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まっずい。豪快に爆睡を決めてしまった。お陰で頭スッキリ。目覚めもスッキリ。いつ眠ったのか、全然覚えていない。寝室には山岡一人。大きく伸びをして、ベッドから下りた。着替えを済ませ、顔を洗いに昨日覚えた洗面所で向かう。途中、リビングの先からいい匂いがしてきた。
朝、七時。店舗の上で生活しているため、いつもはもう少し起床が遅い。ほぼ毎日短い睡眠を繰り返しているせいで、どうしても起床時間が遅くなる。圧倒的に足りない睡眠時間を補おうと体も頑張っているのだろう。
(そういえば、今日は体が軽い……)
洗面所で顔を洗いで口を漱ぎ、リビングに顔を出す。奥のダイニングでは長谷川が朝食を作ってくれていた。
「おはよう、ございます」
「おはよう。昨日はごめんね、ゆっくり眠れた?」
「はい、……とっても」
良かった、と笑ってくれる長谷川に、山岡は手伝うと申し出る。昨日の傷も早急に冷やしたのが良かったのか、あまり目立っていない。口元のテープが痛々しいが、明日にはそれも無くなるだろう。
「じゃあ、食器を出してくれるかな。こっちはもうすぐ終わるから」
「分かりました。キャビネット失礼します」
後ろにあるキャビネットから適当に食器を取り出す。キャビネットに並ぶ上品な食器類。一目で高いのが分かるものばかりだが、それよりも気になったのが食器の量だ。この食器の品数と量は、一人暮らしのそれではない。明らかに複数人のものであるし、昨日も思ったがこの間取りは広すぎる。
「長谷川さんって、本当に一人暮らしなんですか?」
「そうだよ? どうして?」
「だって……広すぎる、から。それに食器の量だって」
気になったことを口にすれば、長谷川が納得したように頷いた。
「食器の数は僕の趣味が料理で、友人に振る舞うことがあるからだよ。この部屋が広いのは、狭いところに住み慣れてなくてね。狭いと、なんか嫌なんだ」
なるほど。根っからのボンボンか。この金持ちめ。と、思いはするが口にはしない。曖昧に頷いて、箸を並べてながら取り皿をテーブルの上に置く。
「昨日、味噌汁飲みたいって言ってたから、余ってた茄子を具にしたけど良かった?」
「誰が、ですか?」
「尚が、だよ」
「いつ」
「昨日。僕の上で熟睡しちゃう前」
「う、上っ?」
そんな馬鹿なと言い返そうにも、なんとなく記憶の端に残っているものがそれを許してくれない。昨日、長谷川の傷を手当していた時、急に抱き締められてソファに寝転んだ。実際には長谷川の上で、そのまま眠ってしまったように思う。
昨日の失態を思い出して赤面し、山岡は分かりやすく耳まで真っ赤になった。何故長谷川がいると眠れるのかは自分でも分からないが、いくらなんでも恥ずかし過ぎる。あの後の記憶が全くない。ということは長谷川が寝室に運んでくれたわけで、山岡は自分の寝不足と睡魔を初めて恨んだ。
「……お世話をかけました」
「役得って、ああいうのを言うんだね」
「言いませんっ」
可笑しそうに笑う長谷川が料理を並べて、山岡も恥ずかしさを紛らわせるためにちょこまかと動く。テーブルの上に広がる見事な朝食。雑穀ご飯、茄子とネギの味噌汁、卵焼き、脂の乗った美味そうなホッケ、納豆、お新香。これレベルを毎日用意しろと言われた面倒臭いことこの上ない、見事で完璧な日本の朝食だった。
両手を合わせて二人で朝食を囲む。カツオと煮干しで出汁を取ったらしい味噌汁の、また美味いこと。ホッとする優しい味に、ご飯が進んだ。
「尚、今日は何時から?」
「今日は十五時からです」
ソルーシュの営業日は日によって異なる。月、水、金は午後三時から夜の十時まで。火、木は朝十時から夕方十七時まで。土日は夕方七時から深夜の二時までだ。今日は十五時。終わるのは二十二時だ。客層も曜日によって全然違う。火木は女性客が圧倒的に多く、月水金はファミリー層が多い。土日は基本、男性客が中心だ。店休日はその月によって異なる。
「じゃあ、ゆっくり出られるね。送って行くから」
「すみません、助かります」
「これも役得」
どこか愉しげな長谷川は放っておいて、納豆を手に取りかき混ぜる。納豆は最高だ。これ一つ食べるだけで体にいいことしている気がする。実際に栄養価も高い。家を出てから納豆には大変お世話になっていた。
「長谷川さんも納豆食べるんですね」
