終幕

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終幕

 どうしてだ。何がいけなかった。何を間違った。    (いや、俺は間違ってなんかいない……)  そんなわけがない。そんなわけないのに、何故自分はここにいるのか。それが分からない。  父を殺したから?  母を殺したから?  それがなんだというのだろう。些細なことではないか。些末なこととは、こういうことを言うのだろうに何故。両親は死ぬべき存在だった。そうでなくてはならなかった。解放してあげたのだ。今世のしがらみから自由にしてあげた。むしろ褒められるべきだろう。称えるべき行動だ。  おかしい。おかしい。おかしい。  理解をしない社会が。  おかしい。おかしい。おかしい。  こんなことになっている状況が。  兄ではなく、どうして自分がここにいるのか。もし間違っているのだとすれば自分ではなく兄の方だ。兄は山岡家から逃げた。一人で。こんなに可愛い弟がいるのに、見捨てた。こうも兄を必要としている弟を、彼は無情にも切り捨てたのだ。兄こそがここにいるべきであって、自分ではない。自分は悪いことなど何もしていない。  兄。  兄。  兄。  兄。 (にいちゃ……っ)  嗚呼。いけない。どこだ。どこにいる。あれは渡せない。あれは誰にも取られなくない。まさか、まだ長谷川隼人の傍にいるのか。あの男に、抱かれて……? 「っ、あああああああぁぁぁぁぁぁッッ!」  ガンッ、と頭を鉄格子にぶつける。何度も。何度も。  留置所にいた警察官が慌てて止めに入るが、尚大は聞き入れない。  そもそも、がいけないのだ。あの男が自分を唆したから、こんなことになった。山岡の携帯番号を調べ上げた腕は買うが、それ以外は何も役に立たなかった。自分は何も悪くない。もし自分が悪いのだというのなら、あの男だってそうであろう。 (あれ……?)  頭を打って、肌が変色するほど、強く打ち付けて。ハッとする。痛む額に顔を顰めることもないまま、呆然とした表情でその場にへたり込んだ。 (待てよ。あいつ……まさか)  不意に脳裏へ過った可能性に、途端冷静になる。いや。血の気が引いた。よく考えろ。あの日。あの時。あの男の言葉を。  まさか。むずむずと嫌な予感。嫌な可能性。震えが走った。両手が震える。膝が笑う。考えれば考えるほど、滑稽なのは誰なのかが分かってしまう。 「嘘だ」  嘘だ。信じられない。信じたくない。あり得ない。あってはならない。それなのに、胸の鼓動が痛いほど冷たく脈を打っている。何が正解なのか、既に理解し始めていた。  喉が鳴った。低く。揺れる肩とともに零れる、地を這うような笑い声。  突然笑い始めた尚大に、鉄格子前に集まっていた警官たちが顔を見合わせる。気でも触れたのでは、と異質なものを見るような目で尚大を見下ろしていた。 「っ、ははは……あはっ、アハハハハハハハッ! ぐ……ッッ」  そうかと思えば今度は両手で拳を握り、思いっきり冷たい床に叩きつける。 「畜生ぉぉぉぉぉぉおおおおおおッッ!」  殺してやる。絶対に殺してやる。どんな手を使ってでも、自分を言葉巧みに利用した男をこの世から抹殺してやる。  今に見ていろ。こんなところでは終わらない。まだ終わりではない。握った拳を更に強く握り、きつく奥歯を噛み締める。腸が煮えくり返るような心地であったが、まだ手はある。手は。これだけの奇行を見せたのだ。精神鑑定に持っていってやる。そこからが勝負だ。 「待っていろッ、灰かぶりィィ!」  ◆ ◆ ◆ 「尚は今日も可愛いなぁ。だけど、ちょっとモテ過ぎだよね」  ふふ、と黒い笑みを浮かべて笑顔と同じ色をした珈琲に口を付ける長谷川に、呆れた顔で曽田お手製のラザニアを口へ運ぶ柚野。  沖縄から都内のソルーシュへ戻って来て一週間が経とうとしている。長期で休んでいたソルーシュだが店長の志間がSNSで営業再開を告知すると、すぐに常連客が殺到し瞬く間に人気店の様相を取り戻した。ソルーシュの営業を待っていた客はかなり多く、それは沖縄に行けなかった柚野もその一人だ。  明るい店内に客たちの談笑の声。長谷川と柚野のテーブルに熱視線を送る老若男女は通常運転。いつもの光景が再び長谷川たちのもとへ戻って来た。 「最近、可愛さに色気が足されて方々から人気ですもんね」 「そうだろう? 僕のせいだとはいえ、悔しいよ」  これは惚気。結局のところ、惚気でしかない。  柚野はやれやれと肩を竦め、思い出したように口を開く。 「そういえば山岡尚大、精神鑑定に持ち込まれたみたいですね」 「問題ない。そちらにも手は打ってある。あ、どんな手かは秘密だよ?」 「……聞きたくありませんって」  げんなりした顔で柚野がグラスの水に手を伸ばした。そこへ颯爽と歩いてくる一人の店員。長谷川の顔が明るく柔らかくなり、後ろを振り返らずとも柚野には誰が来たのかすぐに分かった。 「お待たせしました、ラタトゥイユです。パンはお代わりできますよ」 「ありがとう、尚。凄く美味しそうだね」 「美味しそう、じゃなくて最高に美味しいんだよ。ね? 