長谷川×山岡編

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 キリキリ。キリキリ。胃が痛い。ズキズキ。ズキズキ。胸が痛い。苦しいとも。辛いとも。ましてや、助けてなど言えるわけがなく。薄い布団に丸まって。早く朝が来いと。早く学校へ行かせてくれと。唇を噛んで祈っていた。寝付きたくても寝付くことはできず、気の遠くなるような時間だけがただ過ぎてゆく。  外は雪。明日は積もるだろうか。冬は苦手だ。部屋には暖を取るものがなくて、常に手足は冷たい。祖母がいた頃はまだ古いストーブを入れてもらえたが、入院したその日にこの部屋には何もなくなった。それを祖母に言えるわけもなく。笑って大丈夫だと嘯く毎日。彼らは、彼女にとって血の繋がった家族。けれど自分は違う。弟が生まれた時点で、要らなくなった。  誰も目を合わせない。誰も話しかけてくれない。誰も名前を呼ばない。嘆いたところで虚しいだけ。いっそ明日の朝、息が止まっていないだろうか。そんな希望を抱いて睡魔をかき集める。  冬は痛い。冬は嫌い。冬は辛い。冬は、怖い――。 「大丈夫。もう怖くないよ」  誰かが目元に触れる感触。山岡は濡れた睫毛を震わせて、眉間の皺を開いた。  なんだろう。ひどく重くて、鉛のようだった体が急に軽くなる。それにとても温かい。いい匂いもする。柔らかくはないが安心する心地良さだ。それがすぐそこにあった。 「よく頑張ったね」  尚、と。優しい呼び声。こんな風に自分の名を呼ぶ優しい人が、祖母以外にいただろうか。それは誰だったかと考えるが、上手く思い出せない。ゆっくりと浮上する意識。顔に触れる温かなもの。撫でられる髪の感触。穏やかに意識が覚醒する。目の前に映る温かい壁。何度か目を瞬き、これはなんだろうと身を捩った。 「起きた?」  もぞ、と声のした方を見上げてみる。すぐそこに明るい栗色の瞳。目が合うと優しく細まった。そっと近づいてくる。長い睫毛だな、とボンヤリそんなことを考えていると、鼻先が触れ合った。 「寝ぼけてるね。可愛い」 「……?」 「ご飯作ったけど、食べられそう?」 「ご、はん……」  口にした途端、腹が鳴る。可笑しそうに破顔する綺麗な顔。  なんだか嫌な夢を見ていた気もするが、気分は悪くない。かなり久しぶりの感覚だ。有難いことに頭も痛くなかった。いや。それよりも。まだ夢を見ているのだろうか。何故、目の前に長谷川の顔があるのだろう。そもそも隣で一緒に眠っている時点で、現実ではない……はずだ。 「尚? なーお」 「……ぅ」 「う?」 「ぉあああああああぁぁーっ」  寝起きとは思えぬ絶叫で飛び起き、山岡は勢い余ってベッドから転がり落ちる。ゴチン、と鈍い音と痛みが走ったが、お陰で完全に目が覚めた。周囲を見回し、常夜灯の薄い明かりの室内に瞠若する。紛れもなく、ここは寝室。全体的に和モダンのテイストで統一された上品な空間だ。  クイーンサイズのベッドは低床タイプ。両脇にはインテリア雑誌でしか見たことがないような証明が、優しく灯っていた。余計なものは一切ない。ベッドと照明のみ。窓には大きな遮光カーテン。いい匂いの正体は、ヘッドボードに置かれた加湿器のようだ。  ギ、とスプリングを軋ませて長谷川がベッドから下りる。手を差し出されるが無視して立ち上がった。苦笑する長谷川から距離を取り、改めて自分が寝ていたのだと理解する。本当にあり得ない。どうしてしまったのだろう。車に乗り込んで気を張っていた数十分間の記憶しかない。まさか、あの後すぐに眠ってしまったのか。 (嘘だろ……。あんなに眠れなかったのに) 「尚、ご飯食べようか? 前に志間くんから炊き込みご飯が好きだって聞いたから、作ってみたんだ」 (そうだよ、炊き込みが好きで……。え?)  炊き込みご飯? と山岡が長谷川を見る。