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(これは本当に、いいのだろうか……)
一人部屋にしては広すぎるくらいの室内。和室を洋室に改装してある。物は少なく、最低限の家具が置いてあるだけ。ここは長谷川隼人の私室だ。長谷川はここに高校生まで住んでいたそうだ。
泰造と祖母の昔話に聞き入って、気付けば夕刻。夕食を摂り、ヒノキ風呂へ入って、あれよあれよとこの部屋に押し込められた。勝手にいいのだろうかとも思ったが、長谷川の困った顔が目に浮かぶという理由だけでここに寝ることになってしまった。
泰造のしてやったり感が、なんだかとっても可愛い。憎めないのだ。一方で滝川は頭の痛そうな表情をしていたけれど、何も言わずにベッドを整えてくれた。その他にも彼は、山岡がこっちに来たせいで今日届く予定の温泉や食材を受け取りに出向き、わざわざこちらに運んで湯に入れてくれた。今日一番忙しかったのは、間違いなく滝川だ。長谷川に山岡が実家に連れて来られたことを報せたのも彼だという。
夕食は寿司と天ぷら。長谷川に料理を教えたのは滝川であるらしく、調理師免許を持っている彼の料理は本当に美味しかった。
(……長谷川さんっぽいな)
洋書から漢書まで、日本の文字が見当たらない本棚。ダブルサイズのシックなベッド。デスクや椅子はそのまま。チェストの中には何もない。ただ一つ。チェストの上に、フォトフレームが残っていた。
家族写真だ。幼い少年の笑顔。幼稚園の頃だろう。面影が残っている。おそらく長谷川だ。その両隣で笑っている若い男女。細身の和装の男性。泰造によく似ている。彼が長谷川の父親だろうか。やけにやせ細っているのが気になる。実家と言う割に長谷川の両親の姿がないことと、関係があるのかもしれない。
三つ窓のフォトフレーム。中央に家族写真。右窓に園児服姿の長谷川とまだ若い泰造。左隣に目をやって、山岡は息を呑んだ。
「おばあ様……」
凛とした美しさの中にある柔らかさ。長谷川の肩を抱いて微笑んでいる祖母の姿に、涙腺が緩む。慌てて目を擦り、こんな幼い頃から親交があったのだと知った。
もう一度、長谷川の両親に目をやる。車椅子に腰掛けている男性。かなり細い。顔色の悪さが写真からでも分かるくらいだ。髪の色や目の色は、どうやら母親譲り。日本人離れした彼女容姿は、もしかすると日本以外の血が混じっているのかもしれない。長谷川のベッドに転がり、高い天井を仰いだ。
学生時代、彼はここで生活をしていたのか。そう思えば、なんだか不思議な感じがした。当たり前だが長谷川にも幼い頃があり、一年ずつ年を重ねて今の彼がある。山岡は辛いことばかりだったけれど、長谷川はどんな幼少期を過ごしたのだろうか。
チラ、と壁掛けの時計に目をやった。もう到着してホテルに入った頃だ。毎回フライトでいない時は連絡をくれるが、流石に今回は寄越すまい。昼間に連絡があったばかりであるし、祖父の泰造と言い争っているのも少しだけ聞こえた。
祖父の泰造は長谷川のことをとても大切に思っている。それだけは確かだ。家族仲が悪いわけでもなさそうだし、きっと家族だからこそ言いたいことも言えるのだろう。山岡はそれが少し羨ましかった。
「……もう、寝たかな」
明日は朝イチで飛ぶと言っていたから、早めに休んだことだろう。ごろん、とフォトフレームの方を向いて呟いて、ハッとする。さっきから長谷川のことばかり考えている自分にベッドから跳ね起きた。一体何を口走っているのだと狼狽え、大きく首を横に振る。
「今のナシ。ホントにナシ!」
あり得ない。信じられない。熱い顔を両手でパタパタを扇いで、山岡はベッドを離れた。寝る前にトイレにでも行こうかと立ち上がり、携帯電話の着信音に呼び止められる。
風呂に入る前、デスクの上に置いておいた携帯電話。ドキドキしながら手に取ると、相手は美津根だった。定期的に連絡をくれる彼からの着信に肩の力が抜ける。電話が長谷川でなかったことに落胆している自分に気付き、激しく動揺した。たかだか三週間一緒にいただけの相手だ。しかも同性である。あれだけ嫌がっていた相手に、何を考えているのだろう。
