長谷川×山岡編

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 自由になれ。男はそう言った。それからずっと、あの言葉が頭から離れない。  自由とは、なんだ。自分はずっと自由だった。どこにでも行けた。今がおかしいだけで、不自由だったことなど一度もない。  —ウソツキ。   自由とは、なんだ。自分は好きに生きてきた。自由だった。  —ウソツキ。  頭の中に響く嘲笑。嘘を吐くなと、幼い声が笑っている。子供の声だ。まだ自分が自分でいられた頃。楽しかった子供時代。善も悪もなく、両親の期待など笑って吹き飛ばしていた。  年齢を重ねるごとに、親の顔色を伺うことを覚え、親の機嫌を取ることを学び、親の愚かさに気付いて失望した。気付けば重すぎる期待に手足は雁字搦め。汚ない金に口を塞がれ、子供の自分ではどうすることもできずに、ただそれを甘んじて受けていた。  自分を自分で演じることを覚えたのは小学生の頃だ。これが本当の自分だと錯覚したのは中学生。段々とボロが出始めたのが高校時代。本当の自分と演じている自分の差が開けば開くほど、どうしようもない焦りと不安が全身を駆け巡っていた。  一度だけ親に本音を伝えたことがある。これ以上は無理だと。自分にはできないと。泣きながら。懺悔しながら。訴えた。だが両親は話を聞くどころか顔を見合わせて笑った。そんなものは一切認めないと、全く笑っていない目が全てを物語っていた。失望は絶望に変わり、この時期から一層兄への虐待が止まらなくなった。  頭のどこかでは分かっていたのだ。こんなことは駄目だと。やるべきではないと。何も解決しないことも、ちゃんと分かっていた。だけど、加虐している時と後に訪れる解放感。それに負けた。何もかもを兄のせいにして、自分の正当性を押し通した。壊れかけていた心を守る方法を、それ以外知らなかった。  なのに。逃げられた。唯一の拠り所が、手のひらからすり抜けた。探して。探して。探し回って。ようやく見つけたと思ったら、幸せそうに働いていた。しかもだ。しかも、山岡の家ではどうにもならないほどの実力者に庇護され、深く愛されていた。足掻いても無駄。もがいても無駄。  だけどどうしても諦めきれなくて、自分に好意を抱いている女を使って強引に取り戻そうとした。結果、これだ。失敗したツケが回ってきた。だがそんなことはどうでもいい。 (……)  所持品を受け取り、保釈後一人で街をブラブラしている。当然、迎えなんてない。家に帰ってもいいのかすら、自分では決められない。これからどうしようかとボンヤリ考えていたところに、一件メッセージが届いた。父親からだった。戻るのは夜中にしろ。  無機質な文字の羅列を見つめ、また一つ心が嫌なところへ転がり落ちた。両親がこういう人間であることは分かっていたし、落ち込んだり怒ることがどれほど無駄なのか身に染みて理解している。だからなんとも思わなかった。感覚がしただけだ。心の沈む、感覚が。  彼らは世間体が全て。自分たちの生活こそが全て。そんな親に育てられた自分も、同じくそれにしか価値がないと思っていた。今でもそうだ。人間はそう簡単に変われない。 (……自由)  足が勝手に動く。進む。逢魔が時。オレンジ色に染まる街の一角。ふらりと立ち寄った店で、親の言う通りするため時間を潰そうとした。こんな時でも自分は親の言う通りにする滑稽な自分が笑えた。  ふと、視界の端。目に入ったものがある。普段なら見向きもしないものだ。だがなんとなくそれを手に取ると、妙にしっくりきた。不思議。何故だか笑みが零れた。 (自由に、なる)  自由に。そう思ったら急に心が晴れた。胸の(つか)えが一気に取り払われて楽になり、表情も明るくなる。こんな気持ち、いつ以来だろうか。きっと両親も望んでいることに違いない。あれほどの重圧をかけてきたくらいだ。もしかすると自分は、長年その期待を裏切ってきたのかもしれない。であったのなら、申し訳ないことをした。浮かぶ笑みに喉が震える。低い笑い声に肩が揺れ、残っていた電子マネーを使ってそれを購入した。