彼は寝室の扉を開いて、明るい廊下に山岡を手招いた。このまま寝室に閉じこもっているわけにもいかず、山岡は素直に部屋を出る。正直、腹も空いていた。  志間たちに拾われるまで食欲とは縁遠い生活を送っていた山岡だが、志間の作る料理と美津根の美味しい珈琲に出会って食べる喜びを教えてもらった。その後、曽田がソルーシュに加わったことで海外の家庭料理などの味のバリエーションも増え、食事自体が楽しいものだと知る。  味の好みも出てきた。香味の強いものは苦手。辛いものも苦手。味の濃いものも好まない。好きなものは和食で、中でも炊き込みご飯が大好物。  あの家では食べる行為が苦痛だったため分からなかったが、山岡はかなりの大食いである。燃費は悪くないので食べなければ食べないで大丈夫なのだが、食べていいと分かるととにかく食べる。テレビに出てもいいレベルだった。志間にはネットで自分のチャンネルを持てと言われているくらいだ。 「はい、たくさん食べてね」  ダイニングテーブルに座らせられた途端、あれよあれよと埋まるテーブルの上。手伝うことも忘れて、山岡は運ばれてくる料理に魅入っていた。  大振りのアジフライ。黄金色の美しいだし巻き卵。手前にあるのは茶碗蒸し。香り良いすまし汁に、茄子の煮びたし。極めつけば、土鍋で炊かれた鯛の炊き込みご飯。思わず涎が出て来て、慌てて口元を拭う。  ダイニングの時計は午後七時丁度。約二時間ほど眠っていたことになる。だとしても、材料のこともあっただろうに本当に彼が作ったのだろうか。 「これ、全部長谷川さんが?」 「うん。好きなんだ、料理」  差し出された、茶碗大盛りの炊き込みご飯。呆然としながらも礼を言って受け取り、美味そうな匂いに喉が鳴った。つい目が箸を探してしまう。手元で発見した途端、豪快に腹が鳴った。恥ずかし過ぎる。穴があったら入りたい。 「尚のために作ったから、たくさん食べてね」 「……ありがとう、ございます」  耳まで真っ赤にしながらも、山岡は食欲に負けて両手を合わせた。箸を取る。熱いうちに汁物に口を付け、目を見開いた。 「美味しい!」  三つ葉と卵とじのそれは、お世辞を抜きにして本当に美味しかった。山岡は賄いで生きているようなものなので、料理がほとんど出来ない。賄いは曽田と志間が交代で作ってくれており、作る出番もなかった。一度、部屋でチャーハンを作ってみたがベトベドして美味しくなかったのを覚えている。 「良かった。嬉しいな」  嬉しそうにはにかむ長谷川に一瞬見惚れ、箸を落としそうになった。慌てて料理に視線を戻すが、なんだろう妙に気恥ずかしい。  汁物を置いて念願の炊き込みご飯を口に入れる。こちらもビックリするくらいに美味しかった。濃過ぎず、薄過ぎず、絶妙の塩加減。ほんのりと香る出汁。白い鯛の身が輝くようで、行儀が悪いと分かっていても頬張らずにはいられない。  刻み生姜がアクセントになった煮びたしも、また最高だった。取り分けられた分を一気に平らげ、茶碗蒸しとだし巻きにも手を伸ばす。何より山岡が感動したのは、サクサクのアジフライだ。炊き込みご飯とまた合う。鯛とアジが喧嘩することなく共存し、舌の上でこれ以上ないほど美味しく解れてくれた。 「お代わり、どうかな」 「頂きます」  土鍋に残る米を全て食らう勢いで再び山盛りにされ、目が輝いた。すまし汁もお代わりがあると言われ、遠慮なく頂戴する。 「尚はバーテンダーだから、お酒大丈夫だよね?」 「あ。俺、食事中は飲まないんです。長谷川さんはご自由にどうぞ」  熱燗をトレイに乗せて戻って来た長谷川に、山岡が茶碗蒸しを平らげながらそう告げた。 「長谷川さんって、小食なんですか?」 「いや、食べるよ。今日は機内食を食べてきたから」  なるほど、と頷いてだし巻き卵の皿を空にする。