「も、もしもし。山岡です」
『こんばんは。今、平気?』
「もちろんです。美津根さんが最優先です」
『え?』
咳払いをして、なんでもないと告げる。
『あのね、山岡。実は……』
いつもの優しい口調ではない。言い淀む美津根の声に、喉の奥が窄んだ。無意識に表情が強張る。これは何かあった時の声だ。心臓が一つ大きく脈を打ち、手には汗が滲んでいた。
「……来たんですね。あいつが」
『うん。今日、昼に。一人だった』
早鐘を打つ鼓動。直接会ったわけではないのに、震えが止まらない。足に力が入らなくて、その場にズルズルとへたり込んだ。本当に来た。あの男が。弟が。もし願いが一つだけ叶うのなら、山岡はもう二度と弟に会いたくないと願う。関わりたくないと祈る。顔を見るのも嫌だ。声を聞くのも恐ろしい。平穏だった日常が崩れる音を聞いたような気がして、血の気が引いた。大丈夫だと言い聞かせても呼吸が整わない。
『山岡? 大丈夫?』
美津根の声。心配させている。こんなことでは駄目だと拳を握って返事をした。
「平気……、です。それで、その……あいつは」
『馨が対応して、ちゃんと引っ越したと伝えた。皆で話し合って、東北に行ったことにしたよ。君のおばあ様と縁の土地なら信じるかと思ってね』
祖母の律子は、元々東北の出身だ。幼い頃にこちらへ家族で引っ越してきた。確かに妙案だ。それなら信憑性がある。美津根たちにそれを話したのは大分前だが、覚えておいてくれたのか。
「スミマセン……。本当に助かりました」
『いいんだよ。それより、イメージと結構違ったから皆で驚いた』
美津根の言いたいことは分かる。だからこそ、本物の尚大が来たのだと唇を噛んだ。ソルーシュのメンバーは弟の顔を知らない。だが、山岡を探しているのなら自ら名乗ったはずだ。志間が対応してくれたらしいが、店に迷惑はかけなかっただろうか。
怖い。何もかもが、心底怖い。これで目を東北に向けてくれればいい。けれど、もしプロを雇っていたのなら難しいかもしれない。弟はまだ学生。プロを雇う金があるのかは怪しいところだが、親の金を使っている可能性もある。
『山岡。君はまだしばらくは、長谷川さんのとこにいた方がいい。あれは多分、信じていない』
「そう……ですか」
『こっちは知らぬ存ぜぬで押し通すから、っ、わ、コラ! まだ話の途中……っ。山岡ちゃーん! おーい山岡ー! 元気かーっ?』
志間と曽田の声が聞こえる。苦笑しているのは美津根か。
大好きなソルーシュの皆。強張っていた体から力が抜ける。
『今は我慢だぞ~。迷惑かけてるとか、自分が悪いとか絶対思わないで。悪いのは向こうなんだから』
「店、長……」
『そうだぞ、山岡。お前、ちゃんと食ってるのか? 痩せてねーだろうな? お前がいないと賄いも作り甲斐がねーよ』
「曽田さん……」
視界が潤む。泣きたくなんてないのに、気が弛んで頬を伝った。弟のことは本当に怖いけれど、皆がいてくれるのなら大丈夫だと思える。頑張れる。勇気を貰える。なんて心強いのだろう。
「ありがとうございます……。俺、ソルーシュに入れて、幸せです」
『え、ヤバい、山岡ちゃんがカワイーこと言ってる! え、あっ……まだ途ちゅ。……いいから代われ。もしもし、山岡?』
志間から再び美津根へと電話が代わり、山岡はベッドに腰掛けた。改めて礼を言う。
『いいんだ、気にするな。それより、くれぐれも気を付けて。外にはなるべく出ないように』
「はい、気を付けます。ご迷惑おかけしますが、あいつのこと……宜しくお願いします」
任せて、と美津根は力強く言ってくれた。そのまま電話を切り、ベッドに横たわる。いつか来るだろうとは思っていた。ハガキが届いたくらいだ。理由は分からないが、必ず来ると確信していた。山岡は顔を洗いに部屋を出てトイレに立ち寄り、部屋に戻る。扉を開けた瞬間、また着信が入って携帯電話を手に取った。