嬉しかった。本当に嬉しかった。気を付けていないと笑い出してしまいそうなくらいだった。 (自由。そうだ、自由だ)  望み通り適当に時間を潰して真夜中に帰宅した。玄関からではない。勝手口からだ。それが彼らの望みだろうと思ったし、実際それで間違っていなかった。二人はコソコソとアタッシュケースを囲み、札束を数えていた。玄関から入れば気付かなかった。それは彼ら二人の保釈金。息子の自分には支払われなかった、金だ。  二人は息子に気付くと金を慌てて背に隠し、焦ったようにして怒鳴り始めた。 「お、お前……! 無言で帰って来るとは何事だ! だいたい、なんてことをしてくれたんだっ」 「どうしてママたちに迷惑をかけるの? 本当に情けないわ。貴方は山岡家の跡取りなのよ?」 「ふははっ!」  思わず失笑が零れた。叱られて笑った自分のことが不思議に思ったのか、二人が顔を見合わせる。 「大丈夫。もう分かってるから」  そう言うと、顔を見合わせたまま訝し気な表情で見つめ合う両親。何が分かっているのか不思議そうにしつつも、笑う息子に毒気が抜かれたのか部屋から追い出そうとする。息子のことなど興味が失せたように背を向ける両親に、彼らの子供として出来ることをしてあげるのが自分の使命のように感じた。  先ほど購入したものを開封し、それを持って二人に近づく。 「父さん」  呼びかけた瞬間。なんの迷いもなかった。満面の笑みを浮かべ、手にしたものを彼の体に突き刺す。 「え――……?」  何が起こったのか分かっていない父の表情。ギョロリとした視線が下を向き、自分の背を確認する。そのままズルズルと膝から崩れ落ちた。 「きゃぁぁあああああッッ!」  甲高い悲鳴が耳障り。嗚呼、こちらも早く自由にしてあげなければ。  視線を隣にやり、奇声を上げながら逃げ回る母の背に父と同じものを突き立てる。ざくり。肉を裂く独特の感触。刃を抜いた瞬間から噴き出す鮮血。勢いよく噴き出す血は生温かく、どこか錆び臭い。 「ぅ、ぐ、……っ」  まだ絶命できず、腹ばいのまま血を引きずって逃げ出そうとしている父。腹の肉が邪魔をして上手く前に進まず、その姿が憐れで一刻も早く自由にしてやらねばと柄を握り締める。 「ぐぁぁあああッ」  背の中央に深々と突き刺す刃に、断末魔を上げて今度こそ動かなくなった。絶命した父の体から包丁の刃を引き抜き、まだ死んでいない母に向き直る。彼女もまた、父と同じくこの部屋から逃げ出そうともがいていた。 「母さん、逃げないで。大丈夫だから。ちゃんと自由にしてあげるよ」 「な、にを……」 「最初からこうして欲しかっただよね? だから俺を壊そうとしたんだろう? 無理難題を押し付けたのも、こんなしがらみだらけの家から解放されたかったからだ。ごめんね、気付くのが遅くなって。でも……もう、大丈夫だから。安心して」  ちゃんと殺してあげる。 「ひ、ぃぃぃ……ッ」  久しぶりに腹の底から笑えている。心が表情と乖離していない。最高の気分だ。高揚感と満足感が全身を包み込む。本当に。何故もっと早くこうしなかったのだろう。常に二人はSOSを発していたのに。彼らは助けを求めていたのに。自分ではできなかったことを、優秀な息子に託したのだ。自分がやるべきことは勉強でも人脈作りでもなく、家族みんなで自由になること。 「ふふふ、ははっ、あははははははッ!」  逃げ惑う母親を追って何度も刃を突き立てた。高い金を出してジムに通い、無理に引き締めていた鶏ガラのような体。骨を断つような音もしたが、関係ない。  そのうち母親も動かなくって。噎せ返るような血の臭いを肺一杯に吸い込んだ。高揚感を全身で満喫する。  最高だ。満足だ。嬉し涙が頬に伝う。これで自由になれた。自らも自由を手に入れた。何かと強要してくる父はいない。口を開けば体裁ばかりの母もいなくなった。 「やっと、自由になれた……」  あの言葉がなければ自分は今でも二人のオモチャ。憐れな傀儡人形。二人の重荷も解放してあげた。きっと喜んでいるに違いない。やり遂げたのだから、手を叩いて褒めてくれているはずだ。  