次から次へと皿の上のものを口に放り、美味そうに完食する山岡。そんな山岡を優しい顔で見守りながら、長谷川が徳利を傾ける。そんな穏やかで静かな空間が、不思議と居心地良い。 (……絵になるな)  徳利傾けるだけで絵になるのだから、世の中はとことん不公平だ。長谷川ほど美形になりたいとは言わないが、身長はもっと伸びて欲しかった。美津根がまだ伸びると言ってくれたので、思春期に食べられなかった分を今食べて最後の悪足掻きに勤しんでいる。  ――ピンポーン。  穏やかな時間が流れる食卓。そこへリビングの方から、来訪を告げるチャイムが鳴った。そろそろ八時近い。こんな時間に来訪とは、誰であろう。箸を止めて時計を見上げながら、ハッとした。 「もしかして、彼女さんですか? お暇しましょうか?」 「君を口説いているのに彼女なんているわけないだろう? 馬鹿なこと言ってないで食べなさい」  呆れた顔で窘められて、山岡はそういえばそうだったと頬を掻く。食事に夢中で忘れていた。  ダイニングと続いているリビングルーム。長谷川がドアホンのスイッチを押して来客の相手を確認すると、モニターから大音量で叫び声が聞こえてきた。 「若! 大変ですっ、親父と叔父貴がまた……!」  男の声だ。野太く、長谷川より年上に思える。長谷川は応答することなく、無言でスイッチを切った。そのまま踵を返して戻ってくる。 「え、え? 長谷川さん?」 「部屋を間違えたみたいだ」 「そう……なんですか?」  ニッコリ、と。どこか有無を言わせぬ笑顔。山岡は曖昧に頷きながら、最後に残していたご飯を口に運んだ。全ての食事を綺麗に完食し、手を合わせる。 「御馳走様でした。物凄く美味しかったです」 「作った甲斐があったよ。曽田くんに聞いてたけど、本当によく食べるんだね。お茶はどう」  ――ピンポン、ピンポン、ピンポーン。  長谷川の言葉を遮って鳴り響く、軽やかな呼び鈴。笑顔を張り付けたまま長谷川が、もう一度ドアホンの方へ向かった。 「お願いします若! 後生ですから! 二人を止められるのは若しか」  ブチッと話の途中でスイッチを切り、今度は何やら操作して戻ってくる。 「あ、あの……」 「最近、多いんだ。ああいう間違い」  困ったものだと笑う長谷川の目が一つも笑っていないのは気のせいか。  素直な山岡は疑うことなく頷き、テーブルの上の皿を手際よく片付ける。そこは流石のホールスタッフ。山積みになりそうな皿を二往復で運んで見せ、テキパキとテーブルの上を綺麗にしていった。その間、長谷川がお茶を淹れてくれる。 「ありがとう。助かったよ」 「いえ。食器は全部、食洗機に入れて良かったんですよね?」 「うん、そう。はい、お茶。熱いから気を付けて」  礼を言って、品の良い湯飲みを受け取った。長谷川はまだ飲むようで、彼の前にはだし巻き卵が残っている。山岡には長谷川が手作りのプリンを出してくれた。デザートまで作って冷やしておいてくれたらしい。  甘いものが大好きな山岡はまさかのデザートの登場に、目を輝かせて喜んだ。幸せそうに頬張る。  ふとその時、今度は長谷川のスマートフォンが鳴った。沈黙が落ちる。長谷川は動かない。鳴り続ける着信音。山岡は電話と長谷川を交互に見比べて、なんと言えばいいのか分からずに黙っていた。  静かに長谷川が立ち上がる。キッチンのカウンターに置いていたそれを取り、長谷川の瞳が冷たく歪んだ。不快と怒りを隠せない鋭い視線に、一瞬目を疑う。これまで、柔らかな表情を崩すことのない長谷川。初めて見る彼の冷たい横顔に、ああいう顔もするのだなと新鮮な気分だった。 「ごめん、尚。仕事先からだ。少し席を外すね」  それが嘘であることくらい山岡にも分かったが、口にすることはない。きっと、さっきからドアホンを鳴らしている人物だろう。長谷川を若と呼んでいたが、一体何者なのか。