誰だ。知らない番号だった。山岡の番号を知っているのはソルーシュのメンバーと、連絡先を交換した長谷川のみ。電話に出る気になれなくて、携帯電話を持ったまま棒立ちになる。額に滲む冷たい汗。
可能性が恐怖心を煽る。いつまでも負けてはいけないと歯を食いしばるが、長年蓄積された恐怖心はそう簡単に克服できない。そのうち諦めたのか、電話が切れた。胸を撫でおろし、もう寝てしまおうとベッドに入る。
しかしまたすぐに電話が鳴り、微かに悲鳴が零れた。相手を確認するのも怖かったが、今度こそ美津根かもしれないと思い、恐る恐る携帯を開く。
液晶画面に表示された名前を見た瞬間、なんとも言えない気持ちになった。体から力が抜けるような、体温が上がるような、何故今なのだと理不尽なことを言いたくなるような、そんな感じ。きゅ、と唇を結んで、山岡は小さなボタンを押す。電話の向こうから聞こえてきた優しい声に、益々唇が引き結ばれた。
『こんばんは。今、電話大丈夫?』
口を閉じていては返事ができない。けれど変な声が出てしまいそうで、口を開けない。
『尚……?』
長谷川だ。今度はちゃんと長谷川だ。知らない番号ではない。早く返事をしようと思うのに、口が開かない。声が出ない。
『……。尚、相手の名前は分かる? 背格好でもいいから、僕に言ってごらん。それだけでいいから』
なんの話をしているのだろう。今度は意味を理解し損ねて無言になる。すると声に段々怒気が色濃く滲み、何かを勘違いさせているのだと気付いた。
『一回切るね。またかける』
「えっ? ぁ、……っ」
上手く答えられなかったせいで、電話が切れてしまった。何をやっているのだと、山岡は視線を落とした。たかが弟が店に来ただけでこうも動揺し、長谷川に何も話せなかった。これでは長谷川が呆れても無理はない。愚図な山岡に苛立ったのだろう。
仕事で疲れているのに電話をくれた。きっと自分の実家にいることを申し訳なく思ってのことだ。それを無下にしてしまった。携帯電話を見つめ、一言謝っておこうとメールを開く。
「そんな、我々がですかっ? いや、何も……っ、え? エエエエェッ?」
何やら扉の向こうがうるさい。滝川の声が近づいてくる。物凄い足音だ。何かあったのだろうか。
とりあえず長谷川に先ほどの件の謝罪と弟が来店した旨を報告すべく、メールを打った。メール自体に慣れていなくて何度か打ち間違ってしまい、やけに時間がかかってしまった。
「失礼しますッ!」
『誰が電話を切っていいと言った! 俺は尚にちょっかいを出した馬鹿を洗い出せと言ったんだっ!』
「違います。尚道さんのいらっしゃるお部屋に入ったんです」
『何?』
「いいんですか。被らなくて。猫。百匹」
『っ、テメェ……』
誰と話しているのか、息を切らして部屋に入って来た滝川。何やらニヤニヤしている。急に楽しそうだ。
「あの……、滝川さん?」
「すみません、いきなり。お休みのところ失礼します」
「いえ、大丈夫です。でも、……電話?」
「あー、いいんです。それより、うちの奴らが何かしでかしましたか?」
「何かって?」
「こう、嫌なことを言われたり、されたり」
「そんなっ、あり得ません。皆さん、本当に良くしてくださってます」
スマートフォンの液晶画面をこちらに向けて、滝川が満足そうに首を縦に振った。
「だ、そうです。お聞きになりましたか?」
『尚は優しいんだ。お前に直接文句を言うわけないだろう』
「そうは言いますけど」
『いや、待て。メールだ。……尚から?』
「は? え。ちょ、っ、あのっ」
切れたのか、滝川がスマートフォンを仕舞って盛大にため息をつく。何がなんだか分からない山岡は、困惑した表情で滝川を見上げた。そこへ今度は山岡に電話がかかってくる。長谷川だった。メールを見たのだろう。
『尚、あいつが来たの? 大丈夫だった? まさか会ってないよね?』
「大丈夫です。俺は長谷川さんの実家にお邪魔していたので」
『そう、良かった。ごめんね、気付いてあげられなくて』