「食べるよ。尚は何入れる派?」
「俺は、特に何も」
「僕は大根おろしが好きなんだ。それを言うとビックリされるけど」
「大根おろしは初耳ですね」
「美味しいんだよ。クセになるっていうか」
そんな他愛もない会話をしながら納豆をかき混ぜ、朝食を食べ進めてゆく。昨日のだし巻き卵とは違い、今朝の卵焼きは甘い味付けだった。甘い卵焼きも大好きなので、朝から幸せな気分になる。
何気ない会話と穏やかな時間。朝から三回もお代わりをしてしまった。長谷川は朝からシャワーを浴びるのが習慣だそうで、昨日の露天風呂とは別にあるシャワーブースに消えた。この家、風呂が合計三つもあるらしい。全くもって信じられない。その間に山岡がテーブルを片付けて食器を洗い、帰る準備まで完了させた。
「片付けてくれたんだ。ありがとう、助かったよ」
「い、いえ」
シャワー後の長谷川は、なんだか雰囲気が違っていて視線が泳ぐ。長谷川は帰る準備ができていることに気付き、少し休んだら出ようと言ってくれた。もっと引き留められるかと思ったので拍子抜けだった。
(別に引き留められたかったわけでは、断じてないぞ)
誰に言うわけでもない言い訳をして、山岡は長谷川が戻ってくるのを一人リビングで待っていた。
そこへ一本の電話。長谷川ではない。今日は山岡の携帯電話だ。電話がかかってくることなんてほとんどないため、反応が遅れた。液晶画面に表示されている美津根の名前に、状況確認かなと電話に出る。
「はい、もしもし」
『山岡、僕だ。今どこ? 長谷川さんの家?』
「え、はい。もうすぐ戻ります」
『駄目だ、戻らないで』
切羽詰まった美津根の声に、山岡は嫌なものを感じ取って眉をひそめた。そこに長谷川が車の鍵を手に戻って来る。彼は山岡と目が合うと、強張った表情を見て足早に駆けて来た。
「あの、どうして戻っちゃ駄目なんですか?」
『店にハガキが届いた』
「ハガキ? 俺に?」
『……山岡、尚大からだ』
手元から、弾かれたように携帯電話が零れ落ちる。だがそれを気にしている余裕など、山岡にはなかった。山岡尚大。この世で一番聞きたくない名前だった。もう二度と関わりたくない男。体が大きく震える。奥歯が、ガチガチとうるさい。呼吸は浅く、視界は潤み、血の気が一気に引いていた。
「尚……? 尚っ」
長谷川が片腕で山岡を抱き、落とした山岡の携帯電話を拾う。
「もしもし、誰だ?」
『長谷川さんですか? 美津根です』
「何があった?」
『山岡の所在が、弟にバレました』
「……尚大か」
山岡が家を出た原因であり、夜眠れなくなった元凶。山岡の弟だが血の繋がりはない。一層強く震え出す山岡に、長谷川は表情を険しく歪める。
『ハガキに、近く会いに来ると書いてありました』
「……。分かった。後でかけ直す」
長谷川はそう告げて電話を切ると、震える山岡を抱えてソファに移動した。大粒の涙を流しながら震える小さな体。顔は痛々しいほどに青ざめ、恐怖でいっぱいになっている。
「尚、大丈夫だよ。ここに奴はいない。入っても来られない」
「でも、っ、でも……ッ」
「しばらく、ここにいよう。もしソルーシュに奴が現れたら、うんと遠くの地方に引っ越したと嘯けばいい。それまでは、ここに隠れて待つんだ」
濡れる頬を優しく拭い、長谷川が微笑む。長谷川の膝の上。何度も大丈夫だと言ってくれる彼に、山岡は少しずつ落ち着きを取り戻していった。本当に不思議なのだが、彼に頭を撫でられると恐怖心が和らぐ。根拠なんてないのに、本当に大丈夫だと思えた。
「昨日、尚が手当してくれて嬉しかった。慣れているから気にしてなかったけど、心配してくれて感激した。尚にとっては大したことじゃなくても、僕にとっては大きなことだった。だから、今度は僕が君を守ろう。男の子だって守られていいんだよ。いつも強くあろうなんて思わなくていい。僕も昨日は格好悪かった。でも君は笑わなかったし、優しくしてくれただろう?」
「だけど」
「尚」
迷惑がかかると言おうとした唇を指で遮られた。唇に触れる親指。顎をすくわれ、真剣な表情が向けられる。
「好きだよ」
「……っ」
「お願いだ。ここにいて? 君が心配なんだ」
囁く声。触れ合う額と額。心を支配していた恐怖心から、甘酸っぱい羞恥心に。引いていた血の気が赤面に変わり、心臓が違う意味で早鐘を打ち始める。
「いや、あの、っ、ですね」
「お願い」
「少し離れ、っ、長谷川さん……っ」