親父だの叔父貴だの、なんだか任侠映画みたいで面白い。 (流石にそれはないよね)  プリンを完食して食洗機に突っ込んでも、長谷川は中々戻ってこない。おそらく立て込んでいるのだろう。 (やっぱり帰ろう)  数時間ではあるが、ちゃんと眠れた。事情を話せば美津根たちも分かってくれるはずだ。食い逃げのようで気が引けるが、取り込んでいるのにこのまま居座ることはできない。荷物を取りにダイニングを出た。 「いいから帰れ。とにかく帰れ。さっさと帰れ」 「若ぁ……。そこをなんとか頼みます。後生ですから」 「尚が来てるんだ。親父だろうが叔父貴だろうが関係ない」 「尚、さん? あぁ、若がようやく見つけ出した律子(りつこ)さんとこの坊ちゃんですね」  長谷川の影を追い、暇を告げようとして足を止める。律子。それは大事な人、祖母の名前だ。長谷川と祖母が知り合いなのは写真で証明されたが、何故それを赤の他人まで知っているのだろう。  薄暗くて相手の顔はよく見えない。長谷川の知り合いのようだ。 「分かったら帰れ。尚にはまだ知られたく――」  ない、と続けるはずだった台詞が消える。振り返った長谷川が大きく目を瞠り、そのまま微動だにしなくなった。結果として盗み聞きしてしまったことになる現状に、山岡は慌てて頭を下げた。 「あの、すみません。そろそろ、お暇しようかと……」  初めて目にする、長谷川の焦った顔。声も掠れ、体は微かに戦慄いている。よほど見せたくない一面だったようだ。しかし、人に裏の顔があって当然だと思っている山岡は、さほど驚いた様子もなく小首を傾げた。何を知られたくないのかは分からないが、気付かないフリをしている方が彼の為になるのならそうしよう。 「その……、どこから」 「え、何がですか?」  そして今気付いたような素振りで奥にいる人物に目をやった。角刈りの厳つい顔が、真っ直ぐにこちらを見ている。身長は長谷川より若干低いが、全体的に体が分厚い。スーツの上でも分かる筋肉だ。年齢は四十代半ば頃。右目の上に縦に深い切り傷。潰れて開いていない。明らかにカタギではない雰囲気だったが、山岡は臆することなく改めて一礼した。 「初めまして、山岡と言います。俺はこのまま帰りますので」 「必要ない。駄目だよ」 「でも長谷川さん、お客様が」 「君の方が大事だ。彼のことは気にしなくていい。すぐに帰る」  長谷川が角刈りの男を睨めば、男は慌てたように山岡へ頭を下げた。 「お初にお目にかかります。わたくし、滝川(たきがわ)と申します。以後、お見知りおきください」 「は、はい。よろしくお願いします」  滝川と名乗った男は山岡を見つめて眦を下げ、小さく頷いた。 「そうでしたか……。貴方がいらっしゃっているのなら、私が下がりましょう。また参ります」  そう言って本当に踵を返して帰って行った滝川に、良かったのだろうかと長谷川を見上げる。彼は少し疲れた様子で額を押さえ、ロックをかけると山岡を奥へ促した。 「本当に、良かったんですか?」 「もちろんだよ。プリンはもう食べた? 風呂の準備はしてあるから、入ってくるといい」  すっかりいつもの長谷川に戻っている彼に、これ以上滝川のことを尋ねるのはやめた。山岡にさほど関係があるとは思えなかったし、長谷川も訊かれたくないだろうと思ったからだ。 「一緒に入ろうか?」 「馬鹿言わないでください」 「露天風呂あるよ?」 「露天……、え?」  露天風呂。それはなんと、甘露な響き。息を呑む。視線が泳いだ。 「こっち。案内するね」  ふふ、と笑って長谷川が先を促す。山岡はかなり迷ったが、つい勝手に足が動いた。  決して露天風呂につられたわけではない。決して好奇心が勝ったわけでもない。だが。これまで旅行なんてものに行ったことがない山岡だ。温泉など夢のまた夢。