬉々として動いていることだろう。叔父も悪い顔をしながらウキウキしていたので、全て上手くいっているようだ。  だがまだ終わらない。終わらせない。誰がどう許そうとも、長谷川自身が許さない。山岡を長年虐待してきた事実。その罪をさほどとも思っていない連中には、それ相応の裁きを与えなければ。会社が買収され、警察に捕まる程度では生温い。  ニコニコとお得意の柔和な笑みを浮かべて、長谷川は座ろうともしない尚大へ穏やかな口調で続けた。 「可哀想に。たかが百五十万ぽっちも、支払って貰えていないのかい?」 「……、っ……」 「目を覚ませ。君はあの二人が贅沢をするために教育されてきただけだ。いつまでも彼らの手のひらで転がされているんじゃない」 「……うるさい」 「辛かったろう? 本当なら君はこんなことをする子じゃないのに」 「なんだよ、今更。気持ち悪い」  落ち窪んだ目がギョロリと長谷川を睨む。食事はちゃんと出ているだろうに、あえて摂っていないのが痩せこけた頬からも分かった。 「まぁ、座らないか? 君にとっても悪い話じゃない」  笑顔で着席を進めると、逡巡ののち今度は大人しく席に着く。だが長谷川を見ようともしない。目の前にいる男は、唯一の心の拠り所だった兄を奪った相手。歪んだ愛情だったとはいえ、彼にとって山岡はそういう存在だった。警官の目があるため暴れることはしないが、可能なら殴りかかりたいことだろう。 「君はいい加減、両親から解放されるべきだ。このままずっと搾取されて生きていくつもりか?」 「何……?」 「だって、そうだろう? 君の両親もじきに裏入学と賄賂の件で警察の厄介になる。ああ、でも心配しなくていい。彼らの保釈金はウチが用立てることになったから。彼らはすぐに出られるよ」 「なんだと……? 嘘つくな」 「嘘じゃない。素晴らしいご両親じゃないか。息子の保釈金は払わないのに、自分たちが助かるためには方々へ頭を下げて回るんだ」 「嘘だッ」  立ち上がるや否やアクリル板を殴打し、すぐに警官から取り押さえられる。暴れる尚大に向けて、長谷川はその落ち窪んだ目を見つめたまま台詞を刻んだ。 「だから言っただろう? 解放されるべきだと。自由になれ、尚大」 「うるさいッ!」 「その金を、僕が払ってやる」  強引に面会の部屋から出されかけた尚大だったが、長谷川の言葉に動きを止める。大きく目を見開き、信じられないものを見るような表情で凝視してきた。 「もう一度言うぞ。両親から自分を解放するんだ。自分自身を、助けろ」 「なんで、急に……そんなこと言うんだ」 「決まってるだろう? 尚のためだ」  尚、と聞いて尚大の表情が変わる。分かりやすく明るくなった。それを見て長谷川は目細め、真っ直ぐに尚大の黒眼を見据えて繰り返す。自由になれ。解放されるべきだ。繰り返し。繰り返し。まるで呪文のよう。  そして最後に、トントン、と指でこめかみを軽くタッチする。それで終いだ。他に続く言葉は何もない。ゆっくりと席をたち、尚大へ背を向けた。 (尚のため。そう……全部、あの子のためだ)  尚大は知らない。彼が未だ悪夢に見ていることを。夜中に起きて震えていることを。朝起きて何事もなかったように振舞ってはいるが、周囲が気付くほど顔色が悪いことを。やった当人には分からない。あの子の苦しみは。心の傷は、そう簡単には癒えない。おそらく一生付き合っている傷となるだろう。  今はまだ尚大が捕まっているからいい。だが彼が釈放されたら、どれだけ強気なことを言っていても内心は怖くてたまらないはずだ。それだけのことをされてきた。PTSDに男も女もない。  尚大が何を勘違いしたのかは知らないが、長谷川はあの愚かな弟を決して許すつもりはなかった。 「お疲れ様です。尚道さんが仕事を終え、ソルーシュを出たと電話がありました。護衛とともに若のマンションへ戻っていらっしゃいます」  駐車場で待っていた滝川に一つ頷き、彼が開いた後部座席に乗り込む。座席に置いていたタブレット端末のスイッチを入れ、叔父から届いていたメールに目を通した。添付されていた書類に目を通しながら、運転席の滝川へ口を開く。 「山岡夫妻の方はどうなった」 「はい。やはり金は集まらないようで、例の裏金に手を出すようです」 「抜かるなよ」 「お任せください」  叔父の報告では、当初の予定よりも早く会社買収に手が打てそうだ。流石に仕事が早い。明日には買収の情報が世間に出回る。こちらの報告を叔父に送信して、長谷川は滝川に金を用意しておくように伝えた。 「準備は出来ているな?」 「そちらも抜かりなく。親父も本当に嬉しそうで、これでもかと目尻が下がりっぱなしですよ」  今夜、山岡は都内を出る。ソルーシュを休めないと渋る山岡を説得するため、例の三人にも協力を仰いだ。これから起こることで、マスコミが山岡自身へ興味を示すだろう。山岡が虐待されていたのは世間がそれとなく周知していたこと。会社倒産、買収の記事とともに面白おかしく書き立てるに違いない。抑え込むことは可能だが完璧にとはいかない。昔はメインのメディアを封じておけばそれで済んだが、SNSの普及した現代ではそうもいかなくなった。  マスコミ関係者だけでなく、正義感きどりの野次馬や動画配信者が店に押しかける危険性がある。他人の不幸はなんとやら。親切心と同情心を盾に話しを聞きたがる馬鹿や、金儲けのために動画を回したがる馬鹿に山岡を傷つけさせるわけにはいかない。  