「照れてくれてるの? 嬉しいな。意識されてないと、照れても貰えないからね」
言われて益々真っ赤になってしまう。耳どころか首まで赤くなり、山岡は本気で狼狽えた。こうもハッキリと気持ちを伝えられたのは、まだ二回目。一度目の告白以来、長谷川は距離感を大事にしてくれた。それが今、急激に距離を詰められて動揺を禁じ得ない。
「ここにいてくれる?」
「あ、あの、いえ、ですけど」
「美津根くんもそれがいいって」
「そうなんですかっ?」
そんなことは一言も言ってないが、長谷川に事情を説明したのだからそういう意味合いも兼ねていたはず。でなければいくら長谷川が先に探っていたのだとしても、美津根が他人の繊細な部分を口外するわけがない。
美津根と長谷川の会話の内容を知らない山岡は、そうだったのかと青いのか赤いのか分からない顔で黙り込んだ。美津根のことは大変素直に聞く山岡である。彼が言うのならと、心が大きく傾いていた。
「もしもし、美津根くん? 僕だけど」
悩んでいる隙に、山岡の携帯電話を使って美津根に連絡を取る長谷川。まさか、と思って見上げた途端、長谷川からとんでもない台詞が飛び出した。
「尚は、しばらくウチで預かるよ」
「えぇっ? いや、まだ決めてなっ」
ちょっと待ってくれ。焦りながら携帯電話を取り返そうとする。しかし長谷川が器用に山岡の手を躱し、手元に戻ってきた時は既に美津根と長谷川の間で話がまとまった後だった。
『山岡』
電話口から聞こえる美津根の優しい声。慌てて電話に出る。
「は、はいっ」
『弟のことは僕たちに任せて。君はどこか遠くに引っ越したことにするから。それまではソルーシュに近づいてはいけない。いいね?』
「……でも」
『店のことなら心配しなくていい。店には僕が出る』
「そんなっ、駄目ですよっ」
『そろそろリハビリをと思っていたんだ。中々踏み切れなかったけど、踏ん切りがついた』
「美津根さん……」
『だけど、ちゃんと戻ってくるんだ。君はウチに必要な人間なんだから』
じわり、視界が潤む。さっきとは全然違う感情の高ぶり。電話先で何度も頷きながら、山岡は震えそうになる唇を開いた。
「はい……、はいっ」
嬉しかった。必要だと言われたこと。凄く、嬉しかった。ずっと不要な人間だと言われ続けてきた山岡にとって、それは存在自体を認めてもらえたことに等しい。グス、と鼻を鳴らして電話を切る。
「ソルーシュの皆は、本当にいい人たちだね」
「あの人たちに出会えたことが、俺の人生最大の幸運です」
大きく首肯して告げれば、頬に長谷川の指先が触れた。少し悲しそうな微笑みに小首を傾げる。
「……どうして僕は、海外にいたのかな。仕方ないとはいえ、君を助けるのは僕でありたかった。だけど過去は変えられないからね。僕は、ここから頑張るとしよう」
不意に視界が暗くなった。何、と思うより先に頬に何か柔らかいものが触れる。それが長谷川の唇だと気付くのに数十秒要し、何をされたのか理解した頃には長谷川は体を引いていた。
「は、は、長谷川さんっ」
「これから宜しくね。さっそく荷物を取りに行こうか」
「あの、約束、覚えてますよね? ね?」
しかし長谷川は何も答えない。代わりに美事なウィンクを決める長谷川に、職業を間違えてるんじゃないかと思った。歌舞伎町にも居場所がありそうだ。
「そうだ。今日は、別府温泉のお湯が届くんだった」
今思い出したように長谷川が言う。
「ぇ、……別府温泉? 大分ですか?」
「そうだよ。行ったことある?」
「ないです」
「あそこの地獄めぐりは、楽しかったなぁ。今度一緒に行こうね」
「地獄? 地獄があるんですか? 別府に?」
話を完全にはぐらかされていることには全く気付かず、山岡は別府温泉にあるという地獄に興味津々だった。どんなお湯が届くのだろうと目が輝く。二人で夕食の買い物がてら荷物を取りに戻ってからも頭から抜け落ちており、素直に荷物を詰めて長谷川の元へ戻った。
「今更ですが、ご迷惑じゃないんですか?」
「まさか。大歓迎だよ。今日はケーキとシャンパンを買って帰ろう」
ハンドルを切りながら、楽しそうに笑ってくれる長谷川。山岡も小さく苦笑し、あれだけ怖かった気持ちもすっかり消えていた。それがなんだかくすぐったくて、ちょっとだけ幸せだった。
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