あの家を出てから、一度でいいから入ってみたいと思っていた。それが今、ここにあると言う。 (本当に、あった……っ)  夜景の煌めく美しい展望。下に見る豆粒のような車の流れ。吹き抜ける風が、いつになく冷たい気がする。  案内を受けて分かったのだが、このマンション、とてつもなく広い。部屋がいくつあるのか分からない。明らかに一人で住むタイプの間取りではなかった。 「ね? 本当だったろう?」  凄い。圧巻だ。椛の木や紗更で囲われた天然石の露天風呂。屋根が付いているので、小雨程度なら問題なく入れる。淡く輝く灯篭が和の雰囲気を一気に底上げし、上品な空間に仕立て上げていた。先ほどの寝室といい、長谷川は和のテイストが好きなようだ。欧米の血が入っていそうな容姿なので、少々ギャップを感じる。 「今日のお湯は、どこのだったかな……。ちょっと待ってね」  そう言ってスマートフォンで何か調べ始めた長谷川に、どういう意味なのだろうと首を傾げる。 「あぁ、今日は下呂温泉のお湯だ。岐阜の温泉だよ。知ってる?」 「有名な温泉なので、名前くらいは」  下呂温泉。岐阜県にある、日本三名泉の一つだ。無色透明のアルカリ泉。大変まろやかな湯質で、老若男女問わず愛され続けている名泉である。  湯気立つ目の前のお湯を眺めながら、ふと生まれた疑問をぶつけた。 「……あれって、下呂温泉なんですか?」 「うん。お湯自体は温くなってるから、追い炊き機能で温め直してるけどね」 「温泉が、日本中から届くと?」 「前に柚野(ゆの)から教えてもらったサービスなんだ。以来、僕も愛用しててね」  柚野。それは長谷川のパイロット仲間の名であり、曽田を口説くと宣言した男だ。かなりの長身で、百九十センチは軽く超えていたのを覚えている。旧財閥、柚野グループの三男坊。誰よりも金持ちのくせに近隣の商店街のタイムセールに精通している、よく分からない人物だ。  育ちを鼻にかけない朗らかさが、山岡は嫌いではなかった。山岡たちを見る目とは全く違う雰囲気で曽田を見つめるあの瞳を、なんとなく応援したくなるのは……内緒である。 「すぐに入れるよ。準備しておいで」  そう言われた直後、再び長谷川のスマートフォンが着信音を鳴らした。一言断って長谷川が電話に出る。途端、彼の表情が厳しくなった。足早にその場を離れながら、低い声で何か話をしている。  山岡はしばらく長谷川を待っていたが、中々戻って来ない。どうしたものかと頬をかく。このままここで突っ立っていても仕方がない。約束は守るだろうと腹を括った。風呂の準備をしに露天風呂を出る。もし手を出すようならば、長谷川もその程度だったというわけだ。  とりあえず寝室に戻ると、ベッドの横に荷物が置いてあった。さっきは気付かなかったが、長谷川が運んでくれたのだろう。風呂の支度を済ませて露天風呂へ向かう途中、リビングから出て来た長谷川と鉢合わせる。 「尚、ちょっと出てくる。留守番を頼む。すぐに戻るから」  口早にそれだけを言うと、長谷川は本当に出て行ってしまった。返答する暇もない。右を見て。左を見て。誰もいない、だだっ広い空間。一人マンションに取り残された山岡は、思わず本音を零した。 「らっきぃ……」  これで心置きなく、露天風呂を堪能できる。きっと電話は滝川からのものだ。やはり一人では処理できなかったか。誰もいないのに、こっそりウキウキしながら露天風呂へと急ぐ。脱衣所で豪快に服を脱ぎ、先に体をと髪を洗ってから露天風呂を拝んだ。手を合わせてしまったのは、それだけ神々しく思えたからだ。  透明なお湯なのに温泉だと思うだけで心が躍る。ソルーシュでお金を貯めて、いつか温泉旅行に行くのを目標にしていた。ここは温泉宿ではないし思っていたのと少々異なるが、温泉は温泉。思わぬところで、ちょっとだけ夢が叶ってしまった。  へへ、とニヤける顔を隠せず湯に浸かる。