そんなことはソルーシュの親衛隊が許さないだろうとはいえ、彼女たちも絶対ではない。ほとんどがそっとしておくべきと考える良識ある人間たちばかりだろうに、一部の馬鹿が行動を起こす可能性があるせいで今回のことを決断せねばならなかった。  山岡と離れるのは辛いが、仕方がない。長谷川は舌を打ち、静かにタブレットを閉じた。 「ひゃっほーい! 見て見て! スゲー! ウハハハハハ!」 「馨! 勝手に飛び出すな!」  勢いよく船から下り、白い砂浜へ飛び出して行った志間。そんな彼を呆れたように叱責するのは美津根だ。その隣で欠伸を噛み殺す曽田が、眠たそうに後ろを振り返り口を開いた。 「船酔い大丈夫かぁ? ほら、荷物貸せ」 「す、すみません……。う、っぷ」  荷物を曽田へ差し出して、フラフラしながら桟橋を渡る山岡。そんな彼の背中をさすりながら、心配そうに歩くのはこの島自体を所有している泰造だった。 「大丈夫かね? こんなことならプロペラ機にすれば良かったなぁ……。申し訳ない、つい嬉しくて購入してしまってねぇ」  嬉しいからといって購入するような品ではないが、それを言ったところで今更だ。文字通り沖縄にある小さな島へバカンスにやってきたソルーシュのメンバーと泰造。先に滝川と数人が先着しており、あらゆる準備を整えてくれていた。  白い砂浜。巨大なヤシの木。雲一つない青い空。そよぐ風はひたすらに優しく、穏やかで生温い。湿気がない分、とても心地良かった。ここは無人島。バブル期に泰造が購入した物件で、時々会社の社員旅行で使用する程度だったらしい。島には複数のコテージが建ち並び、それぞれ専用のプールが付いている。奥の広場にはイベント用の会場やステージまであった。今回はコテージではなく、中央にある泰造の別荘を使用する。料理は曽田を中心に皆で準備することになっていた。 「いやぁ、うちの社員旅行にこんな素敵な島を提供してくださり感謝感謝です。ありがとうございます~!」 「何、構わんとも。儂もご一緒させてもらって、逆にありがたいくらいだ」  表向き、今回の旅行はソルーシュの社員旅行。これまで一度も社員旅行なんて行ったことはなかったのに、暗い雰囲気を一掃するためにと志間が発案した。だったらと、そこに乗っかったのが泰造だ。ぜひ自分の島に来てくれと志間へ打診し、あれよあれよと日程が組まれていった。ガッチリと握手する二人を前にした時は、心底困惑したものだ。  いつもなら止める美津根や曽田も、泰造の申し出に断りを入れることもなく乗り気で、翌日には店頭に臨時休業の張り紙が出された。とにかく行動が早くて、山岡は一人で戸惑ったものだ。  それもそのはず。この旅行は全て事前に仕込まれていたこと。志間たちは長谷川から全て聞かされた上で承諾したに過ぎない。費用は全て長谷川持ち。山岡のことを心配していた三人も、彼のためになるのならばと快諾した。もちろん人混みが苦手な美津根のことも考慮し、不特定多数の人間が立ち入ることのない個人所有の島をチョイスしてある。本当のことを話して移動させたのであれば、必ず山岡は気落ちするだろうから全て秘密裏に。この旅行は社員旅行にして、志間たちに一役買ってもらっていた。 「さぁ、釣るぞ! 泳ぐぞ! 遊ぶぞ~~~~~~!」  理由はどうあれ、目を輝かせて楽しむ気全開の志間。だからこそ山岡の表情も明るく、旅行になど来たことがなかった彼はとても嬉しそうだった。そんな山岡に、泰造の表情も柔らかい。 「俺もシュノーケリング、楽しみだったんだよな~。一休みしたら、さっそく泳ぐか。お前らはどうするんだ?」 「俺は少し島内を散策したいから、散歩に出るつもり。山岡は?」 「俺はちょっと寝ます……。眠い」  人生初の飛行機に乗り、船に揺られ、体力も限界。横になりたい。仕事のため来られなかった長谷川にもメールを送りたかった。島は利逸がネット環境を完璧に整えており、何も不自由がない。ジムやビリヤード場、シアタールームまであるというから驚きだ。 「皆さんも、長旅お疲れ様でした。お部屋の準備は整っておりますので、鍵をお受け取りください」  別荘にあるメインホール。出迎えに現れた滝川に、山岡たちは笑顔で挨拶をする。空港に出迎えに来ていた部下は船を操縦してくれた人物で、鍵を滝川に返したあと他の部下たちと合流していた。荷物は先に輸送していたこともあり、全員基本的に手荷物だけだ。  一通りの説明を受けた後、それぞれが指定された部屋に入る。一つ一つの部屋がかなりの広さだ。室内にシャワー室とトイレがあり、バルコニーに向こうには巨大な屋外プールが見えた。  山岡も自分の部屋に入り、一息つく。荷解きをする余裕もなくベッドに伏した。天井で優雅に回るシーリングファン。開放的な南国風の室内に入って来る、優しい風。シャワーを浴びたいが、少し眠りたい。  充電器を用意して、携帯電話を充電する。とりあえずは、これでいい。夕方まで眠ろう。シャワーも起きてからでいい。長谷川にメールを送りたいが、今はとにかく眠かった。  柔らかなシーツの上。ウトウトし始めた山岡に届く、プールではしゃぐ楽しそうな志間と曽田の笑い声。それを子守歌に、山岡は一先ずの安眠に身を委ねた。
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