山岡くん」 「はい、もちろんです」  笑顔で料理を運んできた山岡に、柚野が厨房の方をチラチラ見ながら告げる。しかし目当ての人物は厨房に引っ込んだままだ。顔を出す様子もない。 「すみません柚野さん、曽田さん今日ちょっとご機嫌ナナメなんです」 「え? どうして?」 「仕入れた茄子が、気に入らなかったらしくて……。配達に来た業者さんと口論になっっちゃって。なので、ホールには出てこないと思います」 「それは尚が謝ることじゃないよ。尚は本当に優しんだから」  皿を置いた山岡の手をそっと握り、長谷川が嫣然とほほ笑む。指の腹で手の甲を撫でられた山岡は耳まで真っ赤になり、照れながらも払いのけることはしない。ほんの数か月前までは考えられなかったことだ。 「あ、あの……そろそろ、戻らないと」 「もう? 寂しいな」 「家に帰ってからも会えるでしょうっ?」  照れ隠しなのか勢いよく手を引き怒ったような表情になるが、周囲を見回して他の客が見ていないのを確認してからコソっと長谷川に何やら耳打ちする。  実際のところ、周りの常連客たちは山岡が長谷川と付き合っていることを承知しているため、あえて見ないでいるだけだ。いつの間にかこの二人のイチャイチャを見ると、自分の恋愛が上手くいくジンクスがどういうわけか出来上がっており、以前は長谷川目当てだった女性陣も山岡が相手ならいいかと見事なほど手のひらを返していた。  どれだけ美人だろうが可愛かろうが女なら悔しいが、可愛い男の子なら大歓迎。まず土俵が違ったのだと諦めがつく。   「それは楽しみだ。いい子にしていようかな」  満面の笑みで頷く長谷川に、山岡が照れながらそそくさと去って行く。柚野が興味津々の表情であるが、長谷川に答える気は更々ない。これは自分と山岡の秘密だと言って、柔らかなパンをちぎって口に放った。 「正直、羨ましいですね。いいなぁ」 「今度は君の番だ。頑張って」 「だといいんですけどね……」  今日はまだひと目も見れていない、愛する料理人。しかも出てくることはないと教えてもらった。こうなると今日は本気で駄目だ。久しぶりに会えるかと思い、再始動以後初めてやって来たわけだが。現実はこんなものだ。 「柚野」 「はい?」  ラタトゥイユを食べる手を止めて、長谷川がニヤリを笑う。そっと柚野に顔を寄せ、声を低くして告げた。 「きっかけは、待つものじゃない。作るものだ。どんな手を使ってもね」 「……なんか、物凄く説得力がありますね」 「だろう?」  山岡を手に入れるために長谷川は、きっかけを用意した。長谷川が見せた山岡と祖母の写真がそれだ。本来長谷川はあの写真の中には入っていない。何故ならあの日、写真はそれぞれで撮影したからだ。山岡と律子。律子と長谷川。二枚。そう、あれは合成したもの。出会ったことは確かだが、彼はその事実を忘れている。無理もない。あの後、それだけのことがあった。思い出さなくていい。あんなことは忘れたままでいい。  だからこそ、長谷川には証拠が必要だった。律子との繋がりと、山岡と出会ったことがあるという確実な証拠が。  実際、山岡は写真を見せたことで長谷川と律子の接点を疑わなかった。更には長谷川が律子と同じ「尚」と呼ぶことも非常に効果的で、覚えていないことへの罪悪感があったのか強い嫌悪を示すこともなかった。  山岡の弱点は祖母の律子だ。彼女のことになると、山岡はかなり素直になる。写真と律子と相性。きっかけとしては十分であった。 「きっかけは、作る……か」  柚野の瞳が怪しく輝く。なんだか楽しそうな彼に長谷川も微笑んで、同士の恋愛成就を心から祈った。  長谷川と山岡はとても幸せそうで、柚野としても目当ての想い人と幸せになりたい。こちらとて生半可な気持ちではない。  もうじき久峨も帰国する。あの男も本格的に動くはずだ。遅れは取りたくない。今でも山岡が長谷川に落ちて警戒心を強めている。これで美津根まで久峨の手に落ちたとなれば、曽田は意地でも柚野に落ちてやるものかと闘志を燃やすだろう。  そんな曽田も可愛いが、好き好んで難易度を最高レベルにするほど酔狂ではない。百八十近い長身に爽やかな整った顔。世間ではこれを格好いいと言うのであって、可愛いと形容するのはごく一部だろう。しかし百九十を超える柚野には、例え百八十近く身長があろうと関係ない。つむじが二つあるところも最高に可愛くて、実は三白眼で目つきが悪いのを気にしているのがまた愛らしい。  これを本人に言うと怒るので言わないが、とにかく曽田は柚野にとって可愛い人だ。 「長谷川さん。ちょっと、お願いがあるんですけど」  不敵な笑みを浮かべる柚野に長谷川も目を細めて、耳を貸した。柚野のお願いとやらに声を出して笑い、何度か小さく頷く。 「そういうことなら喜んで協力するよ。任せてくれ」 「ありがとうございますっ」  礼を言って食べかけの食事を再開した柚野の表情は明るい。  さぁ、今度は自分の番。そう心に決めて、厨房の方をじっと見つめた。  柚野と曽田の恋は、まだまだ今日ここから。  恋愛成就への、はじめの一歩。
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