解放感のある露天風呂。旅行気分とまではいかないが、知らない場所であることに違いはない。ふぅ、と高い天井を見上げて大きく伸びをした。軽く泳げそうな広さだ。  パイロットが高給取りなのは山岡も知っているが、どうも長谷川はそれだけではないようだ。実家が相当な金持ちか、他に不労収入があるか。 (ま、俺には関係ないか)  どんなに長谷川が裕福でも、山岡には無関係。他人の金に興味などない。  鼻元まで顔を沈めて、出て行った長谷川のことを考える。もし本当に滝川からの電話で実家に行ったのなら、揉め事の仲裁をしに行ったはず。親父や叔父貴とやらが山岡の想像する人物像かは分からないけれど、無事に解決できるのだろうか。長谷川も慣れている様子だったし問題はないと思うが、やはり若干心配だ。 「いやいや、なんで俺が心配してんだよ」  思わず声に出して否定し、頭までお湯に浸かった。長谷川がもし怪我でもして帰ってくれば、断るいい口実になるではないか。滝川のこと。家のこと。万が一そっちの道の家なら、正直に関わりたくないと言えば済む。  血塗れで帰ってくるなんてことにはならないとは思うが、さっきから任侠映画のイメージが離れていかない。  湯から顔を出し、ゆっくり浸かっている気分にもなれずに上がることにした。手早く着替えを済ませ、水を一杯頂こうとダイニングに入る。全室空調管理が行き届いているが、風呂上りはやはり暑い。  首からかけたタオルで軽く汗を拭きながら、ウォーターサーバーで水を一杯貰った。リビングの壁に掛けてある時計を見る。流石に寝るにはまだ早い時刻だ。長谷川の出掛けた先が遠いのか近いのかは知らないが、帰って来る気配もない。鍵を持っていないので帰ることもできない。  何より、やることがなかった。暇なので、早々に寝支度を整える。そのままリビングのソファに寝転がり、静寂に身を委ねた。一応自分の携帯電話を確認してみるが、連絡は入っていない。連絡先を教えていないのだから当然なのだが、なんとなく長谷川なら何かしらの方法を用いて番号を入手していそうだと思った。  山岡は未だに、いわゆるガラケーと呼ばれるものを使っている。理由は単純。スマートフォンが高いからだ。ネットには無縁の生活が長かったため、特に不自由も感じない。  ただ、バーテンダーを初めてから客との会話で困ることがあり、格安のスマートフォンに変えようか悩んでいた。なんだかんだと客商売。会話について行けないのは致命的だ。  その点、美津根は大変博識で、客との会話もよく弾んでいた。酒が目当てではなく、当時は美津根と話したくて来店する常連客も多かったくらいだ。憧れの美津根に少しでも近づきたいのなら、やはりそれなりの情報は頭に入れておくべきだろう。  ゴロゴロしていても仕方がないので、普段から持ち歩いているメモ帳とペンを荷物から取り出して来た。リビングのテーブルでそれを開く。メモの内容は、酒に関する美津根からのアドバイスとソルーシュで出しているカクテルのレシピだ。  一応全て頭に入れてあるが、最近はオリジナルカクテルを作ってみたらどうかと美津根に言われていた。自分なりに色々考えているものの、これといったものが出来上がらない。  美津根のオリジナルカクテル『ソルーシュ』は店名を冠した一品だ。美津根がカウンターに立たなくなりレシピを引き継いだが、正直彼が作るものと自分が作るものでは『ソルーシュ』の深みと味わいが全然違う。  ソルーシュは、オレンジとブルーのコントラストが美しい、シンベースのカクテルである。同じ分量で作っているのにこうも違うのは、シェイクの仕方が原因だ。こればかりは練習しかないため一生懸命頑張っている。  その時、近くで扉の開く音がした。集中していて気付かなかったが、既に一時間が経過している。それは長谷川が帰宅した音だった。 