「いえ。俺の方こそ上手く喋れなくて、スミマセン……」
『謝らないで。尚は悪くないんだから。だけど、本音を言えば傍にいたかったな。今すぐ君を抱き締めたい』
「な、っ、何を言ってるですか……っ」
耳まで真っ赤になって慌てる山岡だったが、視線を感じて我に返る。滝川が真顔でフォトフレームを手にして、中央の少年を指差していた。なんとなく尋ねられている意味が分かり、小さく頷く。
「はぁ……。千匹くらい被ってんじゃないかな……」
「え?」
『ん? どうしたの?』
肩を落として部屋を出て行った滝川の後ろ姿に哀愁を見て、山岡は目を瞬いた。なんだかとっても疲れた様子で、一体なんだったのだろうと思う。
「滝川さんが、何かを千匹被ってるって……。なんのことでしょう?」
『……なんだろうね。分からないな。それより尚、明後日まで僕が戻れないのが気がかかりだ。苦痛じゃなければ、もう一晩そこにいてくれないかな?』
「長谷川さんのご実家にですか?」
『そこだったら絶対に安全だから』
確かに。まさか弟も極道の屋敷を尋ねてはくるまい。何より泰造が弟のことを嫌っているようだった。何があったのかは知らないけれど、山岡を差し出すことはしないように思う。
「でも、ご迷惑じゃ」
『それはない』
きっぱりと断言され、山岡は小さく苦笑した。言おうが迷っていたが、さっきの知らない番号のことを長谷川に伝える。
『もちろん、出てないね?』
「はい、出ませんでした」
『いい子だ。一応番号を教えてくれる?』
メモしていなかったので後でメールすると伝えた瞬間、何やらドンっとぶつかる音を電話の向こうで聞いた。
『キャプテン~まら、お電話ちゅーれすかぁ?』
不意に聞こえてきた間の抜けた声。若い男の声だ。長谷川をキャプテンと呼んでいる。おそらく一緒に飛んだ副操縦士だろう。同じ部屋なのか。珍しい。いつもは大抵個室で、長谷川は一人で寝泊まりしている。
「今日は、二人部屋なんですね」
『ん? あぁ、元々は違ったんだけど、なんか霊感が強いそうでね。部屋に何かいると言って半泣きで来たんだ。流石に追い返すのも気が引けて……』
そうだったのか。霊の類は見たことがないが、祖母は霊感がとても強かった。あれはあれで大変なようなので、彼の気持ちも分からないわけではない。
『待て。君、まさか酔ってるのか……? いくらなんでも不謹慎だぞっ?』
『飲んれまセン! チョコ食べますたぁ』
『チョコ?』
呂律の回っていない副操縦士の男の声が、やけに近い。長谷川が何やらガサゴソと探っている音がする。すぐにため息が聞こえた。
『洋酒入りのチョコを食べて、本当に酔う子がいるのか……。もしかして、君が持ってきたのか?』
『いーえ、さっきホテルの方が差し入れだと言って、くれますた~』
「受け取るんじゃない。まったく、……っとと。コラ、抱きつくな』
『キャプテ~ンはぁ、おれのぉ、憧れれす!』
『分かったから離れなさい、っ、どこを触って、だから抱きつかないでくれ』
「……」
『尚、ごめん。今日は切るね。明後日、迎えに行くから』
『キャプテン! 一緒に寝ましょー!』
『何故、僕が君と』
『裸の付き合いは男の親睦の証!』
『意味が分からない……』
盛大なため息を最後に電話が切れる。山岡は切れた携帯電話を握り締めたまま、生まれて初めて経験する感情に固まっていた。胃の辺りを摩り、首を傾げる。なんだろう。変な感じだ。物凄く胃の辺りがムカムカしている。妙に気分が悪い。眉間に深い皺が寄っており、口も見事なへの字。完全に顔が強張っていた。
「夕飯、食べ過ぎたのかな……?」
まさかそれが長谷川のせいだとは思いもせず、山岡は早々に寝支度を済ませて床についた。
きっと明日になれば元に戻る。そう信じて疑わない。けれど朝になってもモヤモヤは全く晴れてはくれず、山岡は翌朝の朝食を残してしまい、泰造と滝川を蒼白させることとなる。
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