床に寝転がって天井を仰ぎ、鼻歌を歌う。 「幸せだなぁ」  幸せ過ぎて怖いくらいだ。このまましばらく幸福感を味わっていたいが、腹が減った。夕食を食べていないことを思い出す。体を起こして自分が血だらけなのに気づき、シャワーを浴びることにした。隅々まで綺麗に磨き、部屋に戻って服を着替える。それからキッチンへ向かい、冷蔵庫にあるものを適当に食らった。料理なんてしたことがないから、出入りしている家政婦の作り置きを腹に入れる。  腹が膨れたら今度は眠くなってきた。大仕事をやり遂げた後だ。無理もない。寝支度を整えて部屋に戻り、ベッドに横になる。怒鳴り声も嫌味小言も聞こえない。しみじみと解放感を味わいながら、眠りにつく。  温かなベッドで柔らかな布団に包まれながら、あり得ないほどの幸福感を抱いて目を閉じた。今日はゆっくり眠れそうだ。  それなのに何故だろう。まだ何かが足りない気がする。それが一体何かを考えて。考えて。考え抜いて。思い当たった人物に意識が冴えた。そうだ。もう一人いるじゃないか。自分が自由にしてあげなければならない人物が。失念していた。また失敗するところだった。可哀想に。彼はまだ自由ではない。  明日は彼を自由にしてあげよう。あの店に行けば会えるだろうか。新たな企画を頭の中で立てながら、今度こそ穏やかな眠りを受け入れる。安らかな寝息が聞こえ始めるのに、そう時間は必要なかった。 ◆ ◆ ◆  皆の様子がおかしい。それに気付くのに、時間はさほどかからなかった。ニュースを見ていたかと思ったら慌てたように消し、それを山岡に見せないようにして曽田が手伝いを頼んでくる。おかしいなとは思った。思ったが、根が素直にできている山岡では断ることができずに、違和感を抱きつつも曽田に従う。  それから手伝いを終えて戻ると、今度はテレビの調子がおかしいと言う。絶対に何かある。山岡は何を隠しているのか尋ねた。しかし誰も本当のことを言おうとしない。何も隠していないと一点張りだ。泰造にも尋ねたが、困ったような表情をするだけで話してはくれなかった。  だから山岡は納得したフリをした。分かったと頷いて、和やかに夕食を食べた後に部屋へ下がる。今の世の中にはテレビが見られなくとも、インターネットがあるのだ。しかし――。 (先手を打たれた……)  いつの間にかインターネットも使えなくなっている。電話はかけられるようだが、ここまでするのだから長谷川にかけたところで無駄だろう。それに仕事中かもしれない。  彼らは一体、何を隠そうとしているのか。思い当たることといえば、山岡夫妻と血の繋がらない義弟のこと。彼ら三人に何かあったと考えるのが妥当だ。それもニュースになるような、何か。今度は一体何をしでかしたのかと、重いため息が零れる。  これは完全に山岡の憶測だが、会社関係かもしれない。それなりに有名であった山岡家の会社だ。遅かれ早かれ倒産すると思ったが、とうとう潰れたのかもしれない。ただ、それだけのことでこうまでして隠そうとするだろうか。山岡にまで害が及ぶと思っているのであれば、それはあらかじめ覚悟していることだ。山岡のことをマスコミが知れば、面白おかしく騒ぐだろう。ネットも一時は騒がしくなるかもしれない。店に被害が及ぶようなら退職も辞さない。  しかし優しい彼らはそれを許すまい。きっと山岡を庇おうとする。であればこそ、休職の道を選ぶことも視野に入れていた。少し前の山岡には、想像もできなかったことだ。誰かを頼った結果、頼った相手の迷惑になるかもしれない事実を無視するなど。長谷川に出会う前の山岡なら人知れずひっそりと消えていた。それを選ばない理由は、山岡が自分の居場所だと根を張れたからだ。  心から自分を大切してくれる人たちに出会い、もし自分が勝手にいなくなれば彼らが悲しむかもしれないと、そのくらいの考えは持てるようになった。これは山岡にとってかなり大きな進歩だ。  どうしたものかと思案している山岡のもとへ、着信が入る。この島にいるメンバー以外では長谷川しか掛けてくる人間がいないため、相手を確認することなくボタンだけを押して電話に出た。 