「あ……、お帰りなさい」  何とも言えない空気感。照れくさい。別に変なことは言っていないはずなのに、ソルーシュのメンバー以外に言ったのが相当久しぶりで気恥ずかしい。 「ただいま」  嬉しそうに表情を柔らげた長谷川が、しかしすぐに顔を顰めて口元に手をやった。今気付いたが、長谷川の左頬が赤く腫れている。口元は既に赤黒く変色していた。 「大丈夫ですかっ?」 「ン、平気。大した事ないから」 「ダメですよ、ちゃんと冷やさないとっ」  すぐにダイニングへ走り、勝手に冷凍庫を漁って首からかけていたタオルの使ってない方で保冷剤を包む。 「すみません、こっち側は使ってないので今だけ我慢してください」  長谷川の手を引いてソファに座らせ、顔にそっと保冷剤を押し当てた。血の滲む口の端。切っているらしい。 「これ、お仕事柄マズイんじゃないですか?」 「明日から三連休だから、っ……たた」 「ああ、喋らないでください。また血が出てきた」  タオルの端で血を拭うが、やはり清潔な方がいいだろうと思いタオルはどこかと尋ねる。 「俺、取ってきます。脱衣所ですか? ちょっと待ってて――」  音を立ててフローリングに転がる、タオルと小さな保冷剤。強引に引き寄せられて腕の中。息が苦しいほど強く抱き締められていた。 「……行かないで」  初めて聞くような、抑揚のない声。動けない。不思議と腕を振りほどく気にもなれない。山岡は黙って長谷川の腕の中にいた。それで長谷川が落ち着くなら、今だけいいかと思えた。沈黙が流れる。重くはない。嫌な感じもしない。ただ、ちょっぴり長谷川のことが心配だ。体がとても冷たいのだ。外が寒かったのか、それとも彼が落ち込んでいるせいか。  長谷川は何も言わない。無言で山岡を抱き締めている。山岡もまた黙って腕の中にいた。本当は、何があったのか尋ねたい。けれど口にはしない方が、きっといい。 「え? ぉ、おぅぅっ?」  ゴロン、とソファの上。正確には長谷川の上。三人掛けの大きなソファに横たわった長谷川。驚いて体を起こせば、彼が利き腕で目を隠していた。逆の腕は未だ山岡の背に回っており、やはり動けない。 「ごめんね。……ありがとう」  それが何に対しての謝罪と感謝なのかはよく分からなかったが、なんとなくこれで良かったのだと感じた。手を出してくる気配もないので、今日だけは許してやろうと思う。それだけ長谷川が落ち込んでいたからであるが、自分もつくづく甘いなと長谷川の胸に頭を乗せた。  規則正しい心臓の音。段々と瞼が重くなってくる。小さな欠伸と閉じる瞳。こんなところを志間あたりが見たら大変なことになりそうだ。そんなことを考えながら、意識が優しく霞んでゆく。微かに頭を撫でられる感触。それがやけに心地いい。 「尚。明日の朝、何が食べたい?」 「……、お……みそ、しる……」 「え、味噌汁?」  これ以上は答えるのが億劫。口を開くのが面倒くさい。 「尚? ……って、寝ちゃったか。可愛いなぁ。本当にただの喧嘩だったんだけど、あんまり心配してくれるからつい演技しちゃった」  祖父と叔父貴の喧嘩は日常茶飯事。コミュニケーションの一種だ。なんだかんだと仲は悪くはない。ただ止めに入る若い衆がことごとく投げ飛ばされるので、長谷川が呼ばれるだけだ。この口の怪我も殴られたのではなく、転びそうになった祖父を庇った際に下手を打っただけだ。 「ふふ、なんの味噌汁にしようかなぁ」  風呂の中では極道を理由に逃げようとしていたくせに、口端を切っただけで心配する山岡。そんな彼が、極道を理由に背を向けることなどできるわけがない。結局は長谷川の方が一枚上手。どうせ傷を作ったのなら、利用してしまおうと考えた彼の勝ちであった。
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