『もしもし? 今、どこにいる?』  息を呑む。思わず寝転がっていたベッドから飛び起きた。あまりに気軽に尋ねてくるものだから一瞬思考が停止した。しっかりしろと己を叱咤し、拳を握った。番号を変えたのに、何故またかけてこられるのか。一体どうやったのだろう。興信所に頼む金などないはずだ。しかし現に、こうやって電話はかかってきた。この声は紛れもなく尚大のものだ。保険金だってそうだ。山岡夫妻はどうやってかき集めたのだろうか。息子のことを見捨てなかったことも驚きだった。 『兄ちゃん、ごめんな。これまで窮屈だったろ?』 「窮屈……?」  山岡家にいた時のことを言っているのだろうか。それにしては、少し妙なニュアンスだ。今の山岡は自由であるし、窮屈だとは思っていない。 (まさか、沖縄にいるのを知ってるのか?)  もしそうならどこでその情報を得たのだろう。長谷川が言うわけもなく、この島のことは長谷川側の人間だけが知ることだ。長谷川と泰造もその辺はよく分かっている。今更、尚大に山岡の居場所を伝えるはずもない。長谷川家に住み込んでいる男たちも同じだ。 『俺が解放してやるから、安心してくれ。これで楽になれるよ』 「楽にって、さっきから何を言ってるんだ?」 『うちの親も、自由になったんだ。俺が解放してやった。今度は兄ちゃんの番だ』  嬉しそうに。どこか楽しそうに、そう告げる尚大。山岡は益々怪訝に思い、上機嫌でいる尚大へ言葉を選びながらそれを投げた。 「俺は不自由だなんて思ってない。だから、君の力は必要ない」  すると尚大はしばらく無言になり、山岡は電話を切ろうとした。だが急に、まるで何かに取り憑かれたかのように喚き散らし始める。それはよく知る尚大の姿ではあったが、より一層激しさを増していた。  なんだ。この異様な感じは。尚大は自分の思い通りにならないと、裏ではこうなることが多い。だとしてもここまで支離滅裂なことを口にはしない。ずっと叫んでいる。自分が自由にするのだと。両親は成功したのだと。次は山岡の番で、それを完了して本当の意味で自分の自由が確立されるのだと。  何を言っているのか山岡には分からなかった。だが、今の尚大が正気でないことは理解できた。おかしい。明らかに常軌を逸している。だいたい、彼の言う自由とは一体なんのことなのか。 『いいから居場所を言えよッ!』 「言えるわけないだろ。言ったとしても君に来ることはできない。俺だってこの島からは出られないんだ」 『……、島?』 「そう。島だ。だから諦めてくれ」 『長谷川泰造の、島か』  山岡は答えなかった。その通りだったからだ。とにかく一刻も早くこの電話を切らねば。体が尚大を受け付けないのか頭痛がしてくる。これ以上話すことはないと通話を切り、ベッドに伏した。大きなため息を吐き出し、都内に戻ったらまた電話番号を変えようと冷たい指先を握る。 (隼人さんに、会いたい……)  声だけじゃなく、直接会って話したい。顔が見たい。いつの間にこんなに焦がれるようになったのだろう。  仰向けになって、高い天井を見る。零れるため息がやけに大きく聞こえて、静けさに耳鳴りがしてしまいそうだ。水でも飲んで気分を変えようと、部屋を出る。階段を下り、一階にあるキッチンへ向かった。 「そうですか……。じゃあ、まだしばらくは動かない方がいいですね」  いつになく深刻そうな志間の声。思わず足を止めて、山岡は耳をそばだてる。 「それにしても、まさか殺人とは……」 (っ、殺人……?)  思わず悲鳴が零れそうになって、山岡が咄嗟に口を押えた。この声は泰造だ。志間と泰造がキッチンで話している。山岡は聞き耳を立てながら身を潜め、一体何の話をしているのかを確かめようとする。 「俺も長谷川さんに連絡を受けた時はまさかと思いましたけど、もうニュースになってましたね」 「尚道くんのところにも警察が来るやもしれん。隼人が手を回しているだろうが、このまま見つからないままだと隠し通せんだろう」 「そうですね。だけど、遺体が腐敗してたって報道にはあったじゃないですか。一体いつ犯行に? 次は山岡ちゃんってことはないですよね? 流石にこの島まで来ることはないでしょうが、山岡ちゃんに連絡とか……」  ハッとしたように志間が息を呑んだ。泰造もその可能性を失念していたのか、慌て始める。 「ど、どうしましょうっ、泰造さん!」 「いやいや尚大から連絡があったら、かなりマズイぞ」  尚大。その名を聞いて山岡は血の気が引くのを感じた。先ほどの電話。自由とは、……そういうことなのか。  足に力が入らず、その場にへたり込む。微かな物音を聞いて、志間と泰造がこちらへ駆けて来る。山岡は逃げることもなく、ただただ呆然と磨き抜かれた木目の床を見ていた。 「……山岡、ちゃん」  聞いていたのかと、志間が気遣わしげに声をかけてくる。山岡は反応できずに、頷くことすら叶わない。そこへ風呂上がりの美津根と曽田が合流する。へたり込んでしまっている山岡を見て、二人は察した様子だった。  心配そうな泰造が、一先ずリビングへ行こうと手を差し出してくれる。しかし山岡はショックのあまり本当に動けず、曽田に抱き起こされる形でリビングまで連れて行かれた。  ソファに腰かけても、ショックからは立ち直れない。無理もなかった。尚大が殺人を犯し、逃げ回っているのだから。更に、警察へ自首するどころか山岡のことも自由――すなわち、殺そうとしている。  あの連絡は、そのためだった。山岡は深く息を吐き出す。何度か深呼吸し、血の気の引いた顔を上げた。 「……さっき、尚大から連絡がきました」  リビングにいる全員の顔が強張る。山岡は激しい動悸を必死におさえながら、自分を探している事実を伝えた。今度は自分を殺しにくるつもりなのだと。  吐き気がした。恐怖というよりは、とうとうそこまで堕ちたのかと嘆きに近い。何より、ついこの間まで生きていた両親の遺体が腐敗していたという衝撃の事実が山岡の心を抉った。  尚大のあらゆることが受け付けず、嘔吐しそうになりトイレへ駆け込む。汚い話になってしまうが、夕食で食べたもの全て戻してしまう。それだけ山岡にはショックが大きかった。何せ殺人だ。こればかりはどうあっても受け入れ難い。胸が痛い。大嫌いで、憎んでさえいた両親だ。何度いなくなってくれたらいいだろうと願ったか分からない。だが、それでも本気で死ねばいいと考えていたわけではない。  しかも、犯人は実の息子だ。震えが止まらない。自分が狙われている事実もまた、恐怖を上乗せしていた。ヨロヨロとトイレから出て洗面台で顔を洗い、口を漱ぐ。それでもスッキリしない。気分はどこまでも重く、気を抜くとまた吐き気がしそうでこの場を動けなかった。 (隼人……さん)  さっきとはまた違った意味で会いたかった。無性に彼に会いたい。電話をかけたら出てくれるだろうか。声だけでも聞きたい。 (……いや、駄目だ。何考えてるんだ、隼人さんにいつまでも頼るな。ここまでしてもらっておいて、これ以上は絶対に駄目だ。迷惑になる)  頼るな。縋るな。嫌われたくなければ、ちゃんと聞き分けのいい人間でいなければ。  もう一度口を漱ぎ、今日はこのまま休ませてもらおうと踵を返した。心配して駆けつけてくれた四人に力なく笑い、先に休むと断る。彼らもなんと言っていいのか分からないのか、誰もが心配そうに頷いてくれた。 「あの、……隼人さんには、言わないでください。お願いします」  ショックで吐いたなんて知れば、きっと優しい彼のことだから山岡のもとへ駆けつけてくれる。長谷川の負担にはなりたくない。深々と頭を下げる山岡に、しかし誰も何も言わない。答えない。だからもう一度、頭を下げたまま頼み込んだ。 「お願いします、隼人さんに余計な心配かけたくないんです」  そんな風に頼み込まれると、誰も何も言えない。頷くしかなかった。  山岡は志間たちに礼を言って、今度こそ部屋に引き上げた。吐き気は続いていたが、体を丸めて堪えた。  長谷川と会う時までには、元気になっていなければ